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2024年1月14日説教全文「 12弟子の派遣~立ち返りへの宣教 」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 6章6~13節

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」。十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

〇説教「 12弟子の派遣~立ち返りへの宣教 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週の皆さまの歩みの上に主の恵みと守りがありますようにお祈りしています。先週は成人の日があり、日本各地で成人式が執り行われました。皆さまのご家族の中にも新成人となられた方がおられるかもしれません。また昨日と本日は大学入試共通テストと言うことで、今試験に望んでおられる方々がおられます。願わくは一人一人の願う道が開かれますようにお祈りしたいと思います。

メッセージに入る前に少しお話しさせていただきます。わたしたちは一人一人、新しい決意と希望をもって新年の歩みを過ごし始めたわけですが、その前に毎日の営みができるのが決して当たり前ではないということ、この毎日が恵みであるということを心に留めることが大切だと思います。一日一日の糧が与えられること。仕事があること。健康であること。家族や友人と時を過ごせること。これらはかけがえのない宝物です。私たちは時にそのようなことが当たり前だと思っているわけでなくても、漫然とその時を過ごしていることがあるのではないでしょうか。今回の能登半島地震で大切なライフラインが破壊され、また道路が封鎖されたことにより、陸の孤島となった地域があります。食料もわずか、医療物資も支援物資も届かず電線が途切れたことで電波も届かない。情報が入ってこない。今も避難生活の中救助活動中の方々、先も見えない中に置かれている方々のことを覚えます。しかしそういう状態になったときに、私たちは初めて日常の尊さ、かけがえのなさというものを感じます。そして支援をしてくれる人々の存在、祈ってくれる人がいることが恵みであることを感じ、感謝の気持ちというものが生まれてくるのではないでしょうか。
私たちは普段通りの生活というものができていくと、与えられている恵みに気付かず、当たり前のことのように思ってしまいます。しかし当たり前ではありがたみは生まれません。有難いという感情はまさに漢字にもある通り、「有るのが難しいこと」に出会った時に湧き溢れる感情であるのです。

今週私たちは1月17日を迎えます。神戸におりました時、この日は特別な日でした。何故なら、阪神淡路大震災が起きた日であるからです。今より29年前、1995年1月17日に戦後最も被害の大きな都市直下型地震が起こり、まさに私たちの生きていた大地、土台というものが揺れました。これまで関西では地震は起こらないとまことしやかに言われていた世の通説、期待を大きく裏切り、死者6434人、家屋の破壊、高速道路の倒壊、長田での大火災などわたしたちはテレビなどの報道で覚えている方が多いのではないかと思います。私は当時中学生、東京に住んでいましたが朝起きてから見たニュースが、ヘリコプターから見た被災現場の状況でした。
阪神高速3号神戸線がなぎ倒され、橋げたからバスが落ちそうになっているシーンは、今も心に焼き付いています。神戸教会のメンバーたちの中には死者はいませんでしたが、家を失い、復興住宅という仮設に住まわれた方々は多くおられました。神戸教会に隣接する光の丘幼稚園は一時期近隣住民の避難所になりました。私が神戸教会に赴任したのは、ちょうど震災20周年の年でした。1.17という日は、当時そこにおられた方とそうではない方を二分する大きな出来事でしたので、その日を迎える前の礼拝は非常に大切なものでした。しかし説教を語る者としては、非常に困難であり、語ることが怖い日でもありました。その一言で聴く人を傷つけてしまうということがあり得ました。また、その出来事を共に経験していない私が何かを語ったとしても空虚に響くのではないかと思ったからです。なのでこの日にはむしろ皆さまに聞くことを大切にしていました。教会員の方々の中には、当時の被災の語り部として活動している方もおられましたが、中にはその時のことはあまり思い出したくない、語りたくないということをお伝えくださった方もおられます。

しかし私がとても印象に残っているのは、自分たちでさえ大変な時に他の人から優しくされた時のこと、困難な状況を共に生きられたこと。与えられたいのちに感謝をし、今困っている方々と共に生きて行こうとすることでした。連盟諸教会やアメリカ南部バプテスト連盟からも多大な支援がありました。頂いたものを共に生きて行くために用いていく。そのときに炊き出し、またホームレスの方々への越冬支援、おにぎり配り、日本語を読めない外国人被災者たちへの支援活動というものが行われるようになったそうです。受ける者から行う者になっていく、一人で生きて行くのではない、他者に支えられて共に生かされていくということ。ここに復活の希望というものがあります。
被害の状態は当時の阪神淡路、また今回の能登半島地震では異なりますが、しかし大変な中にこそ希望というものが必要であり、しかしその希望というものが自分だけではなく他の人と共に生きて行けるように導く力となることを感じました。このことを覚え、また今、苦しい思いをされている方々のために祈りつつ、歩みを進めていきたいと思います。

今日の聖書個所はイエス・キリストが12人の弟子たちをガリラヤの村々へ派遣するというお話です。恐らく福音宣教への派遣というものをイメージすると、力強い伝道や喜び勇んで出かけて行くというイメージを持たれる方も多いのではないかと思います。それにイエス様から権能を授けられるわけですから、それがいったいどのようなものか、私たちは気になるのです。しかし今日はちょっと少し異なる角度からこの弟子の派遣というお話を見ていきたいと思います。
皆さんの中には旅行がお好きな方もおられると思います。旅の楽しみ方もそれぞれです。目的地を決めずにその場その場の出会いを楽しんで行かれる方もおられると思いますが、使命ある旅の場合、与えられた任務をどのように果たそうかということを考え、用意周到に準備をしてから出かけるのが普通ではないかと思います。しかし、イエス・キリストは杖一本の他はお金も食料も着替えも持って行ってはならないと言われます。みなさんがこのように言われたら、どうでしょうか。「え、じゃあこれからどうしたらいいの?」と不安にならないでしょうか。もちろん、これには、旅路の歩みの上に神の守りと導きがあるということを語っているのだと思います。それにしたって弟子たちは戸惑ったのではないかと思うのです。
戸惑う理由はそれだけではありません。彼らの言葉をどうやって証明するのかもまた不安だったのではないかと思います。また彼らは一人ずつ送り出されるのではなく、二人組で送り出されました。これはコヘレトの言葉4:9-10に「一人よりも二人が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、一人がその友を助け起こす」とある通り、祈り合い支え合い助け合って行きなさいということだとは思いますが、しかしながらどういう組み合わせで送られたのかということが非常に気になります。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは兄弟として送り出されたのでしょうか。イエスを裏切るユダは誰かと仲良しだったのかとか、疑り深いトマスは誰とコンビだったのだろうか思うのです。

旅というものは、気がある人と一緒に行く時は喜びになり、疲れも忘れるくらい楽しさ倍増になります。ところが、気の合わない人との旅なんて苦痛でしかありません。ご飯の好み、歩くスピード、会話の話題など、違うところばかりが気になってしまって旅がしんどくキツイことになってしまうこともあるんではないかと思います。いくらイエスさまが直々に選ばれた弟子とはいえ人間性はまったく違います。ガリラヤ出身の漁師もいましたし、元徴税人も元熱心党というグループに属していた人もいました。ローマのために税を取り立てていた徴税人とユダヤ独立を支持していた熱心党では水と油です。下手に二人で行くよりも一人のほうが気が楽だということもあるかもしれません。

しかし、やはり二人で旅に行くということ自体がやはり大切だったのでしょう。イエス様はあえて二人に同じ使命を与えて遣わしています。つまり二人がお互いを向かい合っているそれぞれの違いが気になります。しかし二人が同じ方向を向いて歩んでいく時に、些細な違いはむしろそれぞれの個性の違いとして受容し、むしろ共に結ばれていくことができると言っているのではないかと思うのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの中でこう語っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:26-27)。これはお互いには違いがあるけれど、その違いは神から与えられた違いであり、むしろその違いがあるからこそ互いにキリストを中心に結び合って行けるのだということです。

聖書個所に戻りますが、弟子たちは宣教活動のためにイエス・キリストに派遣されました。イエス・キリストの言葉が真実であるということを証明するために何が大切でしょうか。それは派遣されている者たちがその言葉にどのように生かされているかということではないかと思います。イエスの言葉はとても良くても、その弟子たちの姿というものがそれを証ししていなければ、それは本当のこととして受け入れることができないと思うからです。しかも表面上仲良くするとかそういうことではなく、お互いが心から使命を果たしていくために仕えていく姿勢がやはり大切だと思うのです。私たちは実を見てその木を知るのです。

ここで私たちが心を留めたいのは、弟子たちの姿です。彼らは何の保証もないままに、神の守りを信じて出かけて行きました。そして彼らは自分たちが受けたように彼らもまた行っていく者となりました。彼らは自分たちを受け入れてくれる人の家に留まり、悪霊の追い出し、病人の癒しを行いました。それを行うことが弟子たちの利益にかなうものだったかどうかはわかりません。実は、マタイ福音書とルカ福音書の平行記事には、これに続けてこう書かれています。「働き人が自分の報いを受けることは当然である」。ルカには続けてこうもあります。「家から家へと渡り歩くな」。つまり、自分の利益を求めていたとしたら、より良い待遇の家に行くこともできたかもしれません。しかし、マルコではそういうところには触れず、神の守りと与えられる恵みだけを信じて出かけて行く時に、色々な奇跡が起きるのだということを伝えようとしていることが分かります。

先週の説教で、イエス・キリストは単数形の教えを語り、諸々の奇跡を起こされたということをお話ししました。その教えというものは、神の言葉であり、ナザレと言う関係性の出来上がったところでは、奇跡は起きなかったのです。しかしこの弟子たちの宣教活動においては、奇跡が起きています。つまり、イエス・キリストによって異なる者同士が助け合い支え合い、その神の教えに従っているときに、その弟子たちの姿を見た多くの人々が、彼ら自身に与えられた福音が真実であるということが伝わったのではないでしょうか。

悔い改めと言う言葉があります。「悔い改めなさい」なんて言われたって、出来っこありませんし反発するでしょう。しかしその人自身が、イエス・キリストの言葉によって救われて生きていたら話は別です。悔い改めと言う言葉はメタノイアという言葉ですが、そもそもは方向転換して生きることです。何から方向転換するか。「罪」からです。罪と言う言葉は、ハマルティアという言葉ですが、元々は的外れに生きるという意味があります。罪からの悔い改めとは、本来の生の目的から的を外して生きていた私たちの歩みを方向転換し、恐れ戸惑い、また自分自身を襲う悩みから解放され、神と共に生きて行くと言うことであります。悪霊に取りつかれ、病の中にあった者たちは、恐らく自分の何かが悪いからそうなったという考えに取りつかれていたことでしょう。しかし、そこにイエス・キリストが来られた。神、我らと共におられる。ここから始まっていく。それを証明した弟子たちの姿。ここに信仰というものが生まれるのではないかと思います。

私たちの歩みにも様々なことが起きます。土台が揺らぐこともあります。しかしそんな時こそ、神が私達と共におられることに心を向け、自分は一人ではないと言うこと、隣人と共に歩んでいけるということ、「今度は与えられたものが与えるものになっていくということ」そしてそこから新たな宣教活動が生まれていくということに心を開きたいと思います。共にお祈りしていきましょう。

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