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2023年7月23日説教全文「私は罪びとを招くために来た」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 2章13~17節1

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

〇説教「 私は罪びとを招くために来た 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週ようやく日本各地で梅雨明けが始まりました。一方、大雨で被災された地域はまだまだダメージがあります。台風発生の情報もあります。この夏の間、全ての人の生活の守りのためにお祈りしたいと思います。
今日より久しぶりに西南学院中学校、高校の生徒さんや保護者の方が礼拝に来てくださっています。心より歓迎します。私たちの教会は西南学院のために建てられた教会であり、初代牧師は西南学院創設者のC.K.ドージャー先生です。今お集まりの礼拝出席者の中には皆さんと同じように西南の卒業生や、現役教員、元教員の方々もたくさんおられます。コロナ禍が始まった3年前より礼拝出席が中止されましたので、初めての礼拝出席の方々も多いと思いますが、諸先輩方の多くがこの教会の礼拝に集い、卒業していかれました。中には時々久しぶりに礼拝に来られる卒業生もおられます。緊張している方もおられると思いますが、どうぞリラックスしていただきたいと思います。教会員はとても歓迎しております。
さて、私も今年度二回、西南中高のチャペルでお話をさせていただきました。覚えておられる方もいると思います。皆さんは学校でチャペルの時間を持っていますので、礼拝に慣れていると思うかもしれませんが、学校と教会の礼拝には大きな違いがあります。それは、他の年代層の方々と共に礼拝を守ると言うことです。ここに集まっている方々は、何十年来の信仰を持った教会員を始め、最近礼拝に来られるようになった方々など様々な方がおられます。中には西南学院の保護者の方が子どもが学んでいる聖書を自分も知りたいと思い、継続して出席されている方々もおられます。また色々な出来事の中で、聖書の言葉に希望と慰めを頂いて歩み出していきたいと願っている方々が集っています。礼拝は、神の言葉と向かい合い、自分自身の歩みを振り返る大切な時であります。しかし決して一人の出来事ではなく、色々な違いを持った皆さんと共に聖書の言葉を分かち合う出来事です。わたしも全力で聖書のお話をしていますので、是非皆さんも、自分たちの出来事としてこの時をお過ごしいただけますよう、よろしくお願いします。
それでは聖書のお話に入ります。本日は、「レビを弟子にする」という聖書個所からお話をします。当教会では今年度マルコによる福音書を続けて読んでいますので、関心のある方はどうぞ続けてご出席ください。イエス・キリストは約2000年前にイスラエルという国の北部ガリラヤという地域で福音宣教をされていました。福音と言う言葉はなかなか日常では使わないですが、言い換えるとGoodNews、良き知らせのことです。それでは、何が良い知らせの内実とは何か。それが「あなたは神が創られた大切な存在だ」。「あなたは神によって愛されている存在である」。ということでした。極めてシンプルなこの言葉が何故良き知らせなのかと言うと、そういう基本的なことが認められない社会がそこにあったからです。
人間社会というものは、人がそれぞれ大切な固有の大切な存在であるにも関わらず、平等な存在性を認めることができていません。例えば能力の優劣、資産の量、年齢、民族や文化など様々な違いを比べ、優越感に浸ったり、劣等感に悩まされたりすることがあります。時に人が個人としての尊厳を保つことができない状況もありますし、それを補うために自分以外のものに依存する場合もあります。私たちもそう思うことがあるかもしれません。私が自分として精一杯生きているなのに、それが他の人と比べると全然認められない状況というものがあります。そういうことが続くと自分なんか誰にも愛されていない。神にも見放されているのではないかと思うことがあります。そんな時、私たちはまた別のものに依存することがあります。イエス・キリストが生きていた時代、イスラエルではユダヤ教の律法という教えを守れる人々が正しい人々で、守れない人々は罪びとだと見做され、差別され、集団から排除されることがありました。罪びととは、犯罪者のことではありません。律法という教えを守れないためにつけられたレッテルです。これは、当時イスラエルがローマ帝国に占領されている状況がある中で、ユダヤ人たちが自分たちの正しさを守るために、律法に自分の尊厳を依存していたために起きた差別構造だとも言えます。

今日の聖書個所に登場するアルファイの子レビを取り巻く環境は極めて象徴的です。彼は収税所に座っていました。収税所とは今でいう税務署のようなところです。恐らくレビは、徴税人であったと言われています。彼が取り扱っていた税金がどのような種類のものであったかについては関税とか人頭税とか諸説ありますが、大切なのは、この税金が当時この地域を支配していたローマ帝国に納められる税金であったということです。税金とは、国に納められるもので国を運営するために集められる大切な資金です。ところが、ユダヤ人たちにとっては、自分たちが納める税金であるにもかかわらず、自分たちのユダヤのために使われるのではなく、そこを占領している国のために納められるものになっていました。つまりレビは、ユダヤ人であるにもかかわらず、ローマ帝国の手先となって税金の取り立てを行っていたのです。同胞のユダヤ人からはどう思われるでしょうか。裏切り者とか守銭奴とかそういう色眼鏡で見られていたのではないかと思います。
レビが収税所に座っていたという表現に、彼は恐らくユダヤ民衆の中に居場所はなかったと言うこと感じさせます。恐らく彼は自分の身を守るためにそこに座っていたのです。ところがそんな彼を通りがかりに見かけて声をかけられたのが、イエス・キリストでした。イエス・キリストはその前の箇所で、湖に向かい群衆に教えておられたという状況設定があります。教えながらの道中であったのでしょうか、それともそれが終わってからの帰り道だったのか、収税所にいるレビを見かけられたのでしょう。

どうしても気になるという存在があります。頭に残り続ける出会いというものがあります。イエス・キリストはレビに何を見たのでしょうか。もしかして、彼の表情や空気から、彼の心の中にあったもやもやを感じたのではないでしょうか。居場所がなく、落ち着く場所もなく、ただそこに座っているということ。誰も自分のことをわかってくれない。今後どうしたらよいのかわからず、動き出せないことがあります。そんな時、イエス・キリストがレビに話しかけられたのです。「私に従ってきなさい」。
みなさん、初対面の人にこのように言われたら、普通はついて行かないと思います。しかし、ついていきたいと思わせる出会いと状況というものがあります。レビの心にはこの言葉がどのように響いたのでしょうか。それは恐らく「徴税人」という属性ではなく、「自分自身」として見てくれたことへの喜びだったのではないかと思います。人から目も向けられない、声をかけられることもない、微笑まれるよりも睨みつけられるようなことが多かったであろうレビにとって、自分を気にかけてくれる存在、声をかけてくれる人の存在が大きく響いたのではないでしょうか。彼は、立ち上がり、イエスに従って行きました。従って行くというのはただ付いていくだけではなく、その言葉、その関わりに生かされていくということです。つまり彼はその時、これまでとは違う新しい歩みに踏み出したのです。

イエス・キリストに従って行くと言うことは、時々「すべてを捨てて従って行く」という意味に受け取られることがあります。ペトロやアンデレという弟子たちは確かに網を置いて、つまり生活の糧をすべて捨てて従って行きました。しかしレビは、自分のこれまで用いたものを使いながらイエスに従って行っています。イエスに従う、神を信じるということには、色々な方法があるということを心に留めたいと思います。
彼はイエスさま一行を自宅に招き食事をしました。自分だけではなく、自分と同じ境遇であった徴税人や罪びとと呼ばれる方々も誘い、共に交わりをしていたようです。当時食事の交わりというのは親密さを現わすことでした。しかも自分の家に招くと言うのは、自分の心が解放され、他の人を受け入れる余裕ができたと言うことです。恐らくこれは、レビの心の中に起きた感動から始まったことでしょう。自分のことをわかってくれる人がいた。認めてくれる人がいた。たったそれだけのことです。しかしその時に彼の心に起きた喜びは想像に難くありません。そして喜びは多くの人と共に喜ぶことでもっと大きな喜びとなります。喜びの宴がここに始まっていました。

ところがそこに水を差す人が現れます。ファリサイ派の律法学者です。彼は言います。「どうして彼は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか?」楽しい宴を一瞬で凍り付かせるかのような一言です。「お前たちは罪びとなんだよ。誰ともお前たちとは食事をしたくないんだ」とでも言うかのような言葉です。彼らを喜びから一転、現実に引きずり戻し、さらに奈落の底に叩き落すかのような一言でした。このような言葉は、彼らが徴税人たちを人として見ていないからこそできる発言です。
イエス・キリストは言います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。つまり、神の教えである律法を守っている人たちのために私は来たのではなく、罪びとのために来たのだ。だから、私がここで食事をしていることに、何の問題もない。と言っているのです。この言葉によってこの物語が終わっていることを考えると、このイエス・キリストの立場を現わす一言にレビや徴税人や罪びとたちは慰めを受け、実存が肯定され、律法学者はぐうの音も出せずに逃げて行ったということなのかなと思います。

でも、ここには一つ大きな課題が残ります。それはイエス・キリストも彼らのことを罪びととして見ていたのかということです。彼らは果たして罪びとであったのでしょうか。先ほども申し上げましたが、律法に違反していたという意味においては、彼らは確かに罪びとでありました。でも問題は、「罪びと」と呼ばれることによって、彼ら自身も他の人とは違う罪びとなんだ思い込まされてしまうことでした。
私、思うのですが、彼らはそれだけ苦しい目に遭いながらなんで徴税人を辞めなかったのでしょうか。周囲の人から白い目で見られるのが苦しいなら後ろ指を指されないような仕事をすればよかったのではないでしょうか?彼らだって罪びとと呼ばれることは嫌だったと思います。周囲から切り離されるわけですから、しかし彼らはそれでも徴税人を辞めることはありませんでした。何故でしょうか。その仕事にうま味があったからということは一つ言えるかもしれません。当時徴税人は税金のピンハネが出来たそうですので、やめられなかったと言うことはあるかもしれません。しかし、その代わり社会的信用を失うことでもありました。徴税人は裁判の時に正当な証言をすることが赦されなかったそうです。お金を稼げても心は満たされません。何故彼らはその仕事を辞めなかったのでしょうか。恐らく、それは、その仕事は自分が辞めても他の人が必ず引き受けざるを得ない役割であったからです。罪びとと呼ばれることは苦しい、しかしこれは誰かがやらなくてはならない仕事だ。彼らはそういう意味では、人々の憎しみを一身に受け止めながら働いていたのです。
イエス・キリストは彼らのそのような思いを受け止めていたように思います。だから「徴税人をやめて悔い改めて従ってきなさい」とは言われず、そのような罪を受け止めている者を招くために、私はやってきたのだと言われているのです。それは罪びとへの関わりではなく、重荷を負いながら苦労しているその人そのものに出会って行くということであります。

今日の聖書箇所でのイエス・キリストの招きというものには二つの形があると思います。一つは新しい歩みへと導くことです。一方で、そのままそこに留まり続ける人に寄り添うものでもあります。自分たちのことをわかってくれる人がここにいる。この交わりに私も共にいることが許されている。自分のことをしっかり理解してくれる人が一人でもいれば大丈夫だ。彼らにとってはこのイエスの言葉が、福音として良き知らせとして届いたのではないかと思うのです。そして彼らは、新しい歩みを始めるにせよ、これまでのところに留まるにせよ、もはやかつての自分ではないという思いを持って歩むことができるようになったのではないでしょうか。

実は私にもマタイのように自分の行く場所がなかった時期がありました。中学生の時、同級生の悪ふざけによって心が傷付き、友達に会いたくない時期がありました。なんで自分がそんな目に遭うのかわからず、またそのような痛みを受けている自分という存在も受け入れられませんでした。登校拒否になったわけではありませんでしたが、学校に私の居場所がなくなったかのように感じたのです。代わりに私の居場所になったのが教会でした。教会は直接的には何もしてくれませんでした。でも、当時他の人に何も話したくなかった私にとっては落ち着くところでした。イエス・キリストが共にいてくれるとかそんな風に思ったわけではありませんが、私がいても良いところでした。そんな居場所があることは、私たちにとって一つの安らぎの場であり、回復の場となります。

イエス・キリストは全ての人の居場所となられる方です。イエス・キリストは通りがかりにたまたま目に入ったレビをお見過ごしにならなかったように、私たちにも同様に思っておられます。教会は祈りの場であります。私たちの心の中にある思いを神さまに委ね、平和と喜びを頂いて歩みだして参りましょう。

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