〇マルコによる福音書 3章13~19節
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
〇説教「イエス・キリストの招きと派遣 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。
今日は、敬老の日主日礼拝です。日本では9月の第3月曜日を敬老の祝日としていますが、私たちの教会では今日そのお祝いをします。のちほど友愛委員から敬老に当たる皆さんに贈り物があると思います。本当におめでとうございます。皆さんのご健康が守られ、そのいのちの日々を豊かに過ごすことができますようにお祈りしたいと思います。ところで皆さんは、この敬老の日の起源をご存知でしょうか。その由来と言われいるものはいくつかあるようですが、よく言われるのは1947年9月15日に、兵庫県多可郡野間谷町で行われた「敬老会」から始まったということです。当時の開催趣旨は、「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村づくりをしよう」ということであり、その時の高齢者の対象とされたのは55歳以上の人であったようです。
55歳と言うととても若いと思わないでしょうか。恐らく、当時の様々な理由があったのでしょう。現在、WHO(世界保健機関)では高齢者というと65歳以上の方々を指すようです。しかし現代日本の感覚として言うと65歳もまだまだ若いと思います。確かに昔はその年齢を境に仕事を退職したり、年金生活に入るということがあったのだと思いますが、今は、まだまだ隠退できないと言うか、現役ばりばりで働いている人たちも多くおられます。高齢者という層自体が、年金の受給猶予と共に押し上げられ、イメージとしてはもっと上の方々を現わすようにも思います。その中でも元気な人はたくさんおられますので、年齢が全てではないということを感じます。ところが現在、この高齢化・長寿化ということが社会的には大問題だと言われることが度々あります。それ自体はご高齢の方々には何の責任もないことです。しかしそのように言われてしまうことに、私自身なにか居心地の悪さを感じますし、それを聞いて肩身が狭い思いをされる方もおられるように思います。
本来の敬老の日の趣旨を考えるならば、やはり皆さまの存在に感謝をし、皆さまとの出会いを喜び、共に神さまにあって建て上げられ生かされている交わりを確認したいと思うのです。長寿は恵みであり、そのお一人一人のいのちは宝であります。若いときに比べてできることが少なくなったということはあるかもしれません。でも教会という場所には、老若男女、色々な方が集まる場所であり、その営みの中で役割を変えながら、一人一人の命を分かち合い、神にあって家族にされていく場所です。それが神の国のひながたと言う教会の交わりなのです。ですから、改めて皆さんに教会の代表者としてお伝えしたいことは「おめでとうございます。皆さまの命の日々の輝きの上にますます主の恵みと守りがありますようにお祈りします。それと共に、これからの時を皆さまと共に主に在って教会の交わりの中で過ごしていけることを喜んでいます。今後ともよろしくお願いします」ということです。
さて、本日の聖書個所に入っていきましょう。イエス・キリストが十二弟子を選び、使徒に任命する箇所です。これを今日、私たちが神さまに招かれて従って行く出来事として置き換えて考えたいと思います。そのため今日の説教ではその箇所だけに留まらず、聖書で神さまに声をかけられ、その招きに従って行った方のことをお話ししたいと思います。
今日の12弟子の選びの出来事は、マルコによる福音書では唐突な出来事として書かれています。なぜ弟子を選ぶ必要があったのかということにはまったく触れられていません。これは私たちの出会いと同様です。神の招きは唐突な出来事なのです。別の福音書の並行記事を見てみると、ルカによる福音書ではこう言う理由が説明されています。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:12-13)。ルカでは恐らく祈りの内に弟子たちを選ぶことを神から示されたという印象を受けます。
マタイによる福音書9:35-38には弟子の選びの前段階としてこのように書かれています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。そして、その後に弟子たちが選ばれるのです。このようにマタイでは、主にその働きに仕えるために彼らは選び出されたと言えるでしょう。
ところが、マルコによる福音書はそのような理由はすっかり抜け落ちているようです。でも弟子たちの選出の目的が、このように記されています。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」。
つまりマルコでは、弟子たちを招いた目的は、働きの前にまず第一に自分のそばに置くことでした。それは、イエスの言葉に聞き、その姿を見ることと言えるでしょう。それは働くことよりもさらに重要なこととして書かれています。その意味を考えてみると、イエス・キリストを通して神の御心を知る時がなによりも大切ということでしょう。そのようにクリスチャン、キリスト教信者にとって大切なのは、やはりイエス・キリストの教えに生かされていくことであるのです。
私たちの信仰の原点は、聖書です。しかし聖書の読み方が大切です。聖書に書いてあるからその通りにするとか、書いてある通りにしなければ救われないというのでは、ファリサイ派や律法学者の読み方と何ら変わりはありません。私たちは、聖書の言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、その言葉が本当に伝えようとしていることを、キリストの視点から何かを読み取っていくことを大切にしたいのです。それが、イエスが弟子たちを選んだ時、派遣して宣教させ、悪霊を追い出すことよりも自分のそばに置くということを第一にした理由なのではないかと思います。働きよりも大切なこと。み言葉に聞くことが一番大事なことで、そこからすべては始まっていくということであります。
さて、12弟子に選ばれた方々は、ガリラヤの漁師を中心に実にユニークなメンバーでした。しかしその一人一人の人物像は不明です。かろうじてボアネルゲス(雷の子)と名付けられたヤコブとヨハネ以外は、その他の聖書のエピソードから人物像を想像する以外ありません。ちなみにボアネルゲスとは、雷の他に、騒ぎとか憤怒とかそういう風にも訳すことができるそうですので、恐らくはけんかっ早い性格だったのだと思われます。なんでそんな人を弟子に選んだのでしょうか。イエスさまはどういう選考基準で彼らを選ばれたのかということもわかりません。一つはっきりと書いてあるのは、イエスが「これと思う人」、つまり「御心に適う人」を選んだということです。御心に適うと言うのは、彼らがとびぬけて立派で信仰深い人であったと言うことでしょうか?私はそうではないと思います。
むしろ、この箇所からわかることは、イエスさまは、あるいは神さまは、その人がどういう人か、あるいは何をやってきた人かということを問われずに、その人を御心のままに選んだと言うことなのではないかと思うのです。私たちは選びの基準などを考えます。それで自分たちのことを考えます。しかし大切なのは、神の招きそれ自体であり、その招きに従って行くことであるのです。その人の過去ではなく、ここから先のことが大事なのです。イエスと共に、神と共に歩むことが大切なのです。
少しだけ今日の聖書個所から離れ、聖書に登場する別の方々のお話をしたいと思います。
聖書には、選びの基準が不明なままに神に選ばれた人の物語がたくさん登場します。一番有名なのは、諸国民の父と呼ばれたアブラハムです。創世記12章によると、彼は突然主からの語り掛けを聞き、その言葉に従って父の家を離れて旅立っていきました。しかしやはりその選びの基準は不明です。つまり、先立つものは、神の言葉のみなのです。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12:1-2)。何の保証もないただの約束の言葉です。しかしアブラハムはこの言葉を信じ、出かけて行ったのです。驚くことに彼はその時75歳、妻のサラは65歳でした。創世記に登場する人々の中には何百歳という人がいますし、アブラハム自身も175年、サラも127年生きたとありますから、その年齢というものがどういうものかは何とも説明しづらいことです。しかし大切なのは、年齢を経ても神はその人一人一人に語り掛けを与え、自らに従うように招くと言うことです。若い人だけついて来なさいと言うことではないのです。でも、このように言うと、「今更神さまの招きに従って行くなんてしんどい。長年神さまに仕えてきたのだから、もう若い人にバトンタッチして後のことはよろしく」と思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。
しかし、実に信仰生活とはそういうものだと思うのです。神さまからの日々の問いかけに、等身大の自分でどのように向かい合って行くかと言うことです。どこかに行きなさい。あれをしなさいということだけが神さまの招きではありません。むしろ神の言葉を心を開いて聞いて、日々新しくされていくということです。何故ならば神は今も生きておられるからです。私たちは神に従うというと最初に〇〇をするという奉仕を考えてしまいます。しかしそうではなく、大切なのは信仰の歩みなのです。
アブラハムの話に戻ります。彼らに示された幻は、簡単に言えば子孫繁栄と土地を与えるという約束でした。しかし、彼らにその約束が果たされるまで、旅を始めてから25年以上と言う驚くべき年数がかかりました。神という全能者の約束なんだから、すぐに果たしてくれてもよいと思います。むしろその方がすっきりするし、神さまに従いやすくなると思うのです。しかしながら、神は直ちにその約束を果たすわけではありませんでした。そのせいで、アブラハムもサラも約束の実現を諦める時がありました。仕方のないことだと思います。神はなぜ簡単に約束を果たされないのでしょうか。私は思うのです。それは、その約束というものが果たされるのは、どんな状況においても神の言葉を握りしめて歩んで行くときに実現するものであるということです。だから信仰生活を生きることは、とても困難なことです。でもその過程経過があるからこそ、私たちの信仰と言うものが実になっていくのです。
私たちの信仰生活も振り返ってみたらそうではないでしょうか。教会に行くようになったきっかけがあり、礼拝に来る内に神さまを信じて生きて行こうと決断し、信仰告白をした。しかし、心の中にある祈りは果たされないままであるということ。或いは、色々な出来事に遭う内に、教会から離れ、神さまから遠ざかってしまうということがあるのではないかと思うのです。私たちの信仰生活に困難は付き物です。その時、私たちは何を見ているでしょうか。
教会に来ていても礼拝に心が向かない。奉仕ばかりで御言葉によって養われなかったということもあります。役員会や様々な会議に疲れて教会に来ることが嫌になってしまったと言うこともあるかもしれません。本来教会とは喜びの交わりであり、休息を得るところです。しかしその喜びがいつしか涸れ果て、なんとか絞り出すように奉仕をするということがあり得るのです。働きが信仰の中心に来ているとき、私たちは何を見ているでしょうか。
教会の中で何が一番大事なことはなんでしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストは、弟子たちを選ばれた時、「自分のそばにおく」ということを最優先されました。つまり、どんなときもイエスさまの言葉を聞き、その姿から目を離さないことです。それは言い換えれば礼拝であり、そこで語られる御言葉を聴いて、そしてその御言葉に向かい合い応答して生きることが信仰生活です。御言葉は霊の糧と呼ばれることがありますが、まさに私たちの心の栄養になるのです。心が豊かになるとき、私たちの表情が変わり、生き方が変わっていきます。その歩みを守るのが交わりであり、その交わりを豊かにするのが様々な奉仕なのです。順番を間違えてはなりません。礼拝は神の招きによって始まり、この場からの派遣を持って終わります。しかしイエス・キリストは御言葉を通し、あるいは聖霊を通し私たちと共におられるのです。
最近、多くの方から教会の雰囲気が変わったと言われます。しかしそれは教会が何かをしたということではなく、恐らく皆さんが御言葉によって変えられてきたのではないかと思います。他人が人を変えることはできません。私たちに新たな希望を与え変えていくのは神であるからです。
イエス・キリストは言います。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37-38)。
御言葉からは感謝が生まれ、喜びが溢れ出、祈りが生まれます。私たちは、この交わりをこそ大切にして行きたいと思います。ヨエル書にはこのような言葉があります。「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3:1)。私にはもう何もできないと言わないでください。御言葉を受け取ってください。そしてその思いを分かち合っていきましょう。祈り合って生きましょう。その時に、私たちには想像もできないほどの大きな神の祝福があたえられるのです。