〇コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16~18節
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
〇説教「新年ー見えないものに目を注ぐ」
明けましておめでとうございます。オンラインの方も明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。皆さまの新しい一年の歩みの上に主イエス・キリストの伴いと大いなる神の恵みと聖霊なる神の導きと守りがありますようにお祈りします。
今年はどんな一年になるでしょうか。私たちにはこんなふうになったらよいなぁという希望があります。しかしそれと同時に不安もあります。私たちは例年、新年には平和に穏やかに過ごせる一年になることを願い求めるわけですが、そのように祈る背景には不安があるからだと思います。毎年必ずと言っていいほど、思っても見ない色々なことが起きます。何を隠そうこの年末年始の暖かな陽気もまた10年に一度と言われているようです。毎年のように異常気象と言われますが、今年も何がどうなっていくのかわかりません。私たちには過去の経験から先を予測する力はありますが、見通す力はありません。だから不安になるのです。
でもキリスト者である私たちがわかっていることは、どのような困難な状況にも神さまが共におられるということです。私たちは先週に行われたクリスマス礼拝・イブ讃美礼拝で、イエス・キリストの誕生により神の到来が始まったこと、そして今私たちは神と共に歩み始めていることを確認しました。神の御子はベツレヘムに生まれました。その誕生は羊飼いたちや東の国に住む学者たちに示され、彼らは救い主に見えるために出かけて行きました。そしてついに出会った救い主は、まさに彼らそれぞれの心の内に生まれたわけです。言いかえれば、救い主は旅路を歩む私たちの中に生まれるのです。それは決して落ち着いた中に生まれるわけではないということです。しかし救い主に必ず会える、そしてお会いすることができた。この確信こそが平和に繋がり、私たちの歩みの土台になっていくのです。
今日わたしたちは元旦礼拝を迎え、新しい一年の歩みを始めました。そんな私たちのただ中に神の伴いと神の言葉が与えられているということを確認し、希望をもって一年を歩みだして参りたいと思います。
今日は「見えないものに目を注ぐ」と題してメッセージをさせていただきますが、その前に一つのことを問いかけたいと思います。皆さんは、恐らく新年の抱負を考えられたと思います。それはどのようなものでしょうか。恐らくその抱負というものは皆さんにとってそれぞれの出来事があり、大切にしたいこととして考えられたことだと思います。しかしその抱負は時々、思いだけでもっていてもすぐに消えてしまうことがあります。思いというものは、見える形にして表すことで初めて継続することとなります。行いこそがその思いを継続するために大切なことです。例えば、信仰生活も思いだけではなく、具体的な行動にすることが継続的な営みとなります。見えるものというのは、そういう意味でとても大切なものです。
ところが、パウロは今日の聖書個所でこう言っています。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。見えるものは一時的なものであり移り行くものである。本当に大切なものは見えないものであるということは、確かにその通りだと思います。行動よりも原点である「思い」や「信仰」こそ大切であるからです。でもそうは言いながらも、見えないものだけを信じて生きていくことはなかなかに大変なことなのだと感じます。希望を持っていたとしてもそれを保ち続けるのは困難である。むしろそれが見える形でやってきたのが救い主の誕生であるクリスマスと言えると思います。それではパウロが言おうとしていることは何なのでしょうか。実はパウロがここで言おうとしている「見えるもの」とは、私たちの心の内にある希望を消してしまうような多くの困難のことであるのです。
今日の聖書個所は冒頭に「だから私たちは落胆しません」とあります。落胆しないとは、やる気を失ったりしない、諦めたりしないという意味の言葉です。でもこの言葉が最初に来るということは、この手紙を書いているパウロには恐らく落胆してしまってもおかしくないほどの苦しい現実があったということでしょう。このまま続けていくのがしんどい、挫折してしまいそうになることが時にあります。「衰えていく外の人」と言うのは、年毎に衰えていく私たちの肉体のことだけではなく、この社会の中で他者との関係や様々な出来事の中ですり減らされている私たちのいのちのことです。私たちもパウロ同様に、様々な環境の中で常にストレスを受けたり、心が疲れたりしてしまう世の中に生きています。でもパウロは、そんな中でも落胆はしない。決してあきらめない。決して私たちの都合の良いようにいく社会ではないけれど、決して挫折したりやる気を失ったりすることはないと言うのです。
どうしてそんなことが可能になるのでしょうか。パウロは続けます。それは外なる人は衰えていくとしても、「内なる人」は日々新たにされていくからなのです。「内なる人」というのは、ただの自分の心のことではありません。イエス・キリストにあって生かされている自分のことです。イエス・キリストが私たちと共にいてくれるということ。このキリストがどんな時も私たちがどんな状況にどんなにすり減らされたとしても、私たちを支えてくれるということです。これが私たちのいのちを守るためにとって決定的に大切なことなのです。そして、この方が共におられることを信じた時に、わたしたちの艱難は、それがたとえどのようなものであったとしても、それは一時的のものでありすぎゆくものとなるのです。その艱難はイエス・キリストが共におられる限り、私たちのいのちを失わせるようなものにはならないのです。
そこには絶対に失われることのない希望があるのだということをパウロは教えています。私たちは目に見える苦難にばかり心が動かされてしまいますが、しかしだからこそパウロは見えないもの、つまり見えないけれど共におられる神に目を注ぎなさいというのです。
でも、そうは言われても、見えない神がわたしと共にいると言われても、どうしてそれを信じることができるでしょうか。そのように言うだけでは多くの人は信じられないと思います。また私たちもたとえ一度は信じたとしても、その困難が長引けば長引くほど信じ抜くことは難しいことだと思います。これはある意味で仕方のないことです。むしろ、人間は見ないと信じられないものだから、神はイエス・キリストを見える神の形としてこの世にお送りになったのです。旧約聖書を読むと、人はいくら預言者が言葉で神の存在を伝えようが、自分が見なければ信じられない姿をあからさまに現しているのです。でも、この事実は、見えない神を信じたいと思っても、信じ続けるのは困難であるということを明らかにしています。だから目に見えるものは大切なのです。
しかし、私たちの目に見えるものというのは、私たちを励ます一方で、私たちの心を挫くこともあります。でもそのような時、目には見えない神の伴いを信じることで、私たちは歩むことができるようになるのです。そしてその時、一人の人の歩みは多くの人の希望の光になって行くのです。ここで、まさに目の前にある絶望的な状況に神の伴いを受けて立ち向かった一人の人を紹介したいと思います。
それはペシャワール会の中村哲さんのことです。中村哲さんは2019年12月4日に狙撃されて亡くなりました。その日から、もう4年経ちましたが、彼がアフガニスタンやパキスタンで始めた事業は今も生き残っています。
中村哲さんのことは、もうご存知の方が多いと思いますので、多くは触れません。彼は当初地域の人々の医療活動に当たっていたわけですが、次第に地域の人々の病気の原因が食糧不足と栄養失であったことに気付くことになりました。人々の生活を環境から変えないと、病気は減ることがない。彼は自らメスを持つ手を重機を操る腕に代え、荒れ地に水路を作る灌漑事業を始め農地を回復させていきました。本当に人々の健康的な生活を支えるために必要なものはクリニックではなく生活環境の整備であると思ったのです。
思うは簡単、言うも簡単、でも、実際に行うことは困難を極めたと思います。技術もなく、仲間もいない。機械もなく、資金もありません。目の前には中央アジアの荒れ果てた土地が広がっています。水路を作るなんてまるで夢物語、想像を超える無茶な計画であったと思います。恐らくみんなに「やめとけ」と言われたと思います。でも彼はその計画をスタートしました。周りの人は冷ややかに見ていたそうです。でもそのうち次第に人々も彼の本気さを知り、共感するボランティアが現れ、ついに水路を作ることができました。そして荒れ果てた大地に緑が戻ってきたのです。
目に見えることに従えば、それは不可能に近いことだったと思います。しかし見えない神の伴いによって彼は、この事業を行っていくことができたのではないかと思います。まさに荒れ地に河を通すこと。人々の生活、いのちの守りのために、自分にできることを行うこと。これが、見えない思いがなす見える行い、そしてこれが人々のいのちを生かすことに繋がっていきました。そしてそれは、まさにイエス・キリストの歩みに倣うことであったのではないかと思います。
これは見えるところだけに目を注いだ結果ではなく、見えないところに目を注いだ結果だと思います。私たちは見えるところだけを見ると、困難に挫折してしまいそうになります。でも夢や希望を持ち、必ずや神がそれを導いて下さるということに目を向ける時、必ず新しい道が開かれていくのです。
さて、私たちにも困難な状況はあります。でも、神はこのようなときこそ共におられる。見えない神に目を注ぐことが大切なのです。何故かと言うと、まさにまず初めに神がちっぽけで何も見えないような私たちのいのちに目を注いでくださっているからなのです。
中村さんのようなことは何もできない私のようなものに対しても神は、「私はあなたを愛している。私はあなたのためにそのいのちを惜しまずに与えたのだ」と言ってくださり、御子イエス・キリストを示されるのです。そのときに気付くのです。あぁ、神はわたしたちに必要な恵みを与えてくださっている。私たちは無力ではない。神は私たちに、困難に立ち向かっていく知恵と勇気をお与えくださっているのです。神はわたしたちに「落胆しないように、」期待しておられるのです。私たちの内なる人は日々新たにされ続けているのです。
マルチン・ルターは、「たとえ明日世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」と言い、人は希望によって生きていくということを示しています。わたしたちもまた、自分に与えられた思いを大切に、この一年、神にのみ目を注いで歩んでまいりましょう。