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2024年6月16日説教全文「神の言葉、エルサレムに入る」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 11章1~11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」。二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ」。こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

〇説教「 神の言葉、エルサレムに入る 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。

本日の聖書箇所は、イエス・キリストが聖地エルサレムに入った日の出来事です。普段であればこの箇所は、イースター(復活祭)の前週「棕櫚の主日」によく読まれる箇所であり、イエス・キリストの受難の始まりの出来事として捉えられることが多いのですが、私たちはこれまで読み進めてきたマルコによる福音書の文脈で、今日この箇所を改めて読み直していきたいと思います。それはつまり、イエス・キリストがガリラヤからエルサレムまで、およそ150kmほどの道のりを歩き、色々な町々を訪ね、色々な人々と出会う旅の果てに、ついに、ようやくエルサレムに到着したという文脈です。

時はちょうどエルサレムで過越祭が行われる時でした。過越祭とは、イスラエル民族の出エジプトを記念するお祭りであり、ユダヤ教の三大祭りの一つであり、信仰的な意味合いでは最も大切に思われていたものです。ですので、この時には各地からユダヤ人たちが聖地巡礼、神殿参拝のためにやってきたものと思われます。

しかしこの時に覚える過越というのは、エジプトの奴隷からの解放という事柄だけではなく、むしろその後、神への不信仰によって約40年間荒れ野の旅を続けていったイスラエルの苦しさをも思い起こすことも含まれていたと思います。つまり喜びと悔い改めをこの時期に心に受け止めることを通して、神への信仰を新たにするときでもあったのだと思います。イエス・キリストの一行もまた恐らく過越祭に合わせて、色々な町や村で出会った方々と一緒にエルサレムまでやって来たものと思われますが、その意味は、神が出エジプトの民と共にいたように、この民衆たちとも共におられ、ついにエルサレム、約束の地へやってきたそういう出来事としても重ねて考えられると思います。
何故イエスはエルサレムに来ようと思ったのでしょうか。ただ単に過越祭を見学しようと思ったのでしょうか。それとも何か他に理由があったのでしょうか。実はその理由は定かではありません。イエスがエルサレム行きを心に決められ、そのように歩み出そうとした具体的な決意というものは、マタイ福音書やマルコ福音書には書かれておらず、ただルカ福音書9:51にこう書かれています。「イエスは、天に挙げられる時期が近付くと、エルサレムに向かう決意を固められた」。天に挙げられる時が近づくというのは、もちろん十字架と復活、そしてキリストの昇天を意味しています。マルコ福音書やマタイ福音書においても、イエスがその道中、エルサレムで受難の苦しみに遭うということを弟子たちに話していますので、ご自分の心の内にはそれなりの思いがあったことが分かります。しかし、人間にはその十字架に向かうイエスの苦しみが分からないのと同じように、私たちにはエルサレムに行こうと思った理由も定かにはわかりません。

なのでわたしたちは、その前後の文脈から考えるより他はありません。ですから、その理由はガリラヤでユダヤ人たちと共に語り、そしてガリラヤから離れた異邦人の土地に出かけて行ってその場その場で多くの出会いがあり、さらに弟子たちが自分のことをメシアと理解し、信仰告白すること、また山の上での変容という出来事があり、その歩むべき道が示されたと言えるでしょう。そしてごく簡単に言えば、イエスがそれぞれの場所で出会った者たちの救いのために、エルサレムに行ったということ考えられるのではないかと思います。今日、私たちはこのイエスの御心に心を留めるため、聖書を読んでまいりましょう。

聖書には不思議なことがたくさんありますが、今日の箇所でやはり不思議なことは、初めてやってきたはずの場所であるにもかかわらず、弟子たちにこう言ったことだと思います。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」。何か、未来のことを見通せる力があるのか、それとも誰か協力者がいたのかということはわかりません。また勝手に人の子ロバを持ち出してはダメだろうと思うのです。仮に聖書にあった通り、許してくれたにせよ、なぜ子ロバなのかとか、大人のろばじゃダメだったのかなど色々と不思議に思うことはたくさんあります。残念ながら、その答えは出ません。わからないことだらけです。しかし、それがどういうことかわからなかったにせよ、わかることはイエスにおける神の御心が成就していくということです。私たちはこのことを、この時に覚えたいと思うのです。

イエスがエルサレムに入城にしたとき、人々は大歓迎をしています。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ」。「ホサナ」というのは、非常に切迫感のある救いを求める言葉です。「今こそ、いままさに我を救い給え」というイメージです。この言葉でイエスを歓迎した人々が一方、エルサレム全体がこういう風にイエスを歓迎したわけではありません。これはイエスがエルサレムに入るときのことですから、このように歓迎した「多くの人」というのもまたイエスと同じようにエルサレムにやって来たばかりの人々であったと思われます。

実は、エルサレムに住んでいた人々とそれ以外の人々の違いというものは、明確にあります。それは人々はそれぞれの地域においてその信仰を守って生きるために律法を読み、自分たちに与えられるメシア救い主が与えられることを日々待ち望み、その希望をいただくために毎年聖地を巡礼していていたのに対し、エルサレムに住んでいた人々というのは、もちろん信仰的に神を求めていた人々もいたと思いますが、ユダヤ教のシンボルである神殿に近い存在として、自分たちこそが神の民を守る立場の者だというような自己認識があったのだと思います。そしてその認識は、自分たちの体制が危険に脅かされる時には徹底して戦うということも入っています。

実際にヨハネ福音書には、神殿を守る大祭司カイアファがこのように言っています「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。(ヨハネ11:50)これはイエスがエルサレムにやってきたことで、イエスの人気が高まっていくなか、このままいくとみんなイエスについていってしまうということを危惧した人々に対しての言葉です。簡単に言えば、「ユダヤ教、あるいは神殿を守るためならば、そんな自分たちに不都合になるような人は殺してしまった方が良い」と言っているのと同じです。人のふりを見て自分のふりを見直せないそういう人間の弱さが明らかになっていると思います。

「多数を取るか少数を取るか」それならば多数を取る。これは算数の上では間違っていないことです。当然そうするべきことだとも思えます。しかしながら人の命がかかったときに、これは恐ろしい言葉になります。そして、これは自分たちが多数にいるから、強い立場にいるから言える言葉であるからです。自分が切り捨てられると考えていたらそれは言い出せることではありません。それに比べると、エルサレム以外のところに住んでいた人々と言うのは、むしろ少数者、いつ切り捨てられてもおかしくない、そういう人々であったのです。彼らがイエスに「ホサナ」と叫んだ理由は、まさに今自分には助けが必要だ。慰めが必要だ。そしてそんな私たちに寄り添い、共に歩みゴールまで導いてくれたイエスがまさにメシアのようだというような思いが浮かび上がってきたのではないかと思うのです。そしてそれは反対に言えば、ユダヤ教、あるいは神殿体制というものが自分たちに慰めを与えてくれたり、寄り添ってくれるような内実のある関係であったことはないという不満もあったのではないかと思うのです。

イエス・キリストの有名な譬え話の中に「99匹の羊の譬え」があります。イエス・キリストは100匹の羊がいたとして、その内の一匹がいなくなってしまったとしたら、その羊をしょうがない、自己責任だ、99匹には比べられないと切り捨てることもなく、その羊たちを山に残してでもその一匹を最後まであきらめずに探し求めると言っていますが、まさにそういう小さな存在に寄り添い共に生きて行かれたのがイエスなのです。だからこそ、民衆はイエスについていこうとしたのでしょう。そしてそのように自分たちのことを見放さない神がいるということに彼らはまた信仰心を厚くしたのだと思います。

実に、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城したということが、極めて象徴的な出来事でした。これは旧約聖書ゼカリヤ書九章九節に預言されていたことであったからです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」。民衆が「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と歓呼の声をあげたのは、まさにメシアがやってきた。神の言葉が実現したのだ。そして私たちの苦しみがまさに拭い去られる神の時が満ちたと感じたからでしょう。そして、このロバに乗ってやって来るというスタイルは昔の預言者スタイルであったと言われます。つまり、人々から見れば、預言者がやってきたというよりも、神の言葉がここにやってきたと言うことなのです。

神の言葉と言うのは、まさにイエスのこれまでの出会いで私たちが見てきたように、人々を慰め、て慰め、そのいのちを生かしていく関わり合いの言葉です。この言葉こそが、今私たちも必要です。そしてこのように考えると、イエスがエルサレムにやってきた理由。それはその時にエルサレムに足りなかった神の言葉への応答、そして神の言葉に生かされていく交わりを示すためであったのではないかと思います。
エルサレムには神殿がありました。つまり神に対して向かい合う礼拝は出来ていたのです。しかしそれは個人的な事柄であり、共同体の出来事にはなっていなかったのではないでしょうか。実に私たちが生きて行くために必要なのは、神殿において神に向き合うこと、いま私たちのことで言うならばこの「礼拝」と、もう一つが、この神の言葉に生かされていく私たちの「関わり合い」であると言うことです。この神と人との関係、人と人との関係、この縦と横の線が私たちには大事なのです。

イエスはヨハネによる福音書で、十字架に即けられる前日に「弟子たちの足」を洗われ、こう言います。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがもするようにと、模範を示したのである」。(ヨハネ13:15)そして「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネ15:17)と言われています。
イエスはそのために、私たちに自分の体を割き、血を流されました。そしてそれによって私たちは生かされています。小さきものを愛されるイエスはまさに神の愛が全ての人に開かれていることを示すために、神の都エルサレムに行かれたのではないでしょうか。

私たちは、今日の聖書個所において、エルサレムに入られたイエスの御心を探ってきましたが、この思いを受け止めていくことが大切です。共に祈りましょう。

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