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2023年7月30日説教全文「新しい葡萄酒は新しい革袋へ」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 2章18~22節

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」。

〇説教「 新しい葡萄酒は新しい革袋へ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週25日の火曜日についに九州北部一帯も梅雨が明け、いよいよ夏に入りました。とは言いましても、その前から暑い日が続いていますし、時々雷雨があります。この夏も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みが祝福されますようにお祈りしています。学生の皆さまはいよいよ夏休みの始まりです。普段とは違う新しいチャレンジをされこともあるでしょう。皆さまの夏の日々の充実のためにお祈りしています。

私たちは今日もイエス・キリストの教えを聞いていきましょう。今日の聖書個所は、文脈的には非常にわかりやすい物語だと思います。いわゆる「断食」という行いについてです。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食していたのに、イエスの弟子たちは断食をしていなかったことについて、「何故しないのですか」と問われた時のイエス・キリストの反論が、今日のポイントです。イエス・キリストはこう言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」。

この発言には三つの文節があります。最初の言葉は、「今は断食しないけれど、後々に断食することになる」と言うように、ある意味では断食を尊重するように聞こえますが、続く二つの言葉は、新しいものが古いものを破壊するかのように聞こえ何か食い違っているように思えるのです。もしそうだとしたら、イエス・キリストは「断食」など昔から伝わる宗教的な行いを否定して、新しい世界を作っていきたいと言っているのでしょうか。実はこの後半の言葉を由来として生まれた日本のことわざがあります。「新しい酒は新しい革袋に盛れ」ということわざです。その意味についてインターネットのコトバンクにはこのように記されていました。「新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要であることのたとえ」。
それでは、果たしてイエス・キリストは「断食なんてもういらないんだ」ということを伝えたかったのでしょうか。しかしそうであるならば、何故「花婿が奪い取られる時には断食する」と言われたのかが分かりません。今日はまずはイエス・キリストは断食をどのように考えていたのかと言うことを考え、イエス・キリストがここで一体何を伝えようとしていることを考えてみましょう。聖書個所を詳しく見ていきましょう。

「断食」というのは、最近ではダイエット方法の一つとしてや、ファスティングという腸内環境を整えるために一定期間食事を抜くことで身近に感じられることでありますが、元々は様々な宗教で行われている宗教的行為の一つでありました。それは、食事を断つことによって精神を研ぎ澄まし、集中して神との祈りの時を持つということです。ヨハネの弟子たちもファリサイ派の人々はそういう儀式として断食を守っていました。ヨハネの弟子たちというのは、バプテスマのヨハネの弟子のことです。バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの前に生まれた預言者であり、ヨルダン川でイエスにバプテスマを授けた張本人です。彼は、人里離れたヨルダン川に住み、ラクダの毛衣を着て、腰に革の帯を付け、いなごとの野蜜を食べているような人でした。そして彼が行っていたことは悔い改めのバプテスマを授けることで、悔い改めない人には来たるべき裁きを語っていました。一言でいえば、神様のみ言葉に超ストイックに生きていた人だと言えるでしょう。彼らの弟子たちもまたヨハネに熱心に学び、自覚的に清くあろうとストイックに生きていたと思われます。

ファリサイ派の人々も同様です。彼らは律法を順守して生きて行こうとしていた人々です。両者の違いは何かというと、ファリサイ派は街中に住み、律法の言葉を生活のルールのように当てはめて守っていましたが、ヨハネの弟子たちはさらにそこを突き抜けて、集団生活をし、来るべき裁きの日に備えて生きていたようです。ヨハネからすればファリサイ派は生ぬるく悔い改めていない存在であり、ファリサイ派からすればヨハネは「悪霊に取りつかれている」と噂されるほど、ちょっとついていけない存在だったのではないかと思います。しかしながら、彼らが断食をしていた事実は変わりません。しかし、イエスの弟子たちは断食を行っていなかったので、彼らは、そういうところが気になるところだったのではないかと思います。ですから、彼らがイエスに質問した理由はもちろんよくわかるのです。

ところが、イエス・キリストの反論はよくわかりません。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。これは、どういうことなのでしょうか。

花婿とは、イエス・キリスト御自身を指すと思われます。そして、婚礼の客が断食しないと言うことであれば、この場合は弟子たちのことだと考えられます。つまり弟子たちが断食しないのは、今がイエス・キリストが共にいる喜びの宴、婚宴の時だから断食はしないのだと言うのです。断食をしない理由として、これはよくわかります。しかし、「花婿が奪い取られる時には断食するようになる」というのです。花婿が奪い取られる時とは、イエス・キリストが十字架に架けられ、殺される時のことだと思います。それでは、なぜその時に断食することになるのでしょうか。

私は、その断食と言うのは、ここでヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々が行っていたものと意味が違うのではないかと感じています。
と言うのは、大切なのは断食そのものではなく、イエス・キリストがこられた喜びの宴が既に始まっていると言うことであるからです。神の子イエス・キリストがインマヌエルとしてこの世に来られたと言うことは、すべての人々っての救いの出来事であり、神が人々を顧みているしるしであります。この喜びの宴には、すべての者が招かれています。そのすべての者というのは、罪びとと呼ばれた者たち、病の中にある者たち、思い悩みを抱えている者たち、これからどうして言ったらよいかわからない者たち、誰も自分を愛してくれないと悲しんでいる者たち、心にも体にも飢え渇きがあるような者たちのことです。断食して神の前に清くなろうとすることさえできない方々を招くためにイエス・キリストは来られたのです。では、花婿が奪い取られたときにする彼らの断食とは、どういうことでしょうか。

実は聖書全体には、断食と言う言葉は56回登場します。(旧約37回、新約19回)。断食は、神への悔い改めの行為、或いは神の憐れみを乞い願う嘆願として行われています。それはある意味、ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちが行っていたことと同じです。しかしそれがいつしか、断食を行うこと自体が目的となり、宗教的に清い人であり信仰者であると思わせるためのものになってしまっていたのです。しかし、本質的に断食とはそういうものではありません。だから神はイザヤ書58章で断食についてこう言われているのです。
「見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」。

つまり、イエス・キリストの弟子たちが行うようになると言われた断食は嘆き悲しみ、憐れみを乞う断食ではありません。むしろ神の恵みを分かち合い、共に生かされていくための断食です。与えられた恵み、糧の分かち合いなのです。というのは、私たちには聖霊が与えられ、神の守りと神の恵みをいつも受けているからです。むしろイエス・キリストの十字架の死は私たちの罪の赦しのための犠牲の死であり、罪赦されたものにとっては、感謝の日であるからです。ですから私たちが行う断食というものは、イエス・キリストが私たちを愛されたように、私たちが遣わされ、人々を愛するものになっていくことであるのです。イエス・キリストが為されたように、与えられた恵みを他者と分かち合い生きて行くことが、イエス・キリストがここで言われた私たちの行う「断食」であるのです。

さて、そもそも「断食」と言う言葉には色々なイメージが付着しています。皆さんの中にも「断食」という言葉を聞いて、「これこれこういうものだ」というイメージが出てきたのではないかと思います。しかし、私たちはそのようなイメージを新しくしなければなりません。イエス・キリストは、それを「新しい葡萄酒は、新しい革袋へ」と言っているのではないかと思うのです。

私たちは、みな古い革袋、古い価値観を持った存在です。何故ならば、これまでの常識という古い葡萄酒に満たされて生きてきたからです。しかし、神の御言葉であるイエス・キリストは新しい葡萄酒としてやってきました。それは、古い革袋を破るような言葉です。
「葡萄酒と革袋」のイメージで考えるならば、革袋を破ったらもう使えなくなってしまうので、古い革袋は破らないように、むしろ大切にしておいて、新しい革袋にいれようという話になるのですが、新しい葡萄酒は新しい革袋に入れて、古い葡萄酒は古い革袋に入れて、それでよいじゃないかというお話しにはなりません。もし、それなのであれば、ここで譬えに出す意味がまったくないからです。
実はルカによる福音書の平行記事では、39節に「古い葡萄酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。「古いものの方が良い」と言うのである」。(ルカ5:39)とあります。しかしこれはマルコ福音書の教えを後退させているように思います。これがワインの話であればわかるのです。年代の若い葡萄酒よりヴィンテージ・ワインの方が貴重なもののように言われるからです。しかしこれは譬え話であり、福音の話なのです。恐らくルカにはそのような配慮をせざるを得ない理由、恐らくユダヤ人が大切にしていた「律法」というものへの配慮があったのでしょう。

しかし実にイエス・キリストは、そういうことを伝えようとしているのではありません。私たちの古い革袋が福音によって破られ、新しい革袋になっていくことを期待してこのように言っているのです。

私たちは、何によって自分たちを満たしていくでしょうか。律法を守ること。或いはこれまでの言い伝えを信じることでしょうか。これまでの通りに生きるのであれば、イエス・キリストの福音はもう必要ないのではないでしょうか。そうではなく、新しい葡萄酒であるイエス・キリストに私たちの革袋を破られて、日々新しくされていくことが私たちにとって大切なのではないでしょうか。

もしかして、教会員のみなさんの中には、今日のこの聖書個所を、この教会の文脈で考えられた方もおられるのではないかと思います。昨年度私たちの教会は100周年を経ました。この100年の間には、延べ人数2236名が教会員として名を連ね、名だたる牧師たち、執事たちによって支えられてきました。この間に生まれた伝統もやり方もあるでしょう。そんな時にこの教会の牧師となった西脇は、この教会をどのように変えていくのか。古い革袋を破っていくのか。それとも馴染んでいくのか。戦々恐々としている方々、期待している方々もおられると思います。聖書個所としてはタイムリーな話題だとも思います。しかし、大切なのはこれは牧師の話なのではなく、私たちそれぞれの話です。

私からお伝えしたいことは、大切なことは、イエス・キリストの御言葉によって私たち自身が造り変えられていくことだけであるということです。イエス・キリストは言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。(ヨハネ3:3)
新たに生まれるということが大切です。「悔い改め」と言う言葉があります。ギリシャ語では「メタノイア」と言いますが、これは別の言葉に訳しかえると「立ち返り」或いは「方向転換」という意味です。私たちが日々、方向転換していくために必要なのが、イエス・キリストの言葉であるのです。

イエス・キリストの言葉は、今は霊の言葉としてまさに説教として私たち一人一人に投げかけられています。私たちは自分の革袋を守るのではなく、革袋を新たにして福音に生かされて参りましょう。

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