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2024年3月31日説教全文「私はあなたを休ませるために来た」牧師:西脇慎一

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〇マタイによる福音書 11章25~30節

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。/p>

〇説教「 私はあなたを休ませるために来た 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、主の豊かな祝福と恵みに満ちた日々を過ごされますようにお祈りしています。

本日の礼拝はイースター、復活日礼拝として守ります。イースターとは、最近は春の訪れとともに、新しい命の誕生を喜ぶ「春の祭典」のように呼ばれることもありますが、キリスト教会においては、十字架で殺されたイエス・キリストがその三日目に復活された記念日として守っています。この日は、キリスト教会の出来事の中で極めて重要な日です。何故ならば死からの復活と言う出来事こそが、イエスがキリスト(メシア、救い主)とされた理由であるからです。つまり、神がイエスを復活させたということです。なぜ神がイエスを復活させたのか。それはイエスの歩みこそが神に是とされ、良しとされ、御心に適った歩みであったからです。もし復活がなければ、イエスは義人であったかもしれないけれど、ただの人であり、その愛の歩みというものは、権力と言う構造的な力、或いは嫉妬や妬みという人間の内側から出る力に対して無力で終わってしまうと言うことに他なりません。それはやはり絶望です。しかし、神はこのキリスト・イエスの復活と言う出来事において、人の目には無残に殺されたようにしか見えない無力なイエスの歩みではありましたが、しかしそこにこそ神の御心があり、希望があること、そして人の生きるべき道であるということを示されたのです。そして聖書が証言するこのイエスがまさに私たちにも出会って下さり、愛を与え、歩みを支えてくださる。だからこそ私たちはこのイエス・キリストこそ主だと告白するのです。

しかしながら一方で、「復活」と聞くと私たちの心に出てくることはまず「あり得ない」と言うことだと考えてしまいます。「復活なんか無理だろ」と思うわけです。しかしそれは私たちが不信仰なわけではなく、普通に考えたらあり得ないわけです。これは私たちの現代的な考え方だけではなく、聖書の世界でも同様です。使徒パウロはギリシャ世界で宣教旅行をしましたが、ギリシャのアテネというところでイエス・キリストの復活について話したところ、それまで福音については関心を持っていた方々があざ笑い始め、「それはいずれまた聞かせてもらうことにしよう」といって、まるで潮が引いていくように人々がいなくなったという話もあります。そしてそれは私たちも共感できるのだと思います。しかしそう考えてしまうのは、復活というものを理性的に考えた場合の結末です。つまり、「どうやっておきるのか」という思考になった時、あり得ないと思うのです。またそれについて説明はできません。
しかしむしろ私たちが考えたいのは、復活というものの意味です。どうして起きるのか、ではなくどういう意味なのか、理解ではなく受容すること。これが大切なことなのです。聖書がそう書いているからであり、それは起きたことなのです。そして私は、そのイエス・キリストの復活の意味を今日お話ししたいと思います。そして結論を先に言うと、今日の箇所に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。とあるように、神の復活というものは、私たちの慰めであり、平安であり、新しい力を与えるものであるということなのです。
今日の聖書個所は、キリスト教会の中でも最もよく読まれる箇所の一つであると思いますし、教会員の中にはこの言葉に救われた、慰めを受けたという方々も多くおられると思います。何故ならば、私たちは日々の歩みの中に起きる様々な出来事に「疲れ」を感じるからです。

昨日、インターネットで「疲れ」という言葉を検索してみました。その言葉に関連するサイトがどれくらいあったか皆さん想像してみてください。実に約2億3800万ページ検索されました。この世の全ての人がまるで疲れに取りつかれているかのように感じられます。また「疲れ」に関連するワードとして、「疲れが取れない」とか「疲れやすい原因」とか「疲れた。楽になりたい」という言葉が次々と出てきます。およそ疲れからの解放を求めている人々がたくさんおられることが分かります。

そして、その結果、「疲れた時にはこういう風にしなさい」という教えもまた数多くあります。例えば、生活習慣を見直そうとか、こういう食材、サプリメントが体に良いとか、あるいはメンタルの面で考え方を変えてみようということをお勧めする自己啓発セミナーもあります。宗教もその一つです。無料の悩み相談から、信仰へ。キリスト教会の中にもそういう出会いをすることがありますが、その疲れの原因を、家族関係先祖の霊、様々なものに結び付けて人を支配しようとする新興宗教団体もあります。「あなたが疲れているのは、これこれこういう理由だからだ。だから解放されるためにはこれこれをしなさい」。そのように、疲れからの解放を得るために行ったのに、また違う重荷を背負わされてしまい、疲れ果ててしまうことだってあるのです。

おそらく「疲れ」というものは、身体的なものにせよ、精神的なものにせよ、社会的なものにせよ、霊的なものにせよ、人が肉体を持ち、心を持って生きている以上、逃れることは出来ないものなのでしょう。そして安易な解決方法というものはないものなのだと思います。それではなぜイエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者はわたしのところへ来なさい。休ませてあげよう」と言うのでしょうか。それを考えるためには、その後の言葉が大切です。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
イエス・キリストは休ませてあげると言いながら、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。と言います。つまり重荷をおろしてすっきりしてハイ終わりではないということです。安らぎを得るということは継続的な営みであるということなのでしょう。それではイエスの軛とは何でしょうか。ちなみに軛というのは、農作業をする家畜の首に当てるもので、一つの軛を複数の家畜で負う時に、一人にかかる負担を減らすと共に、力は倍増するというものです。軛は自分で背負うと言うより背負わされるというネガティブなイメージの方が強いのですが、実はポジティブなものでもあります。
イエスはわたしの軛を負いなさいと言います。これは不思議なことだと思います。普通ならイエスさまが私たちの軛、重荷を背負ってくださるというイメージだと思うのですが、そうではないようです。むしろ私たちがイエスの軛を負うのです。しかもそれが私たちの安らぎに繋がると言うのです。これはいったいどういう意味なのでしょうか。

こういうことではないでしょうか。それはやはり私たちがイエスを信じ従う時に、本当の平安が得られるということです。イエスさまは私たちに私の軛を負いなさいと言います。それは言い換えるなら、イエスが私と共におられるということを私たちが自分自身で信じ、その道を歩んでいくと言うことです。私たちはついつい疲れた時だけ助けを借りて、あとは自分の思いで生きて行くというようなことを考えるわけですが、それが疲れの原因なのです。そうではありません。イエスがいつも共にいてくださる。このことを信じて生きて行く時に、私たちはどんな状況のなかにあっても、疲れることなく、神に支えられて歩むことができるのではないでしょうか。わたしはこれがイエスの軛を負って生きることだと思うのです。
今日は信仰告白とバプテスマ式がありました。信仰告白は主体的に、そして自覚的に、イエスを自分の主と信じて告白することです。そしてバプテスマはその信仰告白の見える形での応答です。わたしたちは残念ながら信仰を持っても色々なことがありますし、バプテスマを受けても何か特別な祝福が与えられるわけでも、私たちの生活の状況が改善すると言うことはありません。しかしここに自分の土台を置くときに、私たちはまさにイエスと共に軛を分かち合い、歩んでいくことができるのです。誤解を恐れずに言うのであれば、イエスを信じたとしても信じていなかったとしても私たちは神の恵みがありますし、すべての人のために十字架でいのちを献げられたイエス・キリストによって救われています。しかしそれを信じるかどうかで、私たち自身の出来事になるかどうかは変わってくるからです。しかしながら、信仰告白の中にもありましたが、実に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネ15:16)。実は私たちが選んだように見えて、神さまが全て背後で時を備えていてくださるのです。神が共におられる。これを信じていくことが大切なのです

イエスは言います。「わたしに学びなさい」。これは教えてもらうという意味の言葉ではありません。自分で見て、聞いて、確かめる、習熟するという意味の言葉です。つまりイエスをさらに知っていく時に、言い換えれば神の愛をさらに自分の出来事として確かめていく時に、わたしたちの疲れ、重荷というものは継続的に和らげられて行くのです。
私たちの歩みにはいろいろなことがあります。今現在だけでなく、過去の出来事を振り返ってみてもなんであんなことが起きたのかと思うこともあります。しかし、使徒パウロもまたこう言うのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:13)。これは全ての試練から解放されるということではありません。主イエスがその最後まで共にいてくださることなのです。そして主の復活を信じると言うことは、私たちは絶望に終わることなく、その希望を持って生きることができると言うことなのです。どんな時でも何が起こっても神が私たちと共におられる。これが私たちを支える力になるのです。神の伴いの内に、私たちも新しい歩みを踏みだして参りましょう。

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