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2024年7月28日説教全文「自分の建つ土台はどこに」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 11章27-33節

一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」。イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」。彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……」。彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

〇説教「 自分の立つ土台はどこに 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。まだ7月末ではありますが本格的な真夏日が続いています。皆さまの心と体のご健康が守られ、今週の歩みの上に主の恵みと導きがありますようにお祈りします。

今日は早速、聖書個所に入ります。この箇所については先ほど子どもメッセージでほとんどお話しをしたところですが、改めてもう一度確認したいと思います。時は過越祭の時期、場所はエルサレム神殿。多くの人が巡礼に訪れる時です。人々が行き交うその場でイエスと祭司長、律法学者、長老との問答が始まります。「始まる」というのはこの問答が一回だけではなく、これからいくつかの問答が行われたからです。今日はその初回「権威について」の問答です。彼らがイエスのところに来て、問答を仕掛けた理由はなんでしょうか。その背景には、イエスの宮清め、つまり、両替商や家畜を売る仕事をしていた人を境内から追い出す出来事がありましたので、イエスを何とかしたいという思惑が彼らには恐らくあったように受け取れます。その時、神殿の境内はどのような感じになっていたのでしょうか。イエスの言葉によって落ち着きを取り戻していたのでしょうか、それとも以前のように何も変わらない賑わいがあったのでしょうか。それはわかりませんが、色々な噂が立っていたことでしょう。イエスに対して文句を言う人々もいたでしょうが、イエスに共感して祭司長たちに対して不平を言っていた人々がいたことも考えられます。ですので、彼らからしてみたら、イエスに腹いせとばかりに無理難題を問いかけることで、困らせて失脚させてやろうと思っていた節がありありと見えます。しかしながらイエスはこの問答に素直に答えるのではなく、彼らの意図を正確に見抜き、その思惑にはまらないように、かつ彼ら自身が自分を振り返って考えることができるように促しています。

これはイエスが質問に対してまともに受け答えていないと言うことではありません。昨今質問をはぐらかしたり、或いは質問の本筋に沿わず、むしろその前提のところで相手を批判して攻撃したりする対話方法みたいなものがクローズアップされる状況がありますが、そういうものとは次元が異なります。そういう手法は人を小馬鹿にし、自分を強く見せるためのものですが、イエスの言葉というのは、むしろ丁寧に私たちに問いかけ、内省を行わせるものであるからです。イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい」「み言葉を聴いて終わるのではなく、行う者になりなさい」とわたしたちに呼びかけます。つまり、私たちがその言葉をどのように聴いて、そしてどのように応答して生きているかを考えさせるのです。そしてそれは質問に答えることよりもむしろ大切なことです。そういう応答の内実を問うことをイエスは言葉を通して伝えているからです。そういう意味では、わたしたちも今、この礼拝の中で語られるイエスの言葉から自分自身を振り返るときを持っているのです。

祭司長、律法学者、長老はイエスに尋ねます。「あなたは一体何の権威でこのようなことをしているのか」。「権威」とは、「他の者を服従させる威力」です。ギリシャ語ではエクスーシアと言う言葉で、「権威・力」を表します。ヘブライ語では「メムシャーラー」という言葉で、「主権、統治、支配」などそういう意味があります。「権威」は、英語ではオーソリティーとかパワーという言葉ですが、パワーが組織個人に由来する力であることに対して、オーソリティーは、法的な正統的な組織に由来する影響力を意味しています。祭司長たちは、その権威がどこから来ているものかということを気にしていますから、つまり、イエスの言葉の正統性、その背後にある存在について聞きたかったと言うことでしょう。さらに言うならば、彼ら自身は大きな権威に守られている者たちでした。祭司長と言うのは神殿体制に。律法学者は律法やモーセと言う存在に。長老というのは、年長者という意味ですが、多くの人々から敬意を払われている存在でした。彼らはそういう組織が背後にあって、そこからお墨付きを受けていたわけです。けれども、あなたは私たちの仲間ではない。あなたはどこのお墨付きを受けているのかということを聞いているのです。事実上、イエスは神の他には所属していませんでしたので、彼らはイエスが自分勝手にやっている「自称救い主」であることを明らかにしたかったのでしょう。

しかしながら、イエスが権威を持っているという事実は、どこかが保証するまでもなく、人々がその触れ合いの中で、或いはそれぞれの出来事が起きる時に、体験を通して実感することであります。実はマルコ福音書1:21-22にはこう言う言葉があります。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。

つまり、イエスはその宣教の開始直後から、人々が話を聞いてこの人には何か権威があるということを感じずにはいられなかったのです。恐らく、イエスの言葉を聞いて、逆らうことができない権威を感じたというよりはむしろ納得して心から同意するようなそういう思いが溢れてきていたので、それを「権威」と感じたのだと思います。しかも面白いことに、律法学者とは異なって、権威を感じていたと言うのです。つまり、人々は律法学者やその他偉いと言われていた人々の言葉は神殿や律法の権威を振りかざしていましたが、人々はその言葉に権威を感じることはなかったと言うことです。それは恐らく、先人の言葉や聖書の言葉を引用して語るだけで、内実が伴っていなかったからでしょう。そういう意味で、イエス自身に権威があるということは、人々が実感していたことでした。しかしそれをうらやみ、やっかみ、噛みついてきたのが、今日の出来事であると言えるでしょう。

イエスはその質問を受けてどうしたかというと、問いに答えず、逆に質問をしています。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」。この問いかけを受けた彼らの狼狽ぶりは、自身の土台がいかに脆いものであることを明らかにしています。ヨハネと言うのは、バプテスマのヨハネのことであり、イエス・キリストの福音の先備えとして「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えていた人です。マルコによる福音書1章は、ヨハネの物語から始まっていますが、彼のところには多くの方々集っていたようで、ユダヤとエルサレムの住人が罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けていたことが書かれています。ヨハネの言葉にもまた「権威」があったのです。

しかしながら、祭司長や律法学者はヨハネのことを認めていなかったようです。ですから聖書には続けてこう書いてあります。

「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……」。

点々の部分が気になるところです。ギリシャ語を直訳するとこうなります。「しかしながら、人間からのものだと言ったらどうだろうか?彼らは恐れた」。つまり、彼らが自問自答している時点で、彼らは真理に立っていたわけではなかったということが明らかにされています。彼らはそのヨハネの内実よりも人の評判を恐れました。しかし、真理に立つものは、人の評判を恐れることはしません。何故ならば真理を伝えると言うことは、その物事、たとえば人のうわさや人が大切にしている伝統的に守って来たものの本質を問い、本質に立ち返っていくということであるからです。それに比べて人の評判を恐れるものは、本質的なことよりも大衆受けする事柄を大事にし、或いは著名な人の言葉などで自分を高めようとするものです。ですがこれは権威以前の問題であり、彼ら自身が判断の根拠にしている部分が神に由来するものでなかったということを明らかにしています。それなのに、彼らは神殿や律法を振りかざして我が物顔していたのです。これがまさしく人の罪、愚かさだと思います。しかし残念ながら人は、自分のそういうあまり直視できない本質的な部分を指摘されると激高するのです。そして、この話は、12章1-12節の「ぶどう園の農夫の譬え」にそのまま続いていくお話しとなり、その後のイエスを殺そうとする算段へと至っていくのです。その譬え話については、8月11日の礼拝でお話しします。

さて、それでは私たちがこの箇所から心に留めたいことは何でしょうか。それは「権威」がどこにあるか、と言うことではなく、権威ある言葉を聞いた私たちがそれをどのように受け止めるのかと言うことです。それは私たちがどういう風に生きるかということです。言い換えれば、私たちにとって大切な人生の土台は何かと言うことです。私たちが歩むときに気にするのは、人の評判でしょうか。それとも神の目に正しいと思われることでしょうか。

先ほど子どもメッセージの中で、マタイ7章24~26節の「「岩の上に家を作る人と砂地に家を作る人の譬え」を引用してお話ししました。イエス・キリストの土台の上に自分の家、つまり自分や家族が安心できる場所であり、自分のあるがままを出せる場所を作る人は、まさに神の愛を土台としますので、何が起きてもその存在の根底が崩されることはありません。しかしながら、砂地の上に家を作る人と言うのは、他に土台を探さなければなりません。

私たちは自分の土台に据えるは何でしょうか。学歴でしょうか。職歴でしょうか。財産でしょうか。或いは能力、実績、知識、人望、過去の栄誉、プライド。色々なものがあります。或いは自分で誇れるものがない場合、その他の大きな集団を誇ることがあります。例えば民族主義というものはその典型です。しかしそのようなあらゆるものを用いて自分の自尊心を保ち、それを経験則として運用しながら、私たちは生きています。しかしながら、それでは立ち行かなくなる時が時に起こります。戦争、紛争、ケンカ、人間関係の不和、受験の失敗、部活の失敗。家族関係のトラブル、また病気や様々な災害、事件事故に巻き込まれることだってあります。自分の力で立っていくと言えば聞こえは良いですが、そんなに簡単なことではありません。一度の挫折。一度このレールから落ちてしまった時に私たちは自分の力で立ち直ることはとても難しいからです。

神が共にいるということを信じることは、自分だけで生きているのではないと言うことを受け入れること。そしてその存在が私たちをどんなときも、私たちがどんな存在であっても誇るべきものがなかったとしても、その私たちの存在の根源を肯定し、励まし勇気づけてくれることなのです。そんな存在が自分のことを思っていてくれると信じるだけで、私たちは勇気が湧いてきますし、再び立ち上がる力をいただくことができるのです。

イエスが神の子、救い主、あるいは権威ある人と言う風に受け取られるようになったのは、実に、イエスが人々にそのように寄り添って行った結果であるのです。だからこそイエスの教えが口だけの事柄ではない、温かみのあり、心に平安を与え、共に生きて行ってくれる友になったのです。

「信仰」というものが持つ強さがここにあります。キリスト教における信仰とは神が自分を大切な存在として造り、そのいのちの光を輝かせて生きて行けるように、見守り支えてくださることであります。かつその光をすべての人が輝かせて生きていくことができるように、神を愛し、隣人を愛していくことなのです。ところでこの信仰の反対語は何かというと何でしょうか。「不信仰」と言えるかもしれませんが、それは恐らく神以外のものを信じて生きることになるのでしょう。例えば「自分を信じること」であり、「自分の信じている価値観を信じること」、つまり「偶像礼拝」です。それは、他の価値観を受け入れることができなくなると言うことなのです。それは、うまく言っているときは良いかもしれません。しかし、自分の歩みが根底から覆されるような時に、立ち上がることが難しいものなのです。

私たちが自分で自分の土台を作るのではなく、キリストという土台の上でこそ、安心を得て憩うことができます。それがイエス・キリストの福音なのです。あなたがどうこうしたら助けてあげようではなく、あなたがどんな存在でも罪びとと呼ばれている人であっても関係ない。私の愛の内に生きて生きなさい。この無条件の愛というものが私たちの土台となる言葉なのです。

まさに「信じる者は救われる」。そして、「信じた時に、あなたもあなたの家族も救われる」というのは、私たちが表面的ではなく、人格的にこのイエスの存在に支えを得るからです。私たちは何が起きるかわからない時代を過ごしています。しかしこのいつも変わることがないイエスの言葉を受け止めて、歩み出してまいりましょう。

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