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2023年6月11日説教全文「よろしい。清くなれ」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書1章40~45節

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

〇説教「 よろしい。清くなれ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。イエス・キリストが復活された週の初めの日に、こうして皆さんと共に礼拝できる恵みを心より感謝します。今日も初めて教会に来てくださった方、久しぶりの方もおられます。心より歓迎します。皆さまにはそれぞれ、今日、教会に行こうと思ったきっかけがあることでしょう。その心の内にある求めに神さまが応えて下さいますように祈ります。そして今週も皆さんの一週間の歩みの上に主の恵みと守りを祈りつつ、、私たちの信仰の土台であるイエス・キリストの御言葉から希望と力を頂いて参りましょう。

本日の礼拝は〔花の日〕主日礼拝です。例年では花の日礼拝は、お花を持ち寄り、自然の恵みに感謝すると共に、礼拝後にはそのお花を持って病気の方々をお見舞いしたり、警察署や消防署など、公の働きのためにご奉仕してくださっている方々を慰問したりします。今年は例年のようにお花を持ち寄ることはしておりませんが、今後また改めて自然の恵みに心を留めて感謝をし、またその恵みを分かち合うことを行っていきたいと思います。

ところで皆さんは花の日がどのように始まったかをご存じでしょうか。実は花の日はキリスト教暦にちなむ記念日ではありませんが、19世紀にアメリカの教会の教会学校から始まったそうです。現在、花の日は6月第二週に守られますが、アメリカではその時期に夏の花々が咲き始めるようです。子どもたちがその色とりどりの鮮やかな花々を持ち寄って教会堂に飾り付け、大人と共に礼拝を守ります。そして礼拝後には、そのお花を持って病気の方々などをお見舞いし、あるいは公の働きをされている方々へ感謝を表すのです。ポイントは、この日は子どもたちと共に守る礼拝だと言うことです。

今日の礼拝の中では小学科のみなさんが手話讃美をしてくださいました。心より感謝します。今日はメッセージに続く導入として、子どもたち向けのお話を短くしたいと思います。皆さんはお花は好きですか?何の花が好きでしょうか。教会にも色とりどりのお花があります。見た目に美しい、大ぶりの花もあります。小さな花をいくつも咲かすお花もあります。おいしい実を実らせるお花、香りのすごく良いお花もあります。教会にも色々なお花があります。アガパンサス、アカンサス、柏葉紫陽花、オリーブ、ローズマリー、トマト、ぶどう。素敵なお花は多いですが、でも名もないようなお花もあります。

イエスはこう言っています。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。

野の花というのが、この名もなき花のことだと言われます。つまり、神様はそれぞれのお花が自分自身の花を咲かせられるようにいのちを与えてくださいました。私たちも神さまによって大切ないのちが与えられています。どんなお花を咲かせるかはわかりません。しかしその花は、ソロモンというイスラエルの一番力のある時の王さまよりも着飾っていると言うのです。神さまは、その野の草でさえ装ってくださるのだから、まして私たちにはそれぞれに大切な恵みを神さまは私たちにお与えくださっているのです。そしてあなたの咲かす花を神さまは大切に思っておられるということなのです。是非そのことを皆さんには心に留めていただきたいと思います。

でも、現実的な問題は私たちがそういう命であることを私たち自身が忘れてしまうことがある。或いは他の花と比べると、あの人は名もなき価値なき野の花のようだと差別してしまうことがあるということです。どんなにそれぞれの命が尊いと言われても現実として課題がある。今日の聖書個所が実に象徴的だと思います。
イエスの元に重い皮膚病を患った人がやってきました。彼は言います。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。皆さんは誰かがやって来て、このように言ったとしたらどんな印象を持たれるでしょうか。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。なんか不遜な言い方だと感じないでしょうか。イエスに清くしてほしいなら、他の方がしている、ひれ伏して憐れみを乞い願い、「イエス、どうかわたしを清くしてください」。と遜っていうならば、「そのような態度であればよし」。と思うのではないでしょうか。「御心ならば~おできになります」という言い方に、なんとなく傲慢さを感じるのは私だけでしょうか。
しかしながら、イエスは彼の言葉を聞いて、彼のことを深く憐れんで、更に手を差し伸べて彼に触れて「よろしい。清くなれ」と言います。これは言語に忠実に訳すとこういう言い方になります。「わたしは願う。あなたが清められることを」或いは「わたしはあなたが清くなることを願う」と言うのです。
何故イエスさまは、彼をそのように受け止められたのでしょうか。癒しを求める者と癒す者の関係性を考えれば、少し不思議さを感じるように思います。でも、それは先週の聖書個所からの文脈で考えるとわかりやすく思います。つまり、イエスさまが先週の箇所にあった一人で過ごした祈りの時、神との対話の時を通して、救い主としての自らの役割、働きをしっかりと見つめていたということです。その働きは、まさに救いがないと思われる世界に生きていた人に救いを告げることに他ならないのです。
彼は重い皮膚病を患っていました。これはギリシャ語ではレプラと言い、かつてはらい病と訳されていた言葉でした。現在はハンセン病として知られていますこの皮膚病は現在では感染力は弱いということが明らかになっていますが、聖書の世界で最も恐れられていた感染症の一つでした。らい病は細菌が皮膚と神経を犯し、患部の感覚麻痺を起こします。そのため、身体に傷ができても傷みを感じず、早急な手当てができず。傷口が広がり、身体の一部欠損などが起こるようになります。当時は細菌の存在も明らかにならず、皮膚病が拡がって行ったことから、原因不明の恐ろしい伝染病、適切な診療ができなかったのでしょう。患者たちは律法によって隔離生活を余儀なくされるようになっていました。かなり古い映画ですが、聖書を取り上げた映画「ベン・ハー」などには、らい病にかかった方々の悲惨な生活の有様が描かれています。興味のある方はどうぞご覧ください。戦前の日本でも「らい予防法」により、家族関係や様々な関係が経たれ、隔離施設に収容されたという事実が明らかになっています。本当に悲しい歴史です。

さて、重い皮膚病患者はそのような背景を背負っていた人でした。本来ならば、街中まで出かけてくることが許されなかった人です。しかしそんな人が、イエスさまの元にやってきたのです。恐らく彼にかけられる周囲の視線は厳しいものがあったでしょう。まるで腫れ物に触るかのように疎ましく、また侮蔑の声をあげられたかもしれません。「なんであんな奴がここにきているのか。早くあっちに行けばいいのに。近寄らないようにしよう」。恐らくこの患者が清潔を保っていたことは考えにくいので、からだも服もボロボロであり、汗と汚れによる匂いもあったことでしょう。私たちはそのような方が自分のところに来たらどう思うでしょうか。「かわいそうにとは思うかもしれません。しかしわたしでなくてよかったとか、あの人はどうせ何か悪いことをしたからああなったのではないか」と思うことも一方であるのではないでしょうか。
つまり、彼には、神の恵みとか憐れみどころか、人々の助けなどそういう暖かいものがまるでない環境にいたのです。彼の心情を考えるとその思いはあまりあります。彼の発言はただ純粋に癒されたいと言うことではありませんでした。この彼の発言を今一度、考えてみるならば、このように受け取ることもできるのではないでしょうか。「なんで自分にこんなことが起きたのか。答えが欲しい。なんで自分だけがこんなに苦しむのか。救いがほしい。自分が何か悪いことをしたのか。誰も助けてくれない。神さえ私を見放したのだろうか。わたしは、神の憐れみから外れた人間なのだろうか。神の恵みを受けるにはふさわしくない人間なのだろうか。それならば何故私は生かされているのか。何故私は生まれたのか。神の御心はどこにあるのか。教えてくれ。助けてくれ」。彼は、恐らく病気を恨み、また周囲をねたみ、自分を恨み、その一つの答えを求めて、イエスさまの元にやってきたのではないでしょうか。彼はただ憐みを乞うというよりも、神の御心が知りたかったのではないかとわたしには感じられるのです。

イエスは、彼の言葉を聞き、深く憐れまれました。この憐れみは、自らの腸が千切れそうになるほどに相手のことを深く思ったということです。癒されること以上に、神の御心が自分に向けられていることを求めている人がいる。イエスは彼の言葉に動かされ、恐らくこれまで誰も触れることはなかったであろう彼の手に触れ、「よろしい。清くなれ」。と宣言されました。これは「あたりまえではないか。もちろんだ。私はあなたが清くなることを願う」という意味です。その瞬間、彼は清められました。癒しと言う言葉ではありません。きよめとは、祭儀的な汚れからのきよめであり、神の言葉によってその人が綺麗にされることです。恐らく単なる癒しだけではなく、その人の心に慰めが与えられ、傷ついた心がぬぐわれるということも含まれていることかと思います。自分は決して神の目から漏れている存在ではない。神の御心の内に自分がいるということは、私たちの大きな慰めと喜びに繋がるのです。彼の心に起きた感動はどれほどのものでしょうか。彼は癒された後、イエスがけっこう厳しめに「誰にも話してはいけない」と言われているにもかかわらず、他の人に話してしまったのは、そのような感動のなせるわざです。このように人を人として見るところに、多くの人が集まるのは、当然のことです。
イエスの交わりとは、そういう場所です。人が人としていれる場所です。どんな人でも来ることができる場所、受け入れられる神の国です。しかしながら私たち人間は、色々な色眼鏡を持って人を裁いてしまうことがあるのではないでしょうか。少し長くなりますが、一つの譬え話をお読みします。これはハワード・クラインベルという人が書いた『牧会カウンセリングの基礎理論と実際』の第一章の冒頭に書かれている譬え話です。
「船の遭難がしばしば起こった危険な海岸に、粗末で、小さな水難救護所があった。建物といえば、小屋が一つ、ボートもわずかに一そうだけである。しかしながら、献身的な少数のメンバーが常に海上の見張りにあたっていた。彼らは、自分たち自身の事はかえりみず、昼夜、絶え間なく、遭難者がいないかと見回っていた。多くの人命が、このすばらしい水難救護所によって救われ、そこは有名になった。助けられた人々や、そこの周囲の人々が、その水難救護所を支援したいと思うようになり、その働きを支えるために、時間や金や努力を捧げた、何そうかのボートも新しく購入され、新しい乗組員の訓練もなされた。小さな救護所は、拡張されていった。水難救護所のメンバーのある者たちは、建物があまりにも粗末で、設備も不十分だと不満を覚えていた。海から救い出された人々のための最初の救護所としては、もっと快適な場所が用意されるべきだと、彼らは感じたのだった。そこで、寝台のある救急室が改造され、広げられた建物の中に、りっぱな家具を入れた。いまや救護所は、そのメンバーの良い集まり場所になった。彼らは、そこを一種のクラブのようにして用い、美しく飾り、実によく整えた。ところが、ほとんどのメンバーが、人命救助のために海へ出ていく興味を持たなくなってしまった。そこで彼らは、その仕事のために、救助船の乗組員を雇った。人命救助の主旨が、このクラブの飾り物として、なお掲げられていた。クラブが創設された室には、それを象徴する救助船も置かれていた。その頃になると、大きな船は、海岸から離れた沖合いで難破した。雇われた乗組員は、冷えきってびしょぬれになった溺死寸前の人々を運んできた。彼らは汚れていた。病気にもなっていた。ある者は、黒い皮膚や黄色い皮膚をしていた。美しかった新しいクラブが汚れ始めた。そこで、難破船の遭難者が中に入ってくる前に、身体を洗えるように、建物の委員会は、ただちに、クラブの外側にシャワー用の建物を作った。
次の会合のときに、クラブは分裂した。メンバーの大部分はクラブの人命救助活動をやめることを望んだ。クラブの正常な社交活動を不愉快にし、また妨害するからである。しかし、ある会員たちは、人命救助こそ、彼らの第一目的であることを主張し、ここが水難救護所と呼ばれているではないかと指摘した。しかし、結局、彼らの主張は拒否された。そして、この海上で難破したいろいろな人種の、すべての人々の生命を救いたいのなら、海岸の下の方に、別の救護所を造れと言われた。彼らはそのようにした。
長年たつうちに、新しい救護所は、古いものが歩んだのと同じ変化をたどった。歴史は繰り返す。いまその海岸を訪ねれば、海岸にそっていくつもの排他的なクラブが立っているのを見るだろう。その海上で難破はいく回となく起こっている。しかし、大部分の人たちは溺れている」。
皆さんは何を感じられたでしょうか。恐らくこの譬え話はイエスの姿と教会の姿の乖離があると言うことを指摘しています。私たちは皆、それぞれの時に救いを求め教会に繋がったのに、隣人の痛みに鈍感になり、その原点を忘れてしまうことがあります。求める者との人格的な出会いをさておき、他のことが優先になってしまうことがあるのです。イエスは、周囲から排除されたこの人と出会い、対話をし、触れました。この人格的な出会いがイエスの福音であり、教会の最も大切にすべきことです。そのただ中に救いという出来事、それぞれの命が復活する出来事が起きる。これが神の国です。私たちの教会はイエス・キリストの教会です。神の御心から離れてはなりません。この出会いの中に神の国が実現するということを、改めて心に留め歩んでいきましょう。

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