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2023年11月26日説教全文「世界の人々と主の祈りを!」牧師:西脇慎一

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〇マタイによる福音書 6章5-15節

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。

〇説教「世界の人々と主の祈りを!」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。暖かな陽気が一転して寒い週末を迎えることとなりました。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。

本日の礼拝は、「世界祈祷主日礼拝」です。礼拝の中では、先ほど国外伝道の紹介と世界祈祷のアピールが行われました。私は連盟の国外伝道臨時委員の一人ですので、先ほどの説明にもう少し加えたいことがあります。実は今、連盟ではこれからの国外伝道の在り方を考える時期に入っており、国外伝道の理念を転換し、「宣教師派遣中心の国外伝道から、今共にキリストを告白する国際宣教へ」というテーマで歩み出すことを検討しています。国外伝道と言うと、これまでは働き人を国外へ派遣し、支援すること。そしてその働きの報告を聞き、共に祈ることでした。その働き人たちの報告は豊かであり、私たちは時に新しい気付きを与えられたり、悔い改めをすることもありました。その働きを推進し担ってくださったのは、女性連合であり、姉妹会の方々でした。心より感謝します。

しかし現在、時代の変化と共に、かつて国外でしか与えられなかった出会いは、国内でも与えられるようになりました。様々な国籍文化で生きてきた方々が、同じ町、隣近所に住むようになっています。いまや国外国内という区分はなくなり、国際的に世界は広げられています。「今、共にキリストを告白する」という言葉には、そういう関わりの中でキリストの福音に共に生かされていくということが示されています。かつてはここに掲示されているように「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。(マルコ16:15)といういわゆる大宣教命令が旗頭となり、キリスト教を布教するすることが目標にされていましたが、現在私たちは、ヨハネ17:18「私を世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」と言う言葉のように、世界のただ中に生かされている者として、神の愛を共に分かち合いながら生きて行くという方向転換が起こっているのです。
先ほど女性連合の支援団体の紹介もありましたが、まさに共に生きて行くということの支援です。この方針転換が今年度の連盟総会で協議されます。わかりやすく言えば、私たちも世界に遣わされてここに生かされている者として、自分たちで出来る国際宣教に取り組んで行こうということです。共に祈って参りましょう。

さて、今日は説教題を「世界の人々と主の祈りを!」とさせていただきました。よくよく考えて、「共に」という言葉を入れて、「世界の人々と共に主の祈りを!」としたいと思います。何故かと言うと、やっぱり共に祈りたいと思うからです。

私たちの世界は現在、対立による分断と争いの中にあります。対立とは基本的に自分たちとそれ以外のものを線引きして、その主張を対抗させることです。その対立の激化によって私たちは自分たちを守るために相手と戦う、或いは自分たちと異なる者と関わりを持たなくなって、相手を排除したりすることに繋がっています。もはやこの世の対立構造は言及するのが嫌になるほど、周りを巻き込んで拡げられ、さらに深刻になってきており、もはや関係性の修復は不可能になっているのではないかと言う現実があります。世界の東の果てであるこの小さな島国でさえ、その中に巻き込まれていますし、そういう状況の中で、今度は国内に住む異なる状況の人たち同士が対立させられています。

ある意味で言えば、自分たちとそれ以外を区別するということは、自分たちを守るための考え方であるとも言うことができます。しかし、だからと言ってそれは自分たちはだから正しい、違うものは排除して良いと言うことには繋がりません。それぞれの対立にはそれぞれの意見がその背後にあるからです。そして、時に自分たちの主張は神、或いは聖書が肯定していると思い、それを貫き通そうとすることがあります。双方がそのように自己を絶対化する中で、対立は深められるのです。キリスト教を国教とする国々や、聖書の舞台となっている地域で戦争が起こっていますが、これは相互を正当化するために神が利用されているという現実があります。聖書には、戦争が肯定されているように受け取れる箇所があることは残念ながら事実です。またユダヤ、イスラエルの救いという言葉がたくさん登場します。しかし私たちが祈り求めるのは、イエス・キリストが語る神の国の実現です。そこをはき違えて一緒くたにしてはなりません。キリスト教会が主と告白するイエス・キリストは明確に戦争や、武力を行使することを否定しています。そして敵を愛し、迫害する者のために祈ること。復讐を禁じること、赦すことを教えます。ですから、キリスト教会は戦争を肯定することはできないのです。私たちはむしろ今こそ、イエス・キリストの歩みと教えに心を留めることが必要なのです。そうでなければ、キリスト教会は、キリスト教会ではなくなってしまいます。イエス・キリストは貧しい者たち、傷つけられた人々と共に生きられました。ここに神の愛があるということを改めて心を留めたいのです。

さて、それでは対立を乗り越えるものはなんでしょうか。それは第一に対話です。対話とは、基本的には自分の考えていることを相手に伝えることですが、同時に相手の考えていることを聴くことでもあります。その言葉をよりよく聞くことが傾聴であり、例え共感できなくても、その思いを受け止めることが受容であります。しかし、その対話が成り立たなくなる時に、違う形でそれを乗り越えようとします。それが争いというものです。
私は対立を乗り越えるもう一つの道があると思います。それが、共に祈ることだと私は思うのです。共に祈るとは何か。それはわたしたちにはもう何もできない現実がある。何をしても向かい合っていては衝突してしまう現実があります。しかし共に祈るということは、私たちが向かい合うのではなく、同じ方向に立って神に向かい合うことであるのです。それは、私たちの側が正しい、自分たちの側に神がいると信じて、相手を裁こうとする姿勢ではなく、私たちが共に罪びとたちであるという前提の中で、神に向かって思いを委ね、そして互いに悔い改めて、新しい関係性にされていくと言うことです。

今日はそのために主の祈りを選びました。主の祈りは、イエス・キリストが教えられた祈りです。
「天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

「主の祈り」には、その一節一節に大変重要な意味があります。残念ながら今日はその内容を詳しく触れることは出来ません。今日お伝えしたいことは、まず「天におられる私たちの父」に呼び掛けているということです。「私たちの父」。この祈りの特徴は、「私たち」を主語としていることです。わたしたちとは、世界に住む違いを持った人々のことです。すべての者を愛されている神に向かって私たちが同じ立場から呼びかけるのです。「御名が崇められますように」。御名とは「あなたの名前」です。「崇められますように」。これは「聖なるものとされますように」と言う意味です。言い換えれば「あなたの名前が汚されませんように」とも言えるでしょう。「御心が行われますように」。これは「あなたのみこころ、あなたの意志が為されますように」。天でそうなっているように、地の上においてもということです。
一般的にはここまでが神への呼びかけのように思われます。しかし、神の名前が汚されず神の思いが地の上においてなるということは、その後の祈りの内容の実現に他ならないのではないかと思うのです。神の国、神の意志とは何か。それは私たちすべての者が必要な糧を日ごとに得ることができること。私たちすべての者が自分の罪の赦しを得られるように、相手の罪を赦すこと。私たちすべての者が誘惑から守られ、悪から救い出されるように。つまり神が願っているのはわたしや特定の人々の平和なのでなく、すべての人の平和であり、安息であり、充実であり、共に生きて行くことができる世界なのです。
14-15節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」。この言葉は強烈に響く言葉ですが、しかし神が願っていることが特定の人のことだけではないと言うこともここから響いてくることです。
ですから私たちは今こそ、自分自身の歩みを振り返りながら、この主の祈りを共に祈りたいと思うのです。何故ならば、この祈りの実現こそが、私たちが乞い願う神の国の姿であり、神の意志であるからです。私たちはこの祈りを唱えつつ、神の名を汚していることはないでしょうか。わたしたちの天の父は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方」(マタイ6:45)であるからです。私たちの区別を超えて、神は恵みを注いでくださる方なのです。
教会で主の祈りを祈る時、教会の成熟度が問われると聞いたことがあります。それは共に唱和するわけですから、自分勝手な祈りではなく会衆と共にゆっくりと声を合わせて祈ることが良いということです。しかし私はそれは一つの形かもしれないけれど、そうとは必ずしも言えないのではないかと思います。何故ならば、それは一つの形を作ることに他ならず、むしろ一緒の形で祈れない者を排除してしまうことになると思うからです。

イエス・キリストの神の国を考えるのであれば、どうでしょうか。私は思うのです。イエス・キリストは祈りを「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。と言われました。つまり祈りは徹底的に自分個人として神に向かい合うものであるということです。だとすれば、この「主の祈り」の祈り方も、自分自身の出来事として向かい合うことが大切です。すなわちどんな言語でも良い。どんなスピード感でも良い。自分たちが神に向かい合える形を、共に集う会衆がお互いに許容した上で、共に祈ることができるものなのではないかと思うのです。これがそれぞれ違う者たちが共にいれる礼拝、神の国と言うことになるのではないでしょうか。

メッセージの終わりに、共に主の祈りを祈りましょう。それぞれの言葉で構いません。それぞれの早さ、抑揚で構いません。心の中で祈っても構いません。皆さんの祈りに耳を傾けるだけでも構いません。イエスの教えられた祈りを、共に祈りましょう。

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。
(マルコ11:24)

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