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2024年5月5日説教全文「火によって塩味を付ける」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 9章42~50節

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。

〇説教「 火によって塩味を付ける 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日はゴールデンウィークの後半の日曜日ということで、教会員や定期的に礼拝に出席されている方々の他、初めての方、ご旅行中の方も礼拝に出席されておられます。また、反対にいつも来られている方々の中には、帰省やご旅行でお休みの方もおられると思います。今週の歩みが皆さまにとって良き出会いと休息の時となり、心と体のご健康が守られますようにお祈りしています。

私たちは現在、イエス・キリストの復活を覚える時期を過ごしています。復活したイエス・キリストが大切にしていたことは、使徒言行録によるならば、ご自分が生きていることを、数多くの証拠を持って弟子たちに示し、神の国について話すことでした。神の国とは何か。私たちはこのように問われるならば、すぐに「天国」という言葉が思い浮かびます。皆さんはこの天国をどのようにイメージしているでしょうか。実は、マルコによる福音書では神の国と書かれていますが、マタイによる福音書では天の国と書き換えられています。ほぼ同一の意味として考えることができますが、天の国というのは、ギリシャ語では天が複数形になっています。より厳密には天天と訳すべき言葉です。つまり、天は私たちが見上げてわかる様に、私たちの上だけはなくすべての者の上に拡がる広がりのある概念であるということをまずお伝えしておきたいと思います。

聖書箇所に入りますが、今日は先ほど同じ個所から子どもメッセージをいたしました。正直に申し上げて、この箇所から子どもメッセージを語るのはとても難しいことであると感じました。というのは自分自身でさえ理解できているのかわからない出来事を、説明すると言うのは、非常に困難なことであるからです。本音を言うならば、できれば説教としては選びたくない箇所です。それでは何故、今日この箇所を選んだのかと問われるならば、それは私たちがマルコによる福音書の通読を行っているからであり、たまたま今日、この箇所に当たったからです。

わたしは最初、この箇所は読み飛ばしてしまっても良いのではないかと考えていました。その理由は読んでみてお分かりの通り、恐ろしくおぞましい地獄のような場所について語られているからです。この箇所からお話しできることなんてあるのかと思いました。しかし、通読すると宣言している以上、避けることもできませんし、逃げたとも思われたくありません。それにこの箇所もまた聖書に記録されているわけですから、やはり大切な意味があるのだと思い、黙想してみました。何度も繰り返して読み返してみましたら、なるほど、やはり福音に繋がる箇所であることが分かりました。今日は、この箇所を通して私に与えられた言葉を、皆さまに解き明かしたいと思います。

まず確認しておきたいことは、この聖書箇所はいわゆる天国と地獄を対比しようとしているわけではありません。しかしもちろん「地獄の消えない火」とか「蛆が消えない」とか「手を切り落としてでも命にあずかる方が良い」などと書かれていると、私たちの頭には、嫌でも「地獄絵図」が思い浮かぶわけです。地獄と言うと、古今東西問わず、色々なイメージがあります。キリスト美術の世界でも「天国の美しい輝き」とは正反対に「地獄は恐ろしくおぞましい場所」としてコントラストは、際立っています。それでは、イエス・キリストは地獄の恐怖を引き合いに出して語ることで、弟子たちに「罪を犯したものが天国に入るにはそれ相応の代償が必要になること」や、「そうなりたくなければ、正しく清く生きなさい。そうしないと神の国に入ることは出来ない」と言おうとしているのでしょうか。

そうではありません。イエス・キリストは「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者は大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれる方がはるかに良い」と語っています。つまり、この箇所は、人を躓かせる者たちは地獄に落ちてしまえばいいではなく、そういう人でさ地獄に陥らないように教えているのです。つまりこの箇所で私たちが心に留めたいのは、罪びとの一人さえ滅びることを願わない、イエスの無償の愛、無限の愛の輝きなのです。
新約聖書では、「地獄」はゲヘナと言われます。私たちの生きている現代社会でも、時々非常に極端なキリスト教の団体においては、「ゲヘナの燃える火で裁かれたくなければ正しく清くありなさい。そうしなければ天国に入ることは出来ない」。とか、そのような恐ろしい言説がまことしやかに、しかも道徳的教えや倫理的推奨の体裁を装って教えられることがありますが、そういう教えは福音ではありえません。何故ならそれは善意を装ってはいますが、構造的には恐怖による支配に他ならないからです。
実は地獄(ゲヘナ)というのは、元々はヘブライ語でヒンノムの谷という意味があります。実はこのヒンノムの谷というのは、旧約聖書列王記下によると、ユダの王アハズの時代に行われていた異教の祭儀、即ち火を焚き、その上を子どもたちを通らせ、モロクという神に捧げるという幼児犠牲が行われた場所のことです。しかしそれは神からすれば忌むべき慣習であったことから、新約時代においても罪深く忌み嫌われた場所、「永遠の火の燃える刑罰の地獄ゲヘナ」として考えられるようになったのだと思われます。今でも私たちの脳裏にはそのような「天国と地獄」というイメージで湧き上がってくることがあるかもしれません。

しかし今日、そのような理解は、既に終わっていることをお伝えしなければなりません。何故ならば、復活の主イエス・キリストは十字架に架けられたのち、黄泉に降り、三日目に復活されたわけです。黄泉とはシェオールという言葉で、若干ゲヘナとは意味も内容も違う言葉なのですが、しかし死後に行くところということで一括りにしてでもお伝えしたいことは、その死後の世界はイエス・キリストの復活によって勝利されたと言うことなのです。ですからパウロはコリントの信徒への手紙でこう言います。
「「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげは罪であり、罪の力は律法です」。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。(Ⅰコリ15:54-58)

つまり、イエス・キリストの復活、あるいは福音と言うものは、死や死後の恐怖に支配されて、脅かされて生きるためのものなのではなく、主イエス・キリストの救いの喜びと感謝によって生かされるということが私たちには大切なのだということなのです。私たちは世の終わりの時に救われるために生きているのではなく、既に救われたものとして感謝して喜んで生きるのです。これが福音であり、新しい命に生きること、イエス・キリストの神の国の福音なのです。

ところが、今日の箇所はそれだけでは終わりません。そのために大切だとイエス・キリストが言っていることが「火によって塩味を付ける」と言うことなのです。この言葉は、とても理解が難しいことだと思います。というのは、文脈上で読むと、この「火」というのは、前段に出てくる「地獄の火」のイメージがあまりに強いので、その地獄に入らないように、身を律していくことなのかと思ってしまうからです。或いは「火」というイメージにまつわる苦行や試練というイメージによって自らを保つときに、私たちは地獄に陥ることから身を守り、初めて天国に入れるようになると思ってしまうからです。聖書にも「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とあります。それならば、苦難も良いものだと考えることもできます。

果たしてイエス・キリストがここで言おうとしていることは、そういうことなのでしょうか。わたしにはそうは思えないのです。何故ならば、それでは、「火」というものの存在、つまり「地獄」という裁きがあるから、私たちが自らを律して生きて行くことができると言うのであれば、それはイエス・キリストの論敵である律法学者、ファリサイ派の人々の理解と何ら変わらないことになってしまいます。それは、正しいものは救われて、罪びとは滅びてしまうという構造に他ならないのです。それでは私たちはこのイエス・キリストが言われる「火」と「塩」をどのように考えればよいのでしょうか。
わたしはそれが、イエス・キリストの「聖霊のバプテスマ」、そして「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」。と言われたその言葉なのではないかと思うのです。

言いたいことはこう言うことです。つまりここでイエス・キリストが愛を示しているのは、「私を信じるこれらの小さな者の一人を躓かせる者」です。躓かせると言う言葉は、訳しかえると「罪を犯させる」ということです。罪というのは、悪を行うことそのものというより、神から離れて行ってしまうことです。それは他者の誘いかもしれませんし、自分自身の心の内に出てくる思いかもしれません。それが出てきて神から離れて行ってしまうことは不幸だと言うわけですが、それではイエス・キリストが反対に人々に願っていることはなにかというと、そもそも私を信じて生きていきなさいということです。それは清く正しく行きなさいということではなく、より根源的にいえば、神が愛された私たち自身として生きて行きなさいことです。それが、あなたがたは世の光である。あなたがたは地の塩であると言う言葉に込められています。それは、あなたがたは既にそのままで世の光であり地の塩であるという意味があるからです。

「何故、自分に?そんなに誇るものはなにもないのに?」そうです。しかし神は、その小さな者が神の愛を信じて、自分らしく歩んで行けることを私たちに願っているのです。イエス・キリストは私たちがそういう風に生きていけることを願い、水のバプテスマ、そして聖霊による火のバプテスマを与え、私たちの心を生かすのです。

ところがそういうとき反対に私たちが心に思っていることは何かというと、先週の箇所で弟子たちの姿が示していたように、私たちの関心ごとは「誰が偉いか」ということであるのです。つまり誰が何をやったか、誰が一番優れたことをしたか。誰が一番正しいことをしているか。そして自分たちもそういう人にならないといけないと言うことなのです。でも、その考え方は、天国に入れるために何をしたか、何をしなかったから天国に入れない。と言うことになってしまうのです。しかし、それは天国に入るための基準を、神の目ではなく、自分たちの目で決めてしまうと言うことでもあります。

残念ながらわたしたちの関心は、小さな者たちが神を信じて生きて行くことや、その者たちと共に生きていくということよりも、小さな者を排除してしまう、あるいは無視してしまう、躓かせてしまうということがあるのです。

しかし、私たちは、先週の聖書個所で共に見たように、イエス・キリストが子どもたちを弟子たちの真ん中に招き、そして抱き上げられたように、私たちも自分たちの真ん中にその小さな者たちを招き、ともにみたようにその人たちを招くということをチャレンジとして与えておられるのです。実は、「私を信じるこれらの小さなもの」というのは、この子どもたちに繋がっているのです。

だから、こう考えることができます。私たちの塩気、私たちが地の塩であるということは、自分たちが保ち続けるためにあるのではなく、塩が周りのものを味付けていくように、私たちは他者が生かされていくように与えられたいのちであるということです。そしてそのように塩気を持ち、互いに関わり歩んでいく時に、この世がまさに多様で寛容で広がりを持った愛に満ちた世に、まさに神さまが願っている世界に、言い換えれば神の国、神が創造されたすべての者たちと共に生きて行くことができるようになるのではないでしょうか。神の国は、私たちの自分の頭で考えているものより広い、天天の世界を意図しているのです。

「互いに平和に過ごしなさい」。これが可能なのは、互いに足りないことがない、互いに奪い合う必要がない世界であることです。それができるのは、自分だけでは無理です。仲間だけでも足りません。神が創られた人々と祈り合い、支え合い、喜び合っていくことが大切なのではないでしょうか。

イエス・キリストが見ておられる「平和」を私たちも共に祈り求めて参りましょう。

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