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2023年9月3日説教全文「愛は、全てを完成させるきずな」牧師:西脇慎一

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〇コロサイの信徒への手紙 3章12~19節

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。

〇説教「 愛は、全てを完成させるきずな 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日は日差しの強い朝ですが、日ごとに暑さも和らぎ、少しずつ秋に入ってきているように感じます。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩み上に主の祝福がありますようにお祈りしています。
先週の礼拝に引き続き、今日はお一人の方の信仰告白とバプテスマ、またお一人の方の転入会の証しが行われました。バプテスマはイエス・キリストを主と信じ、古い自分に死に、新しく生かされるため儀式として行われましたが、既にバプテスマを受けている方は転入会、私たちの教会の家族となることとして行いました。
先週もお伝えしたことですが、バプテストは会衆一同で信仰告白を聴くということを特に大切にします。それは、その人の信仰を聴く私たちが自分自身の事柄として受け止め、これからの信仰生活をこの交わりの中で共に歩んでいくことを決断することであるからです。信徒としてお互いを知り、祈り合い、支え合いながら信仰生活を続けていくのが私たちの教会の大切にしていることであるのです。私たち西南学院教会の群れにまた二人の新しい神の家族が誕生しました。このことを共に喜び、またこのような出会いを与えてくださった神さまに感謝をしたいと思います。

実は今日はわたしが西南学院バプテスト教会に赴任してからちょうど一年の記念日です。その一年の節目の最後であった先週と、新しい始まりである今日にバプテスマが与えられたことがなにやら不思議な導きを感じます。実は先週の礼拝の後、そのことを感じていた数名の教会員から、「西脇先生、記念となる一年目にバプテスマが起こされるなんて、本当におめでとうございます」。とお声を頂きました。確かに個人的にも非常に嬉しいことではあります。しかし大切なことは、バプテスマへと導いたのは牧師ではなく、様々な時にも伴っていてくださる主なる神さまであり、これらは皆さんの祈りの内に導かれた教会の出来事であるということです。ですので、ご本人たちだけでなく皆さまと共に喜び合い、主に感謝をしたいと思うのです。特にお二人がこの日に信仰告白、転入の証しをされた理由は、今月9月30日に結婚式を挙げられる予定があり、その時に合わせて信仰生活も新たにして行きたいと言う願いがあったからです。教会の交わりはこれから始まっていきます。お二人を歓迎し、また祝福をして参りましょう。
今日の説教は、そんなお二人のためのメッセージとしてお話ししたいと思います、けれども結婚式のメッセージとしてではなく、共にキリストと言う信仰の土台に立つという意味でお話をします。そしてそれはお二人だけではなく私たちも改めて受け取るべき御言葉です。それでは聖書個所に入ります。

本日選ばせていただいたコロサイの信徒への手紙は、使徒パウロの名による書簡の一つですが、聖書学的にはパウロ本人ではなく、弟子の誰かが書いたものだろうと考えられています。成立時期はパウロがその働きを終えてからあまり時間が経ってない時、教会に異なる教えが入り込んできたことを憂慮した弟子が、教会の人々がイエス・キリストの福音に立ち返り、指導者たちの働きを信頼することを伝えるためにパウロの名で手紙を書いたのだと思われます。

キリスト教会は、キリストの教えを信じ、その言葉に生かされる交わりであります。しかし、そんなと教会にも異なる教えが入り込んで来たり、またキリストの教えではない教えが生まれてくることがあります。コロサイの信徒への手紙をざっと見ていくと、2章8節にはこのようにあります。
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」。

哲学と言う言葉が登場することにひっかかりがあるかもしれません。哲学はフィロソフィア、知識を愛するという意味があります。この手紙の著者はこれを「むなしい騙しごと」と言います。続けて、キリストに従うものではない世を支配する霊があると言います。この霊とは、お化けのようなものではなく、ましてや悪霊的なものでもなく、この世にある諸元素、ある意味では科学的な事象を現わす言葉が使われています。もちろん、哲学は立派な学問です。科学もそうです。しかし当時の社会ではギリシャ的な知恵の影響が神の存在から人を遠ざけていましたので、そのように言ったのでしょう。つまりここで手紙が言おうとしているのは、知恵というものに振り回されないようにしなさいと言うことです。

ちなみにユダヤ的な知恵の代表ともいえる教えは、箴言1章7節にある言葉です。「主を畏れることは知恵の初め。無知なものは知恵をも諭しをもあなどる」。

こう考えると、知恵というものが向かう方向性が二つあります。一つは主を畏れることを生活に取り入れること。つまり、律法主義、神の言葉を一言一句守ることです。それが正しい生き方だと言い、それ以外のことは行ってはいけないと言います。もう一つは、科学を突き詰めていくこと。つまり無神論です。論理的に物理的に証明できない神と言う存在を認めないことです。実はコロサイの教会にはこの二つのグループが入り込んでいました。片方は神の教えを守らなければいけないと言い、もう片方は神なんていないんだから何をやってもいいんだ。教会が分裂しそうになっていました。

この手紙はこうした課題を解決するためにこう伝えています。「(あなたがたは)、バプテスマによって、キリスト共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。(2:12)

言おうとしていることは何か。それは、あなたがたは規則や戒律や言い伝えなどによって救われたわけではなく、まして、人を縛り虜にする世の教え、常識、原理原則によって救われたわけではない。あなたがたが救われたのは、罪から解放し自由を得させるイエス・キリストの福音によるのであり、私たちが信じるのはキリストを十字架の死より復活させた神が私たちの神であると言うことです。つまり、私たちの身の周りには色々な教えがありますが、私たちを愛し、自らを献げられたキリストにのみ、真理があり、その教えに私たちは心を留めていく必要があるということです。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力である」(Ⅰコリ1:18)のです。

今日の聖書個所はそれに続く箇所です。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」。

最初にお伝えしました。お二人は今日の日を結婚に備えて信仰を持って生きるために、この日にバプテスマと転入会をしました。ところが、実にその背後には神さまの選びと招きがあったのです。私たちにはその実感はなかなかありませんが、しかし信仰告白に、「徐々に神さまの存在に気付いた」という言葉があったように、その時はわからなくても、やっぱり神さまに招かれていたのだという気付くときがあります。また転入会をされた方もそうです。お父さんお母さんがクリスチャンというクリスチャンホームにお生まれになったことが一つの神さまとの出会いでありました。しかし、教会から離れる生活を送る中で、神さまからの招きを感じておられ、そして再び福岡に帰ってこられた時に、自分で信仰を持って生きるという決断をすることになりました。

神様の招きはそのように不思議な形で私たち一人一人に与えられています。そして、それは自分が偉いからとか何何をしたからではなく、ただただキリストの恵みであり、神の招きの出来事なのです。ですから、こう書かれているのです。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。(ヨハネ15:16)

しかし、招かれて終わりではありません。なぜ私たちは選び招かれたのでしょうか。それは互いを愛するためです。続けてこう書かれています。「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。

愛を行うとは、難しいことです。何が愛を行うことなのかもわかりません。恐らく一言では言い表すことができないのでしょう。しかし大切なのは、自分の事だけでなく、相手の立場に立って考え、相手を大切にすること、そこから始まることが愛なのではないかと思います。
今日選んだ箇所の最後にはこうあります。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」。

こう手紙に記してあると言うことは、愛を行いなさいとは言うけれど、夫婦関係とはそんな簡単なことではないと言うことが分かります。恐らく実際に色々な困難があったのでしょう。愛を行うべき相手にそれができないと言うことがあります。それぞれ違うところで生まれ育った者同士が共に生きて行くわけですから、問題が起きないほうが不思議です。それではそのような時をどのように乗り越えていくのでしょうか。
それが、共にキリストを信じるという土台に立ち、キリストに赦されているという関係性の中、愛をお互いの絆とすることではないでしょうか。今日お二人は、共にキリストの前に信仰を告白しました。それは、自分の思いを神に委ね、神を信じて生きて行くと言うことです。それは自分の知恵や正義に立つのではなく、お互いを思いやり、忍び合い、赦し合い、生かされていくことなのです。

「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」。

本当の知恵とは何か。それは、自らを献げるほどに私たちを愛されたキリストの愛の深さを知ることではないでしょうか。そしてその愛に感謝をし、私たちもまた互いに愛に生かされることであるのです。

また、今日共にこの式を見守り、受け止めた教会もまた共に生きるものとして招かれています。私たちもお二人の信仰告白を聞いたものとして、もはや無関係、無関心ではいられません。神は私たちに共に生きて行くように招いておられるのです。もちろん私たちは完ぺきな存在ではありません。互いの関係の中に色々な痛みが生じることもあるかもしれません。しかしそんな時に私たちが心に留めたいこと。それは教会の交わりの中には常に十字架と復活のイエス・キリストがおられることであり、私たちはその土台に立つ者であると言うことです。私たちを結んでいるものは神の愛であるからです。
共に喜び、共に泣き、信仰の歩みを続けて参りましょう。そこには必ず希望と平和があり、喜びと感謝が溢れてくるのですから。祈りましょう。

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