〇マルコによる福音書 9章14~24節
一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」。イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」。人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。
〇説教「 信仰のないわたしをお助けください 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、主の豊かな祝福と恵みに満ちた日々となりますようにお祈りしています。
私たちは現在、復活されたイエス・キリストが、弟子たちと40日の間共におられたことを記念する復活節という時期を過ごしています。復活という出来事は、科学的に立証することは出来ません。また説明することが極めて難しい事柄です。しかし大切なことは、その出来事が弟子たちにとって絶望からの復活、新しい歩みを導く力となったことです。ルカ福音書では、エルサレムを離れエマオへの道をとぼとぼと歩いていた二人の男性にイエスが寄り添い、み言葉を分かち合い、パンを割かれたときに、彼らの心は燃えました。それがイエスの伴いと御言葉から力を受けるということです。私たちも今、同じように、イエス・キリストの御言葉を受け取り、新しい歩みを支える力を受けていきましょう。
今日の聖書箇所は、先週の「イエスの変容」に続くお話ですが、ここでは「信仰とは何か」ということがポイントになります。弟子たちの信仰の行い、また悪霊の追い出しを願う父親の信仰の姿を見ることで、イエス・キリストが私たちに願っている信仰の在り様を共に黙想してまいりましょう。
イエスが山の上で光り輝く姿に変わるという「変容」が起こった時、同行していたペトロとヤコブ、ヨハネ以外の残された弟子たちの元には、悪霊に取りつかれた息子の癒しを懇談する父親の姿がありました。息子の症状は「霊が取りつくと、所かまわず地面に引き倒し、口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまう」というものでした。実は平行記事であるマタイによる福音書ではこれは「てんかん」として理解されていますが、マルコでは悪霊の働きとして理解されています。当時は原因不明の身体的、精神的な病気や症状は悪霊の働きと理解されていたからです。
そういうわけで父親は息子の悪霊からの解放を求めていますが、それは癒しと同じ意味でした。父親はそれこそ息子のために、色々なところに助けを求めて出かけて行っていたのだと思います。マタイ福音書には長い間出血が止まらずに苦しんでいた女性の話がありますが、この父親と息子の姿はそれと似ています。恐らくは枯れも息子からの悪霊の追い出しを求め、色々なところに出かけて行って助けてほしいと願っても癒されることなくかえって悪くなり、お金も使い果たし、さらには家族やその周りの人々との関係も悪くなり心が傷ついている中で、藁にも縋る思いでイエスさまの元にやって来たのではないでしょうか。恐らくは一言では語り尽くせないとても大変な状況にいたとは思いますが、それでもなお息子の癒しを求める姿に、父親の愛情が感じられます。
ところが、彼らがやってきた時、イエスさまは山に行っていてそこにはいませんでした。なので、代わりに弟子たちが癒そうとしたわけです。ところがどういうわけか弟子たちは悪霊を追い出すことができませんでした。実は弟子たちはマルコ3章で12弟子に選ばれた時、「汚れた霊に対する権能」を授かっていました。そして彼らは遣わされ、方々の町や村で悪霊を追い出す働きをすでに行っていたはずなのです。それなのに、彼らは息子から悪霊の追い出すことができなかったというのです。なんでできなかったのでしょうか。気になります。
実はここに律法学者たちも来ていて、議論が起きていたようです。恐らくはなんで癒せなかったのかということについて議論していたのでしょう。私たちはこういう時、父親と息子のことを考えるよりも、むしろ自分にできるはずなのに、なぜできなかったのだろうかということに心が向かってしまい、悶々としてしまうことがあります。今日はお読みいただきませんでしたが、今日の一連の物語の最後に弟子たちがひそかにイエスさまのところに「なんで癒せなかったのか」と聞きに来るシーンがあります。この「ひそかに」という言葉に彼らがまさしく自分たちの立場を気にしていたということがわかります。
さて、そんなときにイエスさまが山から帰ってきました。一連の出来事の説明を弟子がするのではなく、群衆の中のある者がしたということに、弟子たちのばつが悪そうな様子も伺えます。イエスさまは言います。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。これは大変厳しい言葉です。イエスさまは弟子たちの不信仰に憤っておられるように感じられます。しかし、果たして弟子たちは叱られるようなことをしたのでしょうか。実は、わたしにはそのようには感じられないのです。何故ならば弟子たちが悪霊を追い出そうとしたことは、イエスさまが不在であったためであり、イエスさまの代わりにやろうとしたことであったからです。ですから、結果としては追い出せなかったとしても彼らがそれに努力したことはむしろ信仰のなせる業ですから、むしろ評価しても良かったのではないかと思うのです。
むしろ、ここで不信仰な態度というものがあるとしたらその人を癒そうとしない、イエスさまに与えられた権能を信じない態度なのではないかとも思うのです。ですから私に彼らには信仰はあったと思うのです。でも、確かに癒せませんでした。それではイエスは彼らの信仰の薄さにあきれ果てたということなのでしょうか。やはり大きな奇跡を為すには信仰の大きさ、強さというものが問題になるのでしょうか。しかし、イエスは彼らになんでできなかったのかと言われたとき「信仰が薄いからだ」とは言っていません。むしろ「祈りに寄らなければ追い出せない」と言っておられます。
それでは「祈り」とはなんでしょうか。それはイエスを求めると言うことなのではないかと思うのです。すなわち、弟子たちが悪霊を追い出せなかったとき、何故自分にそれができないかを議論するのではなく、むしろ父親と息子のために直ちにイエスさまを呼び求めること、じぶんではできないことでもイエスさまに信頼し、委ねようとすることが大切だと言うことなのではないかと思うのです。
もしそうだとしたら、イエスが言う「信仰のない時代」というのは、弟子たちの信仰のなさを憤っているわけではないと思うのです。むしろイエスを求めずに、自分の力で何とかしようとしてしまうこと。自分で何とかしてしまわないといけないと思うこと。これが信仰のない時代と言えるのではないでしょうか。それは言い換えれば、神の伴いを信じないことであり、神の慰め、憐れみを求めないで、何とか自分でやっていこうとすることに繋がっていくのではないでしょうか。しかしそれは、神の御心とは異なる的外れな歩みに行ってしまうことであると言えるのではないかと思うのです。イエスは彼らの信仰のなさというものを憤っていたのではないのかもしれません。むしろ、自分に求めないことを悲しまれたのではないでしょうか。
ですからイエスの厳しい言葉をもう少し言い換えるとするならば、こうなるのではないでしょうか。「今、私はこの世に来ているのに、何故あなたがたはわたしを求めに来ないのか。何故、自分の力でこの息子を癒そうとしたのか。私を呼んでくれたらすぐに問題は解決したのに」。だからイエスさまは「その子をここに、私のところに連れてきなさい」。と言って、すぐに子どもを癒されたのです。つまり、「あなたがたには私は遠くにいるように感じることはあるだろう。しかし私を信じなさい。安心しなさい。わたしはすぐに来て、あなたを助けるのだから。わたしはあなたがたを一人にしておかない。私は世の終わりまであなたがたと共にいるためにここにきたのだ」というメッセージに受け取れるのです。
このイエスのメッセージは、この父親にも向けられています。父親は言うのです。「おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい」。実はマタイ福音書では、この父親は、イエスに向かってひれ伏し、懇願する姿勢を示しています。しかしマルコ福音書では、そのような父親の行為は記録されていません。もしかして不遜な態度でいたと言うことでしょうか。それはわかりませんが、しかし彼が自分で発言しているように、彼に信仰心はなかったということは言えるのではないかと思います。
しかし、それは彼と息子のこれまでの歩みを考えてみればわかるのです。これまで彼らは助けてくれる人がいると噂を聞けば行っていたでしょう。何故なら、息子は幼い時から悪霊に取りつかれていたからです。そして火の中や水の中に息子を投げ入れると言うのですから、早く助けたいと思う気持ちは切迫感のある言葉として響いてきます。
ところが、これまで彼らの願う様にはなってこなかった現実があるのです。期待をするたびに裏切られ、悲しさが募り、もう無理なのではないかという気持ちが溢れて来そうになる。しかし諦めてしまったらもうやっていけない。立ち上がることさえできなくなってしまう。そのようなギリギリの状況の中で、彼らは歩んできたと思うのです。ですから、彼らはイエスにできることならと期待しながらも、もし無理だったらということを考えると胸が張り裂けそうになります。彼らは自分たちの心を守るために、このように「できれば」と言ったのではないかと思います。
そういう彼に信仰はあったかと言われると、やはりなかったのではないかと思います。しかしイエスは信仰心がないからだめだとは言われないのです。「できればと言うか。信じる者には何でもできる」。この言葉は、父親のふさがりささくれ立ち、固まった心をもう一度動かすような言葉になったのではないかと思うのです。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。彼の叫びは、信仰があるんだかないんだかわかりません。しかしわかることは、「信仰心のかけらもないような私だけれども、あなたのことばを是非信じたいと思っているのだ。全てを委ねるから、信じれないわたしのことを憐れんで下さい」。ということなのではないでしょうか。
先ほど言いました。自分たちにはできないけれど、イエスに求めること。全て委ねること。これが「祈り」です。自分たちの信仰心が固かろうが強かろうが弱かろうが、大きかろうが小さかろうが、そういうことは関係ない。イエスを求めること。イエスを信じることができないまでも、寄りすがって生きるときに、私たちに起きること。これが私たちに与えられる解放の出来事であり、癒しであり、自由ということなのです。
祈りというものは、ただの言葉ではありません。魔法や呪文でもありません。私たちの心を神に向け、神にのみ届けられる私たちの本心の叫びです。
この箇所からわかることは、祈りとは、私たちが直面するあらゆる困難の中でもあきらめない勇気を与える力になります。それはわたしたちが一人ではないということを改めて感じる時であります。時に私たちは祈っても無駄だと感じてしまうこともあります。祈る前から諦めてしまうこともあります。しかし、この父親が言ったように「信じます。信仰のないわたしをお助けください」この祈りにこそ、この信仰にこそ、神の応答があるのではないでしょうか。私たちもまた信仰のない時代を歩んでいます。しかし救い主は既に復活され、私たちに共に生きていこうと招いてくださっています。私たちはこのイエスさまを見上げましょう。そしてこの神の御業を心に留め、祈りつつ、この時を感謝と賛美を持って歩んでまいりましょう。