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2023年12月31日説教全文「あなたの信仰があなたを救った」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 5章25~34節

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」。しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。

〇説教「 あなたの信仰があなたを救った 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。本日は2023年最後の主日礼拝です。大みそかに礼拝を守ると言うのは、なかなかない機会だと思います。年の瀬は、新しい一年を望むために今年一年の振り返りをする時期と思いますが、私たちはこの礼拝においても、この一年の歩みを守り導いてくださった神さまの恵みと守りに感謝をすると共に、新しい年に主なる神さまに希望を持って歩むため、御言葉をいただき、祈るときとして参りましょう。

先週私たちはイエス・キリストの御降誕の記念であるクリスマス礼拝を守りました。街中はクリスマスが終わると途端に正月の準備が始まりますが、キリスト教会においては、まさに救い主誕生の喜びの時、インマヌエル、神が我々と共におられる時を迎えています。この出来事に心を留めて主を礼拝して参りましょう。

さて、私たち西南学院バプテスト教会にとってこの一年はどうであったでしょうか。まず最初に考えることが、私たちにとってこの一年は、100周年を経て踏み出した一年目の歩みであったと言うことです。私たちの教会が新しい歩みをして行く模索の年であったとも言えるでしょう。色々と変わっていく教会に対して期待と望みをかけてくださる方がいる一方で、中には不安を持たれる方もいたかもしれません。しかしこの一年に、私たちの教会には、二名のバプテスマ、二名の転入会、一名の現在会員への復帰者が与えられました。これは私たち教会にとってとても嬉しい出来事でありますし、祈ってきていた事柄であったと思います。しかしそれは、それぞれお一人お一人に主なる神さまが出会って下さり、西南学院教会との出会いが与えられ、ご自分たちの決断の中で、この教会の交わりに加わっていくという選び取りが為されたことによります。またその他の方々の中にも、信仰を持って生きて行くことを望んでいる方々や、バプテスマへの思いが与えられている方々もおられます。私たちはそれぞれの方々の「時」が満ちることを祈りつつ、交わりを続けていきたいと思います。

他方、悲しいこともありました。教会員や礼拝出席者の中に愛するご家族が天に召された方がいます。またご自身やご家族の病気、入院、思ってもみない出来事に見舞われた方々もおられ、悲しみの内に時を過ごされた方々も多かったかもしれません。わたしたちは先週クリスマスを守りましたが、クリスマスは美しく微笑ましい恵みの時である一方で、喜ぶことが出来ない状況の人々には光と影のコントラストのように、つらさや悲しさが色濃く心によぎるときでもあります。

しかし、私たちがこの時、心を留めたいのが、「インマヌエル(主我らと共におられる)」と呼ばれたイエス・キリストです。クリスマスは神が私たち困難な状況の中なんとか生きている私たち一人ひとりへの神の愛のメッセージであるということにわたしたちは心を留めたいのです。それでは、神の愛は人々にどのように響いていったのか、今日はマルコ福音書から福音を受け取って参りましょう。

今日の聖書個所は「長血の女の癒し」という有名な奇跡物語です。聖書の文脈では「ヤイロの娘の癒し」といういわゆる復活物語の間に位置付けられています。この二つの物語には、恐らく切り離すことができない特別なメッセージが込められているのだと思いますが、今日はこの「長血の女の癒しの物語」だけに焦点を絞ってお話ししたいと思います。何故ならばこの話を一つとって見ても、単純に病気が癒されたお話なのではなく、もっと大切な癒しの出来事。つまり困難な状況に生きる人の「いのちの回復、復活という出来事」が起きているからです。今日わたしたちは、この箇所を通して、長血の女性の本当の癒しとは何だったのかを考えて参りましょう。

もう一度聖書個所を見て参りましょう。イエス・キリストはある町にやってきました。そこに12年間も出血の止まらない女性がいました。この女性は、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。彼女の病気の原因ははっきりしていませんが婦人病の一つ、或いは血液が止まらない、血が固まらないということで血液関係の病気であったのではないかとも言われています。12年も出血が止まらないとなると、心にも体にも日常の営みにも大きな影響があったことだと思います。特に当時大きな問題となったのが宗教的な汚れの対象となっていたということです。血を流している人には触れてはいけないという教えがあったことです。これは恐らく元々は、傷口に触れることでばい菌が入ったりすることや、或いは血液に触れることで感染が起こるため「触れてはいけない」と教えられていたはずです。しかしそれが巡り巡って、危ない危険だ、あの人は汚れている人、清らかではない人、罪びと、触れてはいけない人のように周囲の人々に受け止められていったのです。

当然彼女はその病気を治したかったことでしょう。彼女は多くの医者にかかりました。しかし治ることはありませんでした。それどころかひどく苦しめられたというのは、医者がさじを投げただけではなく、彼女に寄り添ってくれる人がいなかったということです。むしろ「病気になるあなたが悪いのではないか」とか言われたのかもしれません。彼女は自分でその病気を治すために色々な努力をしたのだと思います。それは全財産を使い果たすほどの思いでした。民間療法、食事療法、あるいは「こうしたら治るよ」と人に勧められるもの、私たちの身の回りにもありますが、ありとあらゆるものを試したのだと思います。その中には恐らく、いわゆる「宗教」も含まれていたのではないかと思います。「この神さまを拝めば病気は治るよ。この像や壺を買えば病気が治るよ」眉唾な教えですが、藁にもすがる思いでいる方にとっては真剣そのものです。しかし残念ながらその結果、彼女が得たものは何もなく、ますます悪くなりました。彼女に家族がいたのかどうかはわかりませんが、恐らく彼女自身が「自分の癒し」のために全財産をつぎ込むほどに奔走する様に、家族も友人などももう付いていけなくなっていたのではないかと思います。ますます悪くなったというのは、病気そのものだけではなく彼女を取り巻くすべてが悪くなっていたということなのです。彼女の心も体も疲弊し、そして人間関係にも悪影響が及び、孤立し孤独になり、そして希望を失っていっていた。これが私がこの箇所から感じる彼女の姿です。

この女性は、本当に苦しかったと思います。本当に治りたかったんだなと思います。でも、その癒しを求めることが、自分自身をもっと苦しい状態に追いやってしまうということがあります。でも確かに私がこの女性であれば、癒されることは諦めきれないし、できることは何でもしたいと思います。病気になった人はその当人しかわからない痛みや苦しみがあるものです。ですから治ることは諦めきれられません。でも私がもしこの女性の近くにいる人間の一人であったとしたら、やっぱり全財産を使い果たす前に「もうやめておきなさい。そこまでして治らないってことは、その病気と付き合っていく必要があるのではないか。そのために支えるから頑張ろう」。って言うと思います。でも、やはり本人が周囲の人の言葉を聞き入れず、色々なものを求め、のめり込んでいってしまったとしたら、やっぱり関わり方が難しくなるし、その人から距離をとってしまいそうになるのではないかとも思うのです。

みなさん、どう思われるでしょうか。この女性は「イエスさまの服に触れれば癒していただける」と思っています。もし仮に皆さんの家族、あるいは友人が癒しを求めていたとして「この方の服に触れば絶対癒されるに違いない」と言い出したら、「ちょっと待って」と思わないでしょうか。やっぱり「もうどこかおかしくなっている」と思わないでしょうか。私は実はこれまでこの彼女の言葉にはある意味信仰的な意味合いを強く感じていました。この女性はイエスさまを信じきっている、すごい信仰だと思っていたわけです。でも、イエスさまに触れてもらって癒されるのなら、まだわかります。冷静に考えてみれば「服に触っただけで癒されるわけはない」と思いますし、それを言い出した時点で、どこかおかしくなっているのではないかと思うのです。なぜならばそれは「どこぞに行って何何をすれば癒されるに違いない」というご利益宗教的ないつものパターン、発作的で誰が止めてももう止まらず孤立に陥り期待外れに終わるいつもの思考回路と同じであるように感じるからです。

「誰にも理解されない。しかしそれでも」と、彼女は恐らく一縷の望みをかけてイエスさまのところに行ったのではないかと思います。そして自分が信じたように、イエスさまの衣の裾に触れたのです。彼女が何故「イエスさま助けてください」と直接言えなかったのかについては、色々な理由が考えられます。イエスさまを煩わせることはできないとも考えたかもしれません。病気をしている引け目もあり、目立ちたくなかったという気持であったのかもしれません。またはユダヤ社会の中で女性が男性の前に立つことも難しかったと思います。しかしなんと彼女はイエスさまの服に触れることで、自分の願いであった「出血が止まって」直訳すると血の源が渇いて止まったことを感じたのです。そして彼女は病気が癒されたこと、苦痛が癒されたことをその体に感じたのです。

それでは、これは彼女の信仰の勝利ということなのでしょうか。のちにイエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」と言っていることを考えると、彼女の熱烈な信仰、曲がらない信仰というものが評価されたようにも受け取れます。どんな人でも藁にも縋る思い、たとえ神頼み的な感じであったとしてもイエスさまを求めたら救われるというメッセージにも受け取れるでしょう。たくさんの群衆が押し迫って来ている中で、イエスさまの服に触れていた人はたくさんいたことでしょう。しかし、その群衆の中で癒されたのは、彼女だけだったのです。これはイエスさまに賭ける思いが違ったからだともいえます。すごい信仰だと思います。でも、実は私はこの聖書個所はそんな単純なことを言おうとしているのではないと感じています。確かにこれは癒し物語ですし、まさに奇跡物語であります。紆余曲折があったとしても結果万歳のお話だと思います。でも、本当に大切なのはその後のことだと思うのです。

何故イエスさまはその女性を見つけ出そうとしたのでしょうか。癒しが起きたのだからそれで終わりでも良かったのではないでしょうか。ところイエスさまは彼女と話すことを求めたのです。それが必要だったのでしょう。でも女性は自分の身に起きたことを知り、また人探しが始まったことを知って恐ろしくなっていました。私がもしこの女性だったら怖くて逃げると思います。なんで勝手に触ったのだと怒られる。イエスさまの癒しの力を盗んでしまった。そんな感じになると思います。でも、彼女は震えながらも進み出て、ひれ伏して、すべてをありのままに話したのです。

恐らくその言葉とは、彼女のこれまでのつらさ、苦しみや生き方、苦しめられた過去すべてだと思います。ありのままと言うのは自分が今まで何を感じてどう生きてきたかの告白に他なりません。私たちは独りでいる時、それを言葉にすることはありません。しかしそれを言葉にして話す時、私たちは自分自身を見つめ直すきっかけにもなるのです。そしてイエスさまも彼女の言葉に耳を傾けました。

もし彼女が何も言わないで逃げて行ってしまったとしたら、彼女は病気は癒されたかもしれないけれど、他のことはなにも変わらないままであったと思います。つまりそれは、彼女が自分の心の求めのままに生きるということです。たまたまイエスさまに行きついたけれど、今度はまた別のものを求めて生きるかもしれない、そのような行き当たりばったりの生き方です。

でも彼女はイエスさまに自分のこれまでのありのままを話しました。そしてそれを聞いたイエスさまはこう言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。私は思うのです。恐らくこの「信仰」とは、彼女のこれまでの信仰や、彼女のこれまでの歩みの全てのことではないと思います。多分、癒しを求めてご自分のところに来たことでもないと思います。むしろその信仰とは逃げださず、自分のありのままをイエスさまに委ねるという選び取りであったのではないでしょうか。ですからそのイエスさまの言葉の本当の意味は、「あなたはこれまでよく頑張ってきた。一人で苦しかっただろうね。でも私のところに来て本当に良かった。あなたは今、私にその重荷を全て委ねたのだ。もう大丈夫だ。あなたの思いは全て私が受け止めた。だから、もう病気にはならない。私が共にいるのだから、元気に暮らしていきなさい」。ということであったのではないかと思うのです。

実は、彼女が抱えていた病気は「出血が止まらない」というものだとお伝えしましたが、旧約聖書の理解では「血とはいのちそのもの」であります。つまり血が止まらないことよりも危機的だったのは、彼女の命そのものが日々損なわれ、失われ続けてきたということなのです。ですからイエスさまは、その出血を止めることだけではなく、彼女のいのちの回復のために、彼女に向き合い、彼女の言葉に耳を傾けることを通して彼女の心に寄り添われたのです。そして彼女は自分の思いを全てイエスさまに告白した時に、本当の救いを得たのではないかと私は思うのです。12という数はまさに神の国の実現と言う象徴であるのです。

やはり私たちはこの聖書個所から学ぶことがあります。私たちは祈る時、自分に起きている困難、病を取り除けてほしいとだけ祈ってはいないでしょうか。そうではないのです。その苦しみを抱えている私そのものでイエスさまの前に出ていくことが大切なのです。そしてイエスさまに自分の思いを委ねること、そしてイエスさまの言葉を受け止めることなのです。イエスさまはそんな私たちの苦しみを受け止めて一緒に生きていこうと言ってくださいます。私たちにはこの苦しみを出せる場所があるということが大切です。それがイエス・キリストであるのです。イエスさまは私たちの言葉を聞いてくださいます。そして私たちがありのままの言葉を出したとき、その思いを委ねた時、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくれるのです。 ですから信仰とは強い信仰、曲がらない信仰、確固たる信仰ではなく、イエスさまに委ねることそのものであるのです。そしてこれが、わたしたちの「癒し」であり「祈り」であり「救い」であり、「復活の出来事」であるのです。このことを信じ新しい一年を歩みましょう。

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