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2024年1月7日説教全文「 見えないものに目を注ぐ 」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 6章1~6節

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

〇説教「 見えないものに目を注ぐ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。新年礼拝ですので、「明けましておめでとうございます」とご挨拶させていただきます。今年もどうぞよろしくお願いします。
新年の始まりではありますが、能登半島地震、また羽田空港で起きた旅客機と海上保安庁の航空機の衝突事故、それに伴う交通経路の大混乱、また北九州での火災など、様々な不幸なニュースがすでに報じられました。また新年早々にご家族知人とのお別れをされた方もおられます。元旦礼拝の時にお話ししたことでもありますが、私たちは、クリスチャンのみならず新年の始まりの時には、平和に穏やかな一年になりますように祈ります。日本においては、初詣が行われ、一年で一番宗教的になる日、それぞれが信じる神仏に祈る時となります。それは私たちが先行きの見えない不安定な中に生きているからこそ、自分以外の超越的なものの助けや守りを得たいという思いがあるからだと思います。信じているものは違うにせよ、すべての人にとって平和があるように私たちも祈りたいと思います。

ところが、毎年必ずと言っていいほど、思っても見ない様々な出来事、事件や事故、自然災害が起こります。元日に起きた能登半島地震は、能登半島の志賀町で最大震度7を観測し、日本列島全体特に日本海側に影響が及びました。北陸地方では今も大きな余震が続いています。多くの方の自宅が倒壊し、あるいは津波の被害に遭いました。昨日の時点で、石川県における死者は94名、負傷者は464名、行方不明者は1名、安否不明者は222名、県内避難者は3万人以上となっています。この中には、正月休みで帰省した時に被災した方々もおられます。とてもやるせなく、なんでこんなことが起きるのか、と思うような出来事です。あまりの被害の大きさに、報道されている現場の映像を見ることさえとてもつらくなります。被災に遭われた方々のために心からお祈りしたいと思います。

私は地震発生時、妻の実家がある広島に向かって車を運転させていました。突然緊急地震速報が入り、地震のことを知りました。私の祖父の家が新潟県妙高市にあるため、皆さまからのご心配のメールをいただき、ありがとうございました。妙高市では震度5程度の揺れを観測したそうです。私たち家族以外の全員が妙高の家に帰省していましたが、無事でした。しかし大きな揺れであったようで、地域の総合病院の看板が剥がれ落ちたり、実家の壁面が崩れたりしたそうです。
皆さんのご家族や知人の中にも被災地域にお住まいの方がおられると思います。日本バプテスト連盟の教会の中では、北陸三県に金沢教会、富山小泉町教会、福井教会があります。落下物などの被害はあったそうですが、人的被害はなく、一部避難所で過ごしておられる方がおられるとのことでした。共に主の守りと平安をお祈りしたいと思います。何らかの支援をしたいと思う方々もおられると思います。連盟や連合から被災者支援の連絡がありましたら皆さまにお伝えしたいと思っております。

年始にこういうことが起きると、なんか気持ちが重くなると言うか、もう今年も何がどうなっていくのかわかりません。一層不安は募ります。でもキリスト者である私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも神さまが共におられるということです。神が共におられると言うことは、どんな時にも必ず希望があると言うこと、立ち上がっていけると言うことです。
こんなときこそ、イザヤの預言を心に留めたいと思います。「ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。

この言葉は、バビロン捕囚というイスラエル人にとってもっとも不幸な出来事、神の守りが感じられない崩壊という最悪の出来事が起きた時に、神が人々を励ますために与えられた言葉です。私たちは目の前が暗くなる時があります。思ってもみない出来事が起こります。いつこの出来事が良い方に行くかわからないことがあります。しかし、私たちはそんな時こそ、神と言う目には見えないけれども私たちと共におられるという存在に目を注ぐことが大切です。「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。この言葉は真実です。何故ならこの言葉を信じた時、あるいは握りしめて歩むとき、これは私たちの力になってくるからです。このことに希望を頂いて歩んでまいりましょう。

今日の聖書個所に入ります。今日はイエス・キリストが故郷であるナザレの町に帰った時の話ですが、この箇所もこれまで話してきたことの流れで考えることができます。ナザレの町は、イエス・キリストが活動していたガリラヤ地方の町の一つでありますが、イエスが中心的に活動していたガリラヤ湖の町々からは少し距離のある場所にありました。イエスが救い主としての活動を始めてから最初の帰省であったとも言えるでしょう。

帰省すると私たちは家族だけではなく、親せきなど古くから自分を知っている周りの人々に会うことがあります。「あらまぁ、こんなに大きくなって、昔はあんなに小さかったのに」。昔話が盛り上がり、楽しい時間を過ごした覚えがある方もおられるのではないでしょうか。多分に漏れず、イエスもまたナザレの町に帰ったときに、そういう町の人々に会うことになったのです。イエスが安息日に向かった会堂と言うのは、ユダヤ教の礼拝堂です。つまり町の人々が皆集まる場所でした。そこでイエスが教え始められると、多くの人々はそれを聴いて驚いたとあります。そして彼らはイエスに躓いて、このように言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。

つまり簡単に言えば、ナザレの町で育ったイエスを私たちはよく知っている。家族も良く知っている。彼は大工だったではないか。なんでこんな彼にこんな知恵があるのか。彼らはこのようにしてイエスに躓きました。ちなみに躓いたと言う言葉は、ギリシャ語ではスカンダリゾーという言葉です。これは今でいうスキャンダルという不祥事とか不正を現わす言葉ですが、元々は罠にかけるという意味があります。イエスが彼らに罠をかけたのでしょうか。そうではありません。彼らは自分たちがイエスにこれまで持っていたイメージから抜け出ることができずに、彼ら自身が罠にかかってしまったのです。しかし、これが故郷という「これまでの関係性を持つ町」の一つの悪癖と言えるものかもしれません。

実は故郷と言う言葉はギリシャ語ではパトリスという言葉ですが、この言葉はもともと父親という意味のパーテールの町であります。そしてそれはパトリアと言う血統とか系図という関係によって造られる町であるのです。この三つは同じ語源を持っている言葉であります。そしてその関係が「パトロン」という協力者、自分の支援者になることもあります。しかしながら、そのような関係そのものが 固定化されてしまっていると、今目に見えている新しい出来事、あるいはその人自身というものに目を止めることができなくなってしまうことがあるのです。新しい関係に更新することは容易ではありません。何故ならその時、私たちの目に見えているのは自分の中で作られた相手のイメージであって、相手そのものではないからです。ですから、彼らはイエスさまに躓いたと言うよりは、自分の中でこれまで作っていたイエスのイメージとリアルなイエス・キリストのギャップに躓き、受け入れられなかったと言うことですしかしそれは、人間関係を固定化すること、思い込みにはまることであり、相手を見ていないことになってしまいます。
それでは、このナザレの町の人々が躓いてしまったものは一体何だったのでしょうか。それは人々の言葉からすると、イエスの知恵と奇跡を行う力であると書かれていますが、イエスさまが会堂でしたことは、聖書を教えることだけです。つまり聖書を教える中に知恵があり、奇跡が起きていたのです。

実は、ここで知恵と書かれているのは冠詞付きの単数形の知恵です。The知恵です。唯一の知恵とは何か。それは神の知恵、神の言葉に他なりません。そしてその神の知恵がもたらすものが、奇跡、これは複数形で書かれていますが、つまり諸々の奇跡です。大切なことは一つの神の知恵、神の言葉によって諸々の奇跡が起こるということなのです。それはもしかして病人の癒しとか悪霊追い出しとか煩いからの解放とか、聖書に書かれているような癒しの出来事だったのかもしれません。それは一言で言えば、自由と解放をもたらす言葉であります。そして神の知恵の反対は人の知恵であり、それは人々を束縛するものであり、関係性を固定化するものであるのです。
目の前で起きていることを受け入れられない。目をそむけたくなるということがあります。しかし、それは多くの場合、目の前で起きていることが問題ではなく、私たちの心の中にその原因があることがあります。妬み、嫉妬。劣情。劣等感、優越感。人に対しての思いが私たちの目を曇らせると言うことがあるのです。それが固定化された人間関係です。そこには何の奇跡も生まれないのです。
大切なことは、イエスが来たことによって今すべては新しくなったと言うことなのです。神の言葉が朗読されるだけでなく、解き明かされるようになった。神の国が近づいてきた。それは私たち罪ある者たちに神の側から一方的にやってきているという福音です。そしてそのことによって、私たちは一人一人の生き方が変えられていく。これがまさに奇跡という福音というものがもたらすことなのです。だからこそ、ここに目を留めないときには、何も起こらないのです。

だからわたしたちは、このイエス・キリストにこそ目を注いでいきたいと思うのです。しかし、このイエス・キリストに目を注ぐということもまた簡単なことではありません。わたしたちもまたイエス・キリストを信じていると言いながらも、信仰が固定化されてしまうと言うことがあります。「この聖書の箇所は聞いたことがある。よく知っている。こういうことでしょ?」とよく言われる答えで留まってしまうことがあります。しかし、それは簡単に「律法主義」に変質してしまいます。

イエス・キリストに目を注いでいくと言うことは、実に聖書の真理を求め続けて生きて行くと言うことです。つまりそれは聖書を決まりきった形で読んでいくのではなく、日々新たにされる形で読んでいくということです。今日は自分はこのように語られた。今日はこの箇所がやけに心にひっかかる。そのような気づきを大切にしながら、今日神さまが語られるメッセージに心を留め、そして自分が日々新しくされていくということ、そして周りの人の関係を新たにして行くということが大切なのです。

聖書は、神さまからのラブレターと言われることがあります。文字通り受けていくことも大切なことです。しかしもっとその手紙を豊かに受け取るためには、その行間に隠されている思いに心を向けることです。

今年、この西南学院バプテスト教会では、昨年に引き続き、マルコによる福音書を連続して読んでいきたいと考えています。皆さまと神さまの言葉を共に受け取り、その言葉に生かされて参りましょう。皆さまの一年の歩みの上に主なる神さまの恵みと支えがありますようにお祈りいたします。

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