〇聖書個所 マルコによる福音書 10章13~16節
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
〇説教「 子どものように神の国を受け入れる 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日は西南幼稚園創立70周年記念礼拝ということで、西南幼稚園の年長ゆり組の皆さんと、保護者の皆さんと共に礼拝を守れることを嬉しく思います。先ほど子どもたちが讃美歌と聖書朗読を披露してくださいました。大きな声で心を合わせて上手に歌ってくれたことに、なんだかとても感動しています。実は園児さんたちは先週初めてこの礼拝堂に入り、リハーサルを始めました。私は最初から見守らせていただいたのですが、最初は歌声も聖書朗読も声が合わずにいました。しかし、担任の先生が何故合わないと思うか?という問いかけをしたところ、子どもたちが自分たちで声を合わせるためには心を合わせよう、丁寧にゆっくり言葉を合わせようと言い出しました。今日このように上手に発表できたのはまさに子どもたちの成長であり、それを見守る先生方の保育の実りだと思いました。
そして、私はそれこそ、西南幼稚園なのだということを感じました。今日選ばれた賛美「みんなで花園つくろう」と「祈ってごらんよ分かるから」、聖書箇所「成長させてくださったのは神です」。に込められたメッセージはまさに、神様の恵みと愛が子どもたち一人一人のいのちに注がれていること。神の見守りのうちに子どもたちが一つ一つ成長していっていること。何かがあったときも、祈ることを通して神さまが子どもたちを守ってくださること。これが西南幼稚園の保育の根底にあることだと感じたのです。これからも子どもたち一人一人が西南幼稚園で神さまの見守りのうちに健やかに育まれ、成長し、それぞれの花を咲かせて歩んでいけますようにお祈りします。
今日は記念礼拝ですので、幼稚園の成り立ちについて簡単にお話しします。とは申しましても、私もその時にいたわけではありませんので、幼稚園の記録の中から読み取ったことをお話しするということに留まることをご容赦ください。
今より70年前、西南幼稚園は1953年6月にこの西南学院バプテスト教会の祈りの中で生まれました。幼稚園の母胎となったのは、当時まだ戦後の混乱の長引く中、落ち着いた居場所が与えられなかった子どもたちやその保護者のために始められていた教会学校嬰児科でした。今も教会には設立当時に関わっていた方々がおられます。設立に関して、一つのきっかけとなる出来事がありました。その頃、現在の明治通りに路面電車が走っておりましたが、西新町から電車道を渡って鳥飼の舞鶴幼稚園に通園していた子どもが事故死するという出来事がありました。それを受けて、子どもたちの安全のために、電車道より北側に幼稚園をという声が高まり、資金も園舎もないままに祈りと信仰によって幼稚園の設立が始まっていったのです。
そのときから70年、色々な時代を経てきました。町の形も変わりました。社会環境も変化しました。それぞれのご家庭のあり様も、幼児教育に求められる情操教育の内容も変わってきたのかもしれません。しかしその中で変わらないものは、幼稚園に通ってくる子どもたちの溢れる笑顔であり、輝く命です。どれだけ時を経ても変えてはいけないものもあります。それが、この子どもたちの笑顔と命を守ること以上に大切なことはないと言うこと。そのためにその子どもたちを養育するそれぞれのご家庭のために神の守りと祝福を祈ること。これが西南幼稚園が大切にしてきた事柄なのであり、私たちが主と信じるイエス・キリストから与えられた使命なのではないかと思うのです。
西南幼稚園はイエス・キリストの姿に倣う幼稚園です。ですから私たちが今日心に留めたいのは、イエス・キリストがどのように子どもたちを受け止めていたかということです。聖書の個所に入ります。
聖書箇所をもう一度お読みします。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。
この聖書箇所は約2000年前のお話ですが、大人たちの子どもたちへの関わり方に関しては今の私たちの現実と何ら変わることがない状況があることを暗に示しています。それが人々が子どもたちを連れてきたときに、弟子たちがその人々を叱ったという行動にあります。人々というのは、親を含む子どもたちの保護者であったことでしょう。イエス・キリストという人がいる、その人は色々な奇跡を起こし、力ある教えを語っているようだ。私もその人の話を聞きたい。そして子どもたちにも聞かせたい。彼らがイエスさまのところにやってきたのは、恐らくそのような背景があったことでしょう。しかし、それを遮ったのが、こともあろうかイエス・キリストの弟子たちであったのです。
弟子たちはなぜ、子どもたちを連れてきた人々を叱ったのか。実はこの叱るという言葉には、上から目線で非難するというような意味合いがあります。つまり、弟子たちは、子どもたちが近寄ってくることを好まなかったのです。おそらく子どもたちがイエスさまのところにやってきたら、いつもお忙しくしているイエスさまが余計に疲れてしまう。だから連れてくるなよ、ちょっと空気を読めよとでも思ったのではないでしょうか。例えば、他の聖書箇所にはだれかほかの大人がやってきたときに、弟子たちがその人を叱るなんて言う聖書箇所はどこにもないのです。ですから弟子たちには明確に、子どもたちへの差別というものがあったのです。もちろん差別しようとしていたわけではないでしょう。イエスさまを守るために少しでも負担を軽減しようという、いわば空気を読んだ対応であったのだとも思います。
しかし、それを見ていたイエス・キリストは憤ったのです。憤りという言葉は、聖書ではけっこう珍しい表現です。その意味は怒った、というだけではありません。むしろ自分の中に湧き上がった「怒り」と共に「悲しみ嘆く」といった感情も込められるので、一層複雑な気持ちを表しています。
弟子たちに対する憤り、それはそんな子どもたちが簡単に粗末にあしらわれてしまう現実に対する憤りです。そしてそれは、子どもを持つ親を軽んじ、排除する社会構造への憤りでもあると思います。
イエスは言います。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」。この言葉は、弟子たちへの批判でありますが、私たちが心にとめる必要のある言葉です。子どもたちを排除してはいけません。そして子どもたちを守り育てる大人たちを排除してはなりません。むしろ子どもたちと子どもたちを養育する家族を受け止めていくということです。求める者たちが自由にイエス・キリストのところに来ることを私たちは喜びたいのです。何故ならば、それをイエスがお望みであるからなのです。問題は子どもたちが来ると迷惑に思う、あるいは子どもたちより優先したいと思う何かが私たちの内側にあるということなのでしょう。
例えば子どもが来たら遊ぶのは当然です。だって、遊ぶことは子どもたちの仕事であり、子どもたちの特権です。それは子どもたちの成長がわかる瞬間でもあり、いのちの輝きそのものであるからです。時に私たちはそれを妨げ、あるいは排除し、大人だけの空間を作ろうとします。そしてそのような場は、伝統と格式、作法のある場所において、特に強化されることでもあります。しかし、果たしてそのような子ども抜きの場所を作りなさい。というのがイエス・キリストの願っていることなのでしょうか。子どもたちをわたしのところに来させなさい。という言葉から問われることは、私たちのあり様を考え直さなければならないということです。
イエスは言います。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。
この言葉には色々な考え方、捉え方ができます。子どもってどんな存在でしょうか。今日、私が感じていることをお伝えするとすれば、子どものように、自分らしくそのままで入れる場所こそ、神の国であるということです。私たちはいろいろ考えます。大人らしくあろうとか、この雰囲気に合うようにとか。今日は礼拝に初めて入られた方も多いと思います。私は、礼拝の静寂で荘厳なピリッとする雰囲気も好きですが、しかし礼拝というのが神の国であるということを考えた場合、自分たちが自分たちらしくあることより、ほかに大切にすべきことはないのではないかと思うのです。ですから、子どもたちが自分らしくいていい場所としての交わりこそが神の国であるということです。
神の言葉は束縛からの解放と自由を与える言葉です。私たち西南学院バプテスト教会はこの福音を伝え、そして生きるために今日は「子どものように神の国を受け入れる」こと。むしろあるがままの私たちが神のもとに集うということを喜んでいきたいと思うのです。そしてそれを神は喜んでいるということを受け止めていきましょう。
西南幼稚園の園児たちの健やかなる成長と、また子どもを養育し守るご家族皆様の上に、神様の守りと祝福がありますように祈りつつ、又幼稚園の運営のために、教職員の保育の充実のために続けてお祈りしてまいりましょう。