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2024年10月13日説教全文「神殿が崩れるとき 」

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〇マルコによる福音書 13章1~13節

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。
イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。

〇説教「 神殿が崩れるとき 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。心地の良い秋の日が続いています。昨日は西南幼稚園で運動会が開催されました。天候が守られ、少々暑くはありましたが、秋の自然を感じながら体を動かすことができることは、本当に神さまの恵みであると思います。皆さまのお祈りを心より感謝します。また今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

先週の日曜日は、礼拝の後に修養会が開催されました。久しぶりに開催された修養会は、56名ほどの方が集まり、9つのグループに分かれてお互いの信仰の歩みの紹介、また教会に思うことなどを話し合いました。数名の方に感想を聞きましたが、やはりこういう顔と顔を合わせた集まりの中で、話し合い、祈り合っていくことが大切だと感じたという声をいただきました。
参加者のみなさんが話し合いをしているとき、わたしは子どもと共に時間を過ごしました。子どもたちもまたこの教会の大切な礼拝出席者の一員です。この子どもたちがこの礼拝をどのように考えているのか、どうしたらもっと楽しくなるのか、どうしたらもっと子どもたちが来やすくなるかなど、アイデアを聞きました。例えば、子どもメッセージをもっと多くしてほしいという声もありましたし、礼拝の中子どもたちと大人で遊ぶ時間を作るのはどうか、という声もありました。私たちはこの礼拝において、神さまを賛美しますが、賛美には色々な表現があります。歌声を持って讃美する方もいますし、例えば生け花やダンスなど様々な表現方法を持って神さまを賛美する方もおられます。草木が自然の美しさを持って神を賛美するように、賛美は私たちに与えられたいのちを用いて神さまをほめたたえることです。ですから子どもたちが自然の姿で遊ぶということもまた一つの賛美になるわけです。
私は、この教会の礼拝が、共に礼拝をする皆さまのいのちが輝き、様々な形で主を賛美するような交わりになることを願いますし、そのために神さまの愛をお話しさせていただいています。みなさんもこの私たちの教会について色々なアイデアがあると思います。ぜひ、皆さんの思いを分かち合っていただき、私たちの教会の歩む道を祈り求めていきたいと思います。

さて、今日の聖書箇所に入ります。久しぶりのマルコによる福音書の通読箇所ですので、少しおさらいをします。場所はエルサレム、時は過越祭の頃です。この時期は、ユダヤを始めギリシャやアジア世界、またメソポタミヤ地方に散らばって住んでいたユダヤ人たちが、エルサレム神殿をお参りするために集まるときでした。ユダヤ人たちからすると、自分たちのアイデンティティー、あるいはその民族のルーツを、宗教的シンボルであるエルサレム神殿にやってくることで確認し、その歩みを守っていてくださる神さまに感謝を献げるわけです。ですからとても大切で感慨深い日であったと思われます。

イエス・キリスト一行もまたこの時に合わせて神殿を訪れていました。一行はエルサレムに数日間滞在していたと思われますが、あるとき、弟子の一人がこの神殿の美しさを見て感嘆し「なんと素晴らしい建物でしょう」と言っています。この当時の神殿は、ヘロデ大王が紀元前19年から紀元9年まで、およそ30年に及ぶ歳月をかけて修築されたものであり、当時もっとも壮麗な建築物の一つであったと言われています。弟子たちは普段ガリラヤというイスラエルの中央から遠く離れた北部の湖沿いの町にいましたから、神の都エルサレムの豪華さ、華やかさ、また賑やかさは、数日滞在してもつい口をついて出てしまうほどの素晴らしさであったのではないかと思います。ところがイエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、神殿の崩壊を予告するのです。

実は今日から始まるマルコ13章は、イエス・キリストによる「小黙示録」と言われます。「黙示録」というのは、簡単に言えば、終末、世の終わりの時に起こることを告げるものです。ヨハネの黙示録がその典型です。黙示という言葉の怪しさもある通り、内容もよくわからなくて怖いというイメージをお持ちの方が多いと思います。しかし実は黙示は、ギリシャ語ではアポカリプシスと言い、元々は「明らかにすること」を意味した言葉です。つまり、隠されていたものの覆いを取って真相を明らかにすることが黙示なのです。ですから、「啓示」とか「明示」とかそういう明るいイメージの言葉の方が良いと思うのですが、なぜか「黙示」という訳語が充てられてきました。それは明らかにされているとは言うものの、一度読んでも良くわからない、意味不明、イメージしがたいことが書かれているからだと思います。これを「黙示文学」と言いますが、実に当時の社会の中で、多くの人に知られると困る内容を、わかる人にだけわかるように、あえてわざとわかりにくく、簡単には読み解かれないように書かれた文学類型であるのです。

そして、これは実に紀元66-73年に起きたユダヤ戦争を預言した内容であるとも言われますし、福音書記者が事後に書き加えたのではないかと言われることもあります。ユダヤ戦争とは、ローマの権力に対してユダヤ人が反乱を起こしたわけですが、結局のところユダヤは敗北し、エルサレム神殿は崩壊し、マサダという要塞に逃げ込んだ人々が最終的に集団自決をするという、実に悲しくなんといっていいかわからない不幸な結末を迎えています。
実は今日この箇所からお話ししたいことは、まずユダヤ人たちがローマに反乱を起こした理由と、弟子たちが「この神殿のすばらしさ」を讃えた理由が、同じ考え方に基づくものであるということです。分かりやすく言えば、彼らは神が共にいるから戦いにきっと勝つことができると信じて反乱を起こしました。そのシンボルになったのがこの神殿です。素晴らしい栄光に満ちた素晴らしい神をたたえる神殿がある。私たちはその民だ。だから私たちは神の祝福に預かれると思うこと。これが、実は誤りであり神を思い違いしているということなのです。だからこそイエスは「神殿は崩れるときがくる」と語るのです。神殿が崩れるなんて、当時の人々にとっては不吉であり、神聖な神を甚だしく冒とくしているとしか思えないことだったでしょう。しかしイエスは語るのです。「私の名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」。この言葉はどういう意味なのか、考えて行きたいと思います。

聖書箇所に目を留めてみましょう。イエス・キリストは、3節以降にはその日が来るの予兆、徴としてどういうことが起きるかが書かれています。世の終わりの時が来ると言われたら、わたしたちも何が起きるか気になるのではないでしょうか。世の終わりはどのように来るのか、その時私たちはどうなるのか。裁かれてしまうのか。救いに預かるためにはどうしたらよいのでしょうか。

これは今、私たちの身近に感じる内容でもあります。戦争が起きています。そしてさらに拡大される向きもある。世界中で分断が拡がり、争いが起き、それが解決される見込みが立っていません。そして真っ先に犠牲になるのは、小さき者、貧しい者です。戦争の決定とはまるで関わりのない罪なき者たちが被害を受けて、命を落としている。そこにはおびただしいほどのこどもたちの命が含まれています。それを推し進める立場の者たちは安全な立場から自分の正義を騙ります。しかし、繰り返されるのは殺戮。破壊。そして困窮する状況が作り出されます。住む場所を追われ難民となっている方々もいます。そういえば地震も頻発しています。国内においても米騒動がおき、食料品は軒並み高騰しています。そしてカルトと呼ばれる様々な宗教団体が政治権力の中に暗躍している現実を私たちは知っています。またそういう方々は自分たちの神を信じれば救われるということを吹聴しています。まさに偽メシア、或いは人々を扇動し惑わすリーダーみたいな人が現れて、人々の心を支配し利用しようとします。こういう現実を見ると、世の終わりは本当に近いと思わずにはおられません。私は世の終わりとは、私は正義の乱用による神の偶像化と、他者性を欠如した人間性の喪失というものによって始まるものだと思います。
私たちは身近にこれらのような不安な出来事が起きるとき、私たちは何を頼りにするでしょうか。わたしはそれが神であり、それが神殿という神の力を象徴したものだと思うのです。神殿とは宗教的なシンボルであると共に、神の威光が輝き、力に満ちている場所であります。全能なる神がいるのだから私たちは助けられる。救われる。神が私たちと共にいるから私たちは勝利を得ることができる。そしてそれは聖書に記されていることでもある。ですから、弟子たちが「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。と言ったのは、その外面だけではなく、その素晴らしい石、素晴らしい建物で作られた神殿、またその神の栄光は素晴らしいと言ったのです。わたしたちも素晴らしい祭壇、大きな礼拝堂、或いは大きく美しい宗教寺院を見ると、そこに祭られている神への信仰の大きさ、あるいは影響の大きさというものを考えるのではないかと思います。
私たちは不安な時にこそ、神と言う大いなる存在に頼りたいと思いますし、その存在に安心感を得たいと思います。神聖な神殿に行けば、神のご加護を受けられるように思いますし平安をいただきます。そういう心持ちで歩むときに、なんかよいことが起こるような気がします。もしかして、今この場にお集まりの方々にもそういう思いを抱いてこられている方もおられると思います。そういう時もありますし、神の伴いを感じることもあるでしょう。しかし、本当に大切なことは、神殿と言う形ではありません。神を求め、神を信じることなのです。神殿という見えるものが大切なのではなく、私たちが本当の神を信じ、信仰に生かされることが大切なのです。だからイエスは、神殿が崩れるときがくると言うのです。それはわたしたちの願望や幻想が崩れ去る時が来るという意味なのです。私たちは見えるものの存在によって、本当の神の姿を見失うことがあるのです。

実は、神殿を最初に建築したのはダビデの子ソロモンです。イスラエル絶頂の時の王であったソロモンは、7年の歳月を用いて、莫大な国費を投じ、膨大な技術者と労働力を総力してエルサレム神殿を作りました。ところが神殿を建造した後に彼はこう言います。「神は果たして、地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕がみ前に献げる叫びと祈りを聞き届けてください」 (列王記上8:27-28) 。これは、神殿をそのように豪華絢爛に造ったところで、神と言う存在にはなお相応しいものではないと言うことを端的に表しています。

私たちは見えるものの存在によって、本当の神の姿を見失うことがあります。神殿という象徴的な存在によって、本来の神の思いに心を向けることができなくなり、神を偶像にすること、つまり私たちの願望をかなえる道具にしてしまうことがあるのです。わたしたちの教会も礼拝堂も、素晴らしいと言われることはよくありますが、本当に大切なものは礼拝堂ではなく、この私たちの交わりの中に生きて働く神であり、神が人となられたイエス・キリストのことばなのです。

神はどこにおられるか、それは私たちの只中であります。それは見えませんが、わたしたちの交わりの内におられるのです。教会と言う言葉は、ギリシャ語でエクレシアと言い、建物を表す言葉ではなく人々の交わりを指す言葉です。「神に召された者たちの群れ」がその意味です。神は召し出した民と共におられる。わたしたちから離れていくことはない。だから、神殿がなくなっても、大丈夫なのだ。苦しい時があるかもしれないけれど、あなたは一人ではない。神は見えなくても、言葉となって私たちと一緒にいてくださる。だから、私たちは困難があっても最後までその歩みを進めていくことができるのです。預言者イザヤはこのように言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神のことばはとこしえに立つ」(イザヤ40:8)。

パウロもまたこのように言います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリント4:18)。
私たちは、そのいのちの限りを捧げるほどに私たちを愛されたイエス・キリストに既に救われた者たちです。この愛から離れず、神の御心を祈り求め、行って歩んで愛りましょう。

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