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2023年12月3日説教全文「神の国の実現を祈り求める」牧師:西脇慎一

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〇ルカによる福音書 17章20-21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。

〇説教「神の国の実現を祈り求める」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。いよいよ12月に入りました。今日はキリスト教の暦で言えば待降節第一主日礼拝です。待降節とは英語で言えばアドヴェント、到来という意味があります。何が到来するか、それは救い主です。救い主の到来を待ち望む季節、これが待降節です。実は待降節自体は聖書には根拠はありません。しかしながら、救い主の誕生が私たちの喜びになるのは、やはり私たちが救い主を待ち望んでいるからです。ですからこのアドヴェントを通して、救いを改めて考えていくことが重要なのです。今週も主の恵みと守りの内に皆さまの歩みが守られますようにお祈りします。また本日の礼拝は西南学院バプテスト教会の「創立101周年記念礼拝」です。これまでの歩みが主の恵みと守りの内に導かれてきたことを感謝すると共に、これからの歩みの上に主の導きと守りを祈り求めたいと思います。

私たちは昨年12月4日に100周年記念式典を開催し、それに先立つ11月13日には、この教会の第10代牧師の就任感謝礼拝を執り行いました。その中で、私は皆さまの信頼の内に働きが委託され、按手を受けることを通して牧師の働きを受諾いたしました。主任牧師の交代、100周年を経てこれから新しい歩みを踏み出していくという記念の出来事を迎える中で、私たちはそれぞれこの教会の使命というものを考えたと思います。使命とは、教会の存在理由の根幹に関わる極めて大切なものであす。そして私たち教会の使命は、「西南学院、西南幼稚園に連なる人々を始め、地域の方々への福音宣教」であります。その働きのために、アメリカ南部バプテスト連盟の数多くの宣教師が来日され、福音宣教に取り組んでこられました。日本の信徒たちもまた福音宣教に取り組み、諸教会が誕生したのです。西南学院はこの働きのために造られました。そして西南学院バプテスト教会もおまたその働きのために101年前に創立しました。イエス・キリストの福音宣教の働きのために、この教会が101年もの間、存在し続けたのです。それでは、その中心となっているイエス・キリストの福音とはいったい何なのでしょうか。皆さんはイエス・キリストの神の国の福音をどのように考えておられますか?

今日はそのことを考えるためにルカによる福音書17章20-21節を選ばせていただきました。もう一度お読みします。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
キリスト教会では一般的に神の国の到来について、およそ二つのことが考えられています。一つ目は、いつの日にかイエス・キリストが再びやってくるときに神の国がやって来るということです。これはパウロが語っている内容でもありますし、聖書に書かれている伝統的な解釈です。もう一つは、世界バプテスト祈祷週間の目的の一つでもありますが、すべての国民が主イエス・キリストを信じた時に神の国が実現するということです。これはキリスト教会の福音宣教の歴史から生まれた考え方でもあると言えるでしょう。
それではキリストの福音として語られていたことなんでしょうか。おそらくイエス・キリストの十字架と復活の出来事だと思います。すなわち、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。だから私たちはイエス・キリストを信じることで罪が赦され、天の御国で永遠の命を得ることができる。だから、悔い改めてイエス・キリストを信じなさいということです。よく贖罪論と言われます。

これは、確かに聖書に根拠づけられている一つの教えではあります。十字架、罪の身代わり、復活。福音書すべてがそこに集中していますし、その意味を明らかにしようとしています。わたしたちも罪びとですから、罪許されて新しい命となって生きることはとても大切です。しかしながらその一方で、それが福音と言われた時に、それでは生前のイエスの姿はどこに行ってしまったのか、イエスの教えはどうなってしまうのかという疑問が起こります。さらに言えば、イエス・キリストを信じなければ救われないのか、イエス・キリストを信じないと天国に入れないのかということにもなってしまうのです。

イエス・キリストの誕生の知らせ、救い主誕生を告げ知らせた天使は贖罪論を語ったわけではありません。ルカ福音書で最初に救い主誕生が呼びかけられたのは、羊飼いでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。(ルカ2:10-12)

これはごく単純に言えば、羊飼いという貧しく弱い立場の者たち、言い換えれば救いなんて程遠い世界の片隅に生きている者たちに神の目は届いていると言うことであり、かつ飼い葉おけという彼らの日常生活のただ中に救い主がお生まれになったと言うことです。この羊飼いたちが清く正しく生きていた、救い主を信じていたから、或いは十字架と復活を信じていたから天使が来たと言うことではありません。むしろ神の恵みの告げ知らせは、わたしたちがどんな状態は全く問われずに、神の側から一方的に私たちに開かれているものなのです。神の国というものもまた同様だと言えるでしょう。

ちなみに神の国とは、ギリシャ語では神が王として支配する国を意味します。神が王となるとは、神の愛が法であるということです。つまり、神の愛された者たちが一人一人欠けるところがなく、神の愛に満たされるところであると言えるでしょう。そもそも神が創造された世界の中で、人々はまたそれぞれ違う個性を持った異なる形に造られました。神は「人を土の塵で形作られ、命の息を吹き入れられた」とあります。つまり、人間たちの個体の違い、個性の違いと言うことから考えると、その創造工程は、機械的な均一化や単純な優位性を求めるものではなく、性別の違い、個性の違い、人種の違い、肌の色の違い、それらすべての多様性を好み、創造され、命を吹き込まれたということです。ですから神の国とは、そういう違いが受容され、愛され、共に生きていける世界のことだと言えるでしょう。

私たちの世界は、特に今はナショナリズムという単一主義の思想が台頭し、違いを元に対立し、分断を引き起こしています。それは私たちの日常生活にも起きているものです。私たちの生きている社会は、神の御心と遠く離れた世です。しかしながら、神の国というものがいつか来る。今は苦しい現実は確かにあるけれども、神さまが必ず私たちを慰めてくださる。その希望があるからこそ、私たちは忍耐しながらもなんとかその言葉にしがみついてやってきていると思うのです。

神の国が実現することを心待ちにしている私たち。しかしそんな私たちにとって、ここでイエス・キリストが言っている「神の国はあなた方の間にあるのだ」という言葉は、私たちが考えていることと違うような印象に聞こえるのではないでしょうか?それは神の国というものがすでにやってきている、実現しているかのような言い方に聞こえるのです。イエス・キリストは果たしてこの言葉を通して、私たちに何を教えようとしているのでしょうか。

まず、今日の聖書箇所の文脈を考えてみたいと思います。このイエスの言葉は、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねることから始まっています。何故ファリサイ派の人々がこの質問を投げかけたのかということはよくわかりません。ただ、イエス・キリストがそのあとに「人の子がやってくる日」、つまり「再臨」と呼ばれる日、この世の終わりの日について語っていることからすると、恐らく人々の心には、世の終わりの時がどのようにやってくるかということに関心が高まる状態があったのではないかと思うのです。聖書箇所を読んでみると、その日には色々なことが起こる。そして人々も色々な噂や情報に流されて混沌としているかのような状況が起きることが書かれています。

私たちもまた今同じような状況に生きているとも言えるでしょう。不安定になるとき、私たちは世の終わりを考えますし、どのようにしたら命を守ることができるかを考えます。実際、不安に付け込んで人々の心を支配しようとする力もあります。今日の聖書個所の後には、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出かけて行ってはならない」とあります。そういう忠告があると言うことは、わたしたちはそのようになってしまう可能性があると言うことです。「偽預言者に注意しなさい」とも言われます。しかしそういう言葉があると言うことは、やはり私たちは神さまを信じ、神さまの言葉に忠実に生きれば助かる、あるいは自分たちは神の国に入れると思う人々もいることでしょう。

そしてまさに今日の聖書の中でまさにそのように神の国が実現することを願い、そしてそのために労苦をして生きていたその代表格が、ここで出てくるファリサイ派という方々でした。

ファリサイ派の人々と言うのは、ユダヤ教の中でも特に神の言葉である律法を順守して生きることを願い、そして実際にそのように行なって生きていた人々でした。ファリサイ派という名前には、「分離派」という意味があるのですが、それはつまり普通に暮らしている一般のユダヤ人とわたしたちは違う存在なのだ。神さまの言葉を軽んじることなく、まじめに生きて行くのだという強烈な自己認識があったわけです。だから彼らから見たら、そこらへんに生きていて、律法を守っていない人々は「罪びと」だと差別視してしまうことがあったわけです。彼らがそう思うようになっていった理由もあります。何故ならファリサイ派の人々は、バビロン捕囚という強烈な反省に立つことで、自分たちを神の民としてきたグループであるからです。ですから、新約聖書においては彼らはイエス・キリストの論敵であるかのように書かれていますが、彼らは純粋にまじめに神様の言葉を信じて生きることを大切に考えていたのです。そういう彼らからすれば、律法を守らず、律法を自分の言葉で言い換えているようなイエス・キリストこそ、都合の悪い存在、まさに神を冒涜しているように見えたのでしょう。信仰の純粋さ、まっすぐさ、あるいは必死さ、切実さの故に、人を差別してしまうということが私たちにはあるのです。そしてそのような私たちが考える神の国というものは、理想化された、選ばれた人しか入れない国なのではないでしょうか。しかし果たしてそういう国は、本当に神の国なのでしょうか。

イエス・キリストが、ここで「神の国はあなたがたのただ中にある」と言った理由、それは、イエス・キリストがやって来られたことから神の国はすでに始まっていると言うことなのです。イエス・キリストの福音宣教の初めは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。(マルコ1:15)という言葉でした。近づいたと言う言葉にはまだ完成はしていないと考えられるかもしれません。

しかしイエス・キリストによってそれは始まったのです。時は満ちた。時とは、ギリシャ語では時の流れを洗わすクロノスと、巡り合わせや機会を意味するカイロスがありますが、ここではカイロスです。イエスによってその時がやってきたと言うこと、つまり悔い改めて福音を信じた時にそれが実現すると言うことなのです。しかし、悔い改めてというのが引っかかります。罪を悔い改めるという言い方はよくあります。しかし罪びとに過ぎない私たちですが、神の国が近づいたのだからと言って悔い改めてることは出来るのでしょうか。それは果たして、ファリサイ派の人々が言っている通り、神の言葉に従って生きて行きなさいと言っているのと同じように思ってしまうのです。

しかし、実はここに大きな違いがあります。イエス・キリストの神の国はまず近づいてきたのです。先ほどの羊飼いたちと同じです。何もできない罪びとである私たちにまず近づいてきた。神の国なんて間違っても入れないと思うような、悔い改めすらできない罪深い私たちに神の国が近づいてきたのです。自分たちは神を信じているから大丈夫と思えない裁かれて当然という罪びとたちに語られたのです。だから私たちは悔い改め、これは原意では立ち帰り、方向転換を意味していますが、神の国の交わりに共に生かされることができるのです。これは私たちが考えている神の国とはまるで違うことだと言えるでしょう。しかしイエス・キリストの福音は、まさにそのような者たちをも含む広がりのある世界が神の国だという福音なのです。

この神の国の具体について、一番イメージしやすいのは、やはり良きサマリア人のたとえだと思います。簡単に説明します。ある人が旅の途中に強盗に襲われました。ある人というのは、便宜上男性形で書かれていますが、「人」という言葉です。つまり、民族も性別も宗教も人種も住所も仕事もわからない人です。その人が強盗に襲われました。そこを通りかかったのは祭司、レビ人、サマリア人でした。祭司やレビ人はユダヤ教の指導者であり、人助けが最も期待される職業人であったと思います。しかし、彼らはその人を見ると道の反対側を通っていきました。なぜ関わらなかったのか、色々な理由が考えられます。しかし恐らくこの襲われた人がユダヤ人であったら、彼らは助けたのではないかと思います。彼らはその人が自分と関係ないと思ったから見過ごせたのです。最後にやってきたのはサマリア人でした。彼はその人を見て憐れに思い、彼を介抱することになりました。何故自分とは関係のないその人を助けたのでしょうか。関わらない理由なんていくらでも考えられたと思います。しかし彼は助けたのです。その理由は「憐れに思い」という一言に表されています。かわいそうだと思ったのです。ほおっておけなかったのです。ギリシャ語では「スプランクノン」という言葉が使われていますが、自分の腸が引き裂かれんばかりの憐れみを覚えたので、彼は助けずにはおれなかったのです。
イエスは問います。「誰がその人の隣人になったか」。律法の専門家は答えます。「その人を助けた人」です。イエスは言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。
隣人とは誰か。ではなく、隣人になっていくということ。その人がどんな人であるかなんて関係ない。その人を助けずにはおれない。それがその人の隣人になることだと言います。そしてまさにイエス・キリストが見ず知らずの私たちに出会ってくださった。そして共に生きていけること。これが神の国なのだと思うのです。私たちは救われる価値もない罪びとたちです。今も倒れている人を見ても私たちは憐れに思うこともなく道の反対側を通っていってしまっているでしょう。しかし、そんな私たちを憐れんで助けに来てくださるのが、インマヌエル~我らと共におられるイエス・キリストなのです。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」。この言葉は、イエス・キリストから始まり、またイエス・キリストが私たちに期待してくださっている言葉です。ここに私たちキリスト教会が歩んでいく道があり、神の国が実現するのです。共に祈って参りましょう。

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