メッセージ

2024年4月28日説教全文「神の目に尊ばれる者とは」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 9章33~37節

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。

〇説教「 神の目に尊ばれる者とは 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、主の豊かな祝福と恵みに満ちた日々となりますようにお祈りしています。

私たちは現在、復活されたイエス・キリストが、弟子たちと共に過ごされた出来事を覚える時期を過ごしています。復活という出来事は、なかなか理解するのが困難で、受け入れるのにとても時間のかかる事柄だと思います。わたしは、イエス・キリストが40日もの日数をかけて弟子たちと共に過ごされたと言うのは、やはりそれほど長い時間をかけて、その存在を証しし、その意味を解き明かす期間が必要だったのではないかと思うのです。そしてそれは私たちにも同様です。イエス・キリストの救い、或いは復活の出来事というものが自分自身の出来事になっていくために、それぞれに時が必要です。その時が来るまでは、弟子たちのように見てもわからず、言われても信じられず、触れてもなにやら夢幻のようにしか感じられない時を過ごしていたのではないかと思います。でも大切なことは、イエスはそのような弟子たちに寄り添い、時間をかけて歩んで行かれたということです。ですから私たちも今、改めてイエス・キリストの物語を黙想し、復活の福音を受け取って参りましょう。

今日の聖書は、先週の箇所の続きです。イエスが輝かしい姿に変わる変容という出来事、その後息子を助けてほしいと願う父親との対話、そして悪霊の追い出しの出来事を終えた一行は、彼らの活動拠点の町の一つであるカファルナウムの町に帰ってきました。今日の箇所のポイントは、その町に帰ってきてホッとした状態の弟子たちの会話です。

彼らは家に着いた後、唐突にイエス・キリストにこう問いかけられます。「途中で何を議論していたのか」。弟子たちは、黙っています。その理由は、「道中、彼らは誰が一番偉いかと議論し合っていたからだ」というのです。議論していたテーマがしっかりあるのに、それが言い出せなかったと言うのは、弟子たちも誰が偉いかということが大切なのではないということに気づいていたのでしょう。しかし、議論になってしまった理由は、人間のサガというか、罪深さと言うのか、色々と自慢して認められたいと思ったり、人と比べて優越感を得たいと思ったのだと思います。
弟子たちが黙ってしまった理由は、恐らくイエスに率直に尋ねられて、後ろめたくなり、気恥ずかしくなってしまったのではないかなと思います。こういう風に言うと、やっぱり「この弟子たちはあほやなぁ。イエスさまの御心をなんもわかっとらん」と言いたくなってしまうのです。
しかし、これを自分事として考えると、なかなか笑えないなぁと思うのです。それどころか、「そんなこと、あるある」の部類に入る話だと思うのです。多分、彼らも最初から「誰が偉いか」みたいなことを話し合っていたのではないと思うのです。むしろ恐らく当初は、今回の旅で起きた出来事を話し合い、感謝をしたり、失敗談を話し合ったりしていたのではないかと思うのです。

みなさんも経験がおありだと思います。色々な旅先に出かけて行ったあと、楽しい気分になり、あんなことがあったね。こんなことがあったね。楽しかったね。大変だったね。ということを分かち合うことがあるのではないかと思います。そういうとき、私たちは決まって、誰々が何何をした、この人がこんなことをしたということを懐かしい思い出のように話すのではないかと思うのです。最初は思い出の分かち合い、喜びと感謝、そして失敗談、気心知れた中ですから、色々なことを軽い気持ちで口にすることがあります。ところが次第に人と比べ合ってしまうのが人間の弱さでもあります。
「いやぁ、あのとき君はあんなことをしていたけど、俺はそのときこんなことしたよ」。「いや、それだったら俺の方がすごいことしたんだぜ」。「いやいや俺の方が」巷の居酒屋で起こっていそうな議論が弟子たちの中にも巻き起こっていったのではないかと思うのです。イエスさま一行の旅路がどれくらいの日数だったのかはわかりませんが、旅を終えて帰ってきた時の緊張感からの解放というか、安堵し状況の中で起きる話ですし、一緒に歩んできた者たちだからこそ分かち合える内容であったと思います。しかし、時にそれがケンカの発端になってしまうこともあります。

「だれが一番偉いか」それはほんの些細な笑い話のような話題ですが、私たちの極めて重要な関心事です。何故ならば、私たちには承認欲求というものがあり、人から認められたい、褒められたいという欲求が顔を出すことがあるからです。そして自分はみんなの中でどれくらい活躍したのだろうかということを確認し、次はもっと頑張ろうというモチベーションにも繋がるものであります。それを誇りのように思うこともあるでしょう。しかし、一方でそれは人と比べることで自分の位置を確認しようとすることであり、人を優越感に浸らせ、あるいは劣等感に落とし込むことがあります。誰が偉いかという議論で起きることは、つまり計算高く人と自分を見定めることであります。

実は、この時使われている「議論」という言葉ですが、ギリシャ語でディアロギゾマイと言います。ディアというのは接頭語で、貫くと言う意味があります。英語で言う「スルー」です。ロギゾマイというのは考慮に入れる、考えるという意味もありますが、元々は計算する、勘定を付けるという意味であり、それを貫くということは、つまり裏付けのある根拠でよく考え、話し合うこと、それが議論というものだと思います。つまり感情的なものではなく、理屈をつけてここでは誰が一番偉いかということを話し合っていたということです。
また、「誰が偉いか」ということを決めるためには、基準が必要になります。実は聖書では誰が一番偉いかというのは、「誰がこの上ない道を歩んでいるか」、つまり「だれが一番正しいか」という議論にもなるのです。私たちも経験があるのではないでしょうか。自分の偉さをアピールするためには、自分がどれだけ正しいことをしてきたかを主張することが一つの方法になります。このようにして弟子たちの間では、自慢合戦が始まっていたのです。しかし、そのとき弟子たちの目はどこに向いていたのでしょうか。それは、自分自身にであったと言えるでしょう。「誰が一番偉いか」「誰が一番正しいことをしたか」「それは俺だ」。「いや俺だ」。これは、せっかく多くの働きをしてきたのに、すべては人のためにではなく、自分の評価につなげるためであったように思えてしまうのです。

イエス・キリストはそれにお気付きなったのでしょう。イエスは弟子たちを呼び寄せ言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。そして子どもを真ん中に立たせ、抱き上げ、言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。

イエスの行動と発言が弟子たちに伝えようとしていることは、「誰が偉いかという議論はあなたたちの間では議論になるかもしれないけれど、私が願っていることではない」ということです。私たちは自分のプライドを満たそうと、自分が行ったことを誇りますが、その時、自分のしたことの方向性は全て自分に帰ってしまうのです。それは自分が行った働きの相手のことや起きた出来事に目が留まっていないということです。ですからイエスさまがここで行った子どもを真ん中に立たせること、抱き上げることは、神の目に尊ばれるのは、子どものような小さな者たちのことを考えて行うことなのです。自分のために偉大な成果を上げることではないのです。

その子どもは唐突に登場します。イエスさまに手を取られ抱き上げられた時に、初めてその存在が明らかになります。それまで子どもは弟子たちの目に入っていません。どこにいたのでしょう。その存在は陰に隠されたままです。まるでいないかと思われていた子ども。この子どもは誰でしょう。この子どもがどんな子どもだったのかと言うことはまるで記されていません。何もしてない子ども。何もできない子ども。つまり無力で無価値な子どもです。しかし、イエスさまの眼差しは誰にも目も止められない、これまでその存在さえ顧みられていないような子どもに向けられていて、このように言われるのです。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。

恐らく、この言葉を聞いたとき、弟子たちの目は初めてこの子どもに向けられたと思います。何も誇る者を持たない子ども。しかしこの子どもを受け入れ、共に生きて行く。これが最も偉いと言うか、もっとも正しい道であるということを、彼らも感じたと思うのです。そしてその時、その子どもは、その交わりの中に初めて居場所を得るのです。

私は、このシーンを想像すると、困ったような恥ずかしいような顔をしながら笑顔になっている子どもの顔が思い浮かびます。これはまさに失われていたいのちの回復、いのちのよみがえりの出来事です。イエス・キリストはこのことを弟子たちに教えようとされています。私たちは、私たちのことばかりの議論に終始して偉さ、正しさを求めてしまうけれど、その陰で見過ごしにされているいのちがある。もっとも大切なのは、私たち自身についてのことではない。むしろ私たちの議論の中で、忘れられてしまっている存在に目を向けることなのだ。自分たちのことばかり考えていてはその子どもたちと出会うことはできない。むしろ子どもたちを真ん中にこの交わりを作っていくこと。これが神の御心なのであり、イエス・キリストの教会の姿、さらに言えば、私たちの歩む道なのではないでしょうか。
私たちの教会もまた、最も小さな立場の代表格である子どもたちのような存在に目を注ぎ、その命が輝いていくように祈り、愛を注いでいくことによって、主に仕えて参りましょう。そこからすべてのことが始まっていくのではないでしょうか。

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