〇ヨハネ福音書 1章1~5、9、14節
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
〇説教「 神の言葉と共に歩む 」
みなさん、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。オンラインで礼拝されている方も今年もどうぞよろしくお願いします。
本日は2025年の元日です。この日は、日本中が一年で一番宗教的になる日だと思います。普段宗教に接している接していないを含めて私たちは、この一年の始まりにあたり、それぞれの神仏に祈りの時を持ちます。そしてこの一年、願わくは平和に、それぞれの歩みが祝福と守りの内に整えられること、また家族の幸せ、仕事の守り、世界の平和のために祈るでしょう。特に受験生にとっては入試が近いですから、自分たちの志望校に入れますように祈願することもあります。私たちの家族の中にもその時期を迎えているご家庭があると思います。もちろん是非、その希望の通りに行ってほしいと思いますが、そう意味で、私たちはこの元日は、私たちは自分たちの力を超えた超越的な方の守りや助けを祈り求める日であると言えるでしょう。
そのように願いたい理由はわかります。私たちは、この世で何が起きるかわからない、自分の力ではどうしようもない出来事が起きることを知っているからです。例えば昨年2024年の元旦におきた能登半島地震は、私たちが一年の安寧平和を祈った先に起きた出来事でした。また毎年のように起きる自然災害、異常気象を留める手立てがない中で、私たちは今年の先行きが見えないことに不安を覚えます。また、個人的な一年の出来事を振り返ったって、もちろん良い出来事があった方もおられると思いますが、反対になんでこんなことになってしまったのだろうか、と後悔してもしきれない出来事に引きずられながら歩んでこられた方もおられると思います。今年こそは良い年になりますように。また私たちも悔い改めて新しく歩み出していきたい。そのために超越的な存在に祈りを捧げ、助けを求めたい。わたしたちはそのような思いを共有しています。ですからどの宗教であれ、祈りを捧げることは大切だと思いますし、その思いを尊重したいと思うのです。
しかしながら、気を付けなければならないことがあります。それは、私たちがその神仏という対象を、自分たちの目的達成のための手段にしてしまうということが、たびたびあるということです。自分の思い通りにうまく言ったら、神さまが守ってくれた感謝。しかしそうでなかったなら、神さまは私たちの祈りを聞いてくれなかったという考えに、私たちは瞬く間に陥ってしまうことがあります。困った時の神頼みのように自分たちの努力や取り組みを顧みることをせず、神さまのせいにしてしまうことが、私たちはたびたびあるのです。もしかして神の御心は自分の思った通りではないかもしれないということを心に受け止めたうえで、もし自分の思い通りに行かなかったにしても、それは経過が違うだけで、神さまが私たちの祈りを聞いてくれたという風に受け取ることができればよいですが、そうでない場合、私たちは神を自分の都合の良い道具のように考えてしまうことがあります。そして、そのように神をインスタントに考えるように教える宗教もあるのです。本当の祈りというものは、まさにイエスがいわれたように「祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じること」(マルコ11:24)であり、そのように私たちが信じて生きて行くことなのです。
わたしたちがキリスト者として、この時に心に留めたいことは、キリスト教の救いについてです。それは、インマヌエルという言葉にある通り、神はいつも私たちと共におられるということです。キリスト教の神は、無条件の愛の方です。わたしたちの能力努力を問わず、愛してくださる方です。悪いことをしたから裁きを起こし、良い行いをしたから祝福を与えて救うと言う方ではありません。神は愛の存在であるからです。
その神は、聖書や説教という神の言葉を通して私たちを励まし、力を与えます。しかし、この言葉は一足飛びに問題解決を為せるような力を与えるものではありません。もちろん時々は、あります。神さまを信じたら、不思議なことが起きた。神さまは祈りをかなえてくださった。ハレルヤ。神さまを信じたら救われる。そのような信仰体験というものは確かに起こることがありますが、しかしそれは常に同じことが起きるわけではありません。同じことを期待したけれど、起きなくて、神さまはやっぱりいなかったという風に不信仰になる方もおられます。それは、神さまを信じたらこうなるというとても安易な恵みです。
大切なことは、神さまの言葉を信じて常に歩むことなのです。それが時間がかかるように見えて、私たちの心を守り歩みを支える力となり、どんな困難の中にも耐えて、最後まで歩み通す力になるからです。それが実は、イエス・キリストの誕生に込めた神のご計画なのではないかと思います。
今日の聖書個所はヨハネによる福音書1章ですが、クリスマスの時によく読まれる箇所です。始めに言葉があった。この言葉は「ロゴス」というギリシャ語で、冠詞付きの単数形のThe言葉です。唯一の言葉が何を示すのかと言うと、神であった。そして、万物はこの唯一の言葉によって成った。その中にいのちがある。命は人間を照らす光で、世に来てすべての人を照らすのである。
この言葉は、イエス・キリストのことだと言われます。つまり神の言葉が肉となって人々を照らすためにやってきた。そしてその言葉が私たちに届くときに、私たちは命に満たされるのです。
新約聖書の福音書には、まさにそのようにイエス・キリストに出会って救われた方々のエピソードが載っています。私たちが毎週の礼拝で、この箇所を読む理由は、イエス・キリストがその救いの出来事を起こされたように、わたしたちにもこの言葉を通して、救いの出来事が起きていることを伝えるためです。まさにその言葉を私たちの肉となり、歩んでいくこと。これが私たちの信仰であり、祈りになるのです。
わたしたちが生きている世界は、色々な情報が飛び交い、健全な教えや真実から目を背けさせ、好き勝手なことを言う偽預言者たちのような人々が跋扈しています。まさに世の終わりを思わせるような社会です。
しかし私たちがこの時、大切にしたいことは、イエス・キリストの物語から私たちそれぞれに語り掛けてくる小さな神の言葉に耳を澄ませ、祈りの内に、私たちがするべきことに向かい合っていくことです。
旧約聖書箴言3:5-6にはこのような言葉があります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を恐れ悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう」。
主を信じること。この言葉に生きて行くこと。それは神の愛の内に生きて行くこと。その時、私たちは、自分一人だけの生き方から解放され、心が守られ、喜びに満ち、安心して歩んでいくことができるようになるのです。神は、そのような生き方へ私たちを招くために、イエス・キリストを送られました。私たちはこの方を信じて、この方の言葉から力を頂いて、この一年を歩み出して参りましょう。
新生讃美歌552番「わたしが悩むときも」を賛美させていただきます。その後、 「主の祈り」を共に祈りましょう。
テサロニケⅠ 5:16-18