〇マルコによる福音書 7章24~30節
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
〇説教「 娘から悪霊を追い出してください 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、日々の歩みの上に主の豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。
キリスト教会では先週の水曜日に「灰の水曜日」という記念日を迎え、レント(受難節)という時期に入りました。イエス・キリストの十字架への歩みを黙想する時期です。パウロは言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。(ローマ3:23-25)イエス・キリストが十字架に即けられたのは、私たちの罪の赦しのためであります。私たちはこの時、改めてその道筋を歩み抜かれたイエス・キリストの愛に心を留めて参りましょう。
今日の聖書個所に入ります。新共同訳聖書では「シリア・フェニキアの女の信仰」という小見出しが付けられている箇所です。先ほど司式者にお読みいただきましたが、恐らく皆さん、イエス・キリストの対応に非常に違和感を覚えられたのではないかと思います。これはいったいどういうことなのか。この個所が何を伝えようとしているのか、詳しく見ていきたいと思いますので、聖書をお持ちの方はどうぞその箇所を開きながら宣教をお聞きください。
内容はシンプルで非常にわかりやすいと思います。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、イエスのことを聴き、駆けつけてきて、「娘から悪霊を追い出してください」と助けを願うという場面です。「悪霊」とは当時、病気あるいは心身の不調、または物事がうまくいかない原因とされていたものです。当時すでにイエスの癒しの業は広く噂になっていたと思われますから、この女性がやって来るのは当然という印象を受けます。ところが違和感があるのは、イエスの応対の仕方です。「子どもたちに十分に食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」。これは、その女性に深く憐れみをかけるのでもなく、慰めるわけでもなく、その思いに応えようともせず、最初から拒否している言葉のように聞こえます。しかもその言葉の意味は、わかりやすく言えば、「もしあなたがユダヤ人であれば「子ども」として助けてあげるけど、あなたはギリシア人でシリア・フェニキア出身の異邦人という子犬であり、私とは関係がない。だから、あなたの娘には癒しの業を行わない」。と、まるでイエスが人種差別をしているかのような印象を受けるのです。
これはわたしたちが持っているイエス・キリストのイメージとはまるで異なる姿だと思います。「イエスさま、いったいどうしちゃったの!?」という感じではないでしょうか。私たちのイメージするイエス・キリストはとても心優しい方で、困っている人のそばに寄り添い癒し、慰めと励ましを与えてくれるお方です。ましてや子どもを助けてくださいと言われたら、肩を抱いて一緒に子どものところまで行き、子どもを助けてくれる方だと思うのではないでしょうか。他の聖書個所を見渡せば、当然異邦人であろうとも罪人であろうとも、求めるものに応えようとするイエスが、何故このような対応をされたのでしょうか。これはもう冷たいと言うより「悪霊を追い出す力はあるけれど、あなたにはしないよ」という意味に聞こえ、とても残酷で非常なように思います。このイエスの姿は、これまでの聖書が示す姿とはまるで異なる姿に受け取れるわけです。イエス・キリストは異邦人への差別感を持つユダヤ人優先主義者なのでしょうか。それともほかに何か私たちが心を止めるべき事柄があるのでしょうか。共に考えていきたいと思います。
ちなみに、今日の聖書箇所はマタイによる福音書にも少々違う形で記されています。実はマタイによる福音書は、その立ち位置として、旧約聖書から続くイスラエルの正統思想を持っていますので、神の民イスラエルを優先とは言わないまでも特別視する思想はあるのだと思います。その証拠に、イエス・キリストが12弟子たちを派遣する時、このように言っています。「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろイスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」。
しかしマルコ福音書には、こういうイスラエル優先の記述はありません。恐らくマルコ福音書の方が先に成立していますので、あえてマタイ福音書がそういう書き方を加えたと考えられます。むしろマルコ3章には、イエスのしておられることを聞いて、ティルス、シドンのあたりからもおびただしい群衆がやってきたという記述があります。ティルスとシドンというのはイスラエルの町ではありません。ティルスは今ではレバノンの南西部の町、かつてはフェニキアという国の首都として栄えた町であります。シドンも同じフェニキアの町であり、まぎれもない異邦人の町であり、今日登場する女性はそこの町出身だったということがわかります。ちなみに、かつてこのフェニキア出身のイゼベルという王妃が北イスラエル王国のアハブ王と結婚し、バアルという偶像を持ち込んだことで、預言者エリヤと争いを繰り広げました。イゼベルは旧約聖書で最も有名な悪女の一人として記録されています。
しかも、今日の文脈を見てみると、イエスさまがわざわざこのティルスの町まで出かけているのです。なぜイエスはその町まで行ったのでしょうか。しかも24節を見てみると、興味深いことにこういうことが書かれています。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」。
不思議だと思います。イエスさまは誰にも会いたくなくて、わざわざティルスの地方に来ていたと言うのです。つまり、イエスさまは、敢えて異邦人の町に来ていたのです。何故でしょうか。これを知るためには聖書の文脈を読んでみる必要があります。今日の箇所マルコ7章前半の部分は、先週の説教でも取り上げましたが「昔の人の言い伝え」という小見出しが付けられており、内容は、神の掟よりも昔の人間の言い伝えを優先し、あたかもそれが何よりも大切だ。正統的な信仰だ。伝統だと言うような人々と論争を繰り広げた場面が記録されています。イエスは、それについて、「あなたたちは昔の人の言い伝えを大事にして神の掟をないがしろにしている」と批判されています。
イエスの論争相手は、エルサレムという宗教的シンボルの中心地からやっていたファリサイ派・律法学者、しかしながら神がその教えに込めた本当に大切なものを何も知ろうともしない者たちでした。なので、これは私の想像ですが、そういう相手とのやり取りにイエスさまは心底疲れていたのではないかと思います。だからイエスさまはそんな人々の相手はもうしたくないとわざわざ遠く離れた異邦人の町に来たのではないかと考えられるのです。
私たちもあると思います。疲れを覚えるとき、もうこの人たちを相手にするのはやってられないと思うことがあります。そういう時に、まさに引きこもりたいと思うことはあるのではないでしょうか。そういう時、心は疲れ、やさぐれ、本当はそういう対応をしてはいけないと思いつつも、相手に対してイラついてしまい、過敏に反応してしまうことがあるのではないかと思います。もしかしてイエスさまもそのようなデリケートな精神状態であったのではないでしょうか。
ところがそこにギリシャ人で、シリア・フェニキア出身というなにやら複雑そうな背景を持つ女性がやってきた。自分は誰にも知られたくないと思っているにも関わらず、誰にも会いたくないと思っているのに、勝手にやってきた。そういう時にふとこういう言葉が出てしまったのではないかと思うのです。
言ってはいけない一言というものがあります。最近はよくインターネットなどで「炎上する」ということもありますが、記録された言葉は消えません。これはまさにイエスの発言の中で最も冷たく響く言葉の一つです。何故そんなことを言うのか。信じられないという感じになってしまってもおかしくはありません。
ところが、そんなイエスの心を包み込んだのが、この女性の受け答えでした。彼女は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエスの言葉を逆手にとって言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。これはすごい言葉だと思います。「失礼ですよ。普通なら私は犬なんかじゃありません!」と言い返したいところだと思います。まさに炎上し、民族間の摩擦が起きても不思議ではありません。しかし彼女はそのようには受け取りませんでした。当時の世の中は、恐らく女性が男性に物申す、しかも民族の違う男性のところに出かけて行ってひれ伏すなんてことはとても勇気が必要だったことだと思います。同じユダヤ人だったと思われる。いわゆる長血の女性でさえイエスさまの前に立ち声をかけることは出来ませんでした。
しかし彼女は、自分が弱い立場であることを否定せず、むしろ子犬のように憐れみに寄りすがる他ない存在だということを受け入れた上で、イエスさまに憐れみを乞うているのです。イエスさまはびっくりしたと思います。そしてそれ以上、何も言えなくなってしまった。あるいは自分の中の毒気が抜き去られたかのように、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と、まさに我に返ったかのように語りかけています。娘はそのときそこにはいませんでしたが、しかしこの言葉が与えられた時、この女性が確認するまでもなく、娘は癒されたのです。何故彼女は、そのように縋りつくことができたのでしょうか。それでもイエスさまなら何とかしてくれるに違いないという信仰がしっかりとあったのだと思います。私は、この女性の姿に「求めよ、さらば与えられん」という諦めない祈りの姿を見るのです。ルカによる福音書でイエスは弟子たちに祈りを教えられました。その際、主の祈りと共に、この諦めない祈りを教えるのです。まさに断られても門をたたき続けるこの祈りに、ついに主人は心を開き、願いを聴いてくださるのです。
さて、みなさんはこの物語をどのように受け取るでしょうか。この物語は、大きく分けて二つの読み方ができると思います。一つ目は、やはり伝統的な解釈としてイエス・キリストは神の子であって、実は元々彼女を助ける思いがあるにも関わらず、あえて異邦人であるこの女性の信仰を試すために冷たい対応をしたという読み方です。その場合、イエスが異邦人の町に来たことも、やはりこの彼女と出会うため、彼女と娘の救いの為であったと言えます。しかしその場合、気になることは、彼女の信仰を試すために娘のいのちが危険にさらされていたということです。果たしてイエスさまはこの女性の信仰を試すために、この娘のいのちを利用したのでしょうか。それでは彼女が信仰を示せなかったら、癒さなかったということなのでしょうか。さらにもう一つの問題点は、結果として信仰によって救われることになるとはいえ、そこにはイスラエル優先、異邦人は子犬という差別意識・差別構造があったという事実がどうしても残ってしまうということです。
二つ目の読み方は、イエスさまは真の神でありながら真の人として生まれた。つまり環境としてはユダヤの文化に生まれ育ったのだから、今申し上げたように、人間としての性質があったと言うこと。つまりこの場合の問題は、神の子であるイエス・キリストにも偏見があったということになります。しかしその場合私たちがこの箇所から受け取るべき大切なメッセージは、イエス・キリストもまたこの諦めない女性との出会いによって変えられていったということです。
聖書を読めば、イエスさまもまた最初から完璧な存在として天から下って来たのではなく、赤ちゃんとして生まれ、家庭や人々との交わりの中で色々なことを教えられながら育ってきたという物語があることがわかります。神の子であるイエス・キリストに間違いがないと言いたい気持ちはわかりますが、むしろ聖書はイエスさまも日々の営みの中で、人々の交わりの中で、神との対話の中で成長していったように、私たちもまた出会いによって変えられること、遜っていくことの大切さ、その中で新しい者とされていくことが示されていると受け取ることもできるのです。イエス・キリストは真の神であり、真の人でもあります。それは弱さを持っている人間でありつつ、新たな気付きが与えられた時にはしっかりと向き合って、方向転換、悔い改めと言われるメタノイアをすることができると言うことだと思うのです。これが正しいという固定化ではなく、或いは自分の行いを正当化ではなく、変えられていくことを喜ぶこと。これが神が私たち人間に願っていることなのではないでしょうか。
私は、この女性が「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずを頂きます」と言った時、イエスさまの心にやはりあの「五つのパンと二匹の魚」が男だけで5000人を満たした出来事を思い出したのではないかと思うのです。あそこに集まったのは、恐らくユダヤ人だけでした。しかし今や異邦人もまた神の恵みに預かる時がやってきている。イエスさまの働きが人々の出会いによって広げられた瞬間です。実にマルコ8章で登場する4000人の給食という物語は、異邦人に広げられた世界を示しているとも言われます。神の国は新たな気づきが与えられ立ち返ることから広がるのです。
わたしたちもまた、イエス・キリストとの出会いによって日々新しく変えられ、祈りつつ歩んでまいりましょう。