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2024年2月25日説教全文「 エッファタ(開け)! 」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 7章31~37節

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。

〇説教「 エッファタ(開け)! 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、日々の歩みの上に主の豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。

わたしたちは、現在キリスト教の暦で言うレント(受難節)というイエス・キリストの十字架への歩みを黙想する時期を過ごしています。ヨハネ福音書3:16にはこのようにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。イエス・キリストがこの世に与えられ、十字架への道筋を歩まれたのは、私たちの罪の赦しのためであり、私たちが永遠の命を得るためであります。戦争中の国々のことも覚えながら、私たちはこの時、改めて十字架と復活の主イエス・キリストの愛に心を留めて参りましょう。

今日の聖書個所に入る前に少しだけお話をさせていただきたいと思います。私は先週のマルコ7:24-30の解き明かしの中で、イエス・キリストは真の神でありつつ真の人でもある。だから疲れも覚えたし、イライラすることもあっただろう、引きこもり、逃げたくなることだってあったのではないか。そんな時に願ってもいない来訪者の異邦人の女性がやってきたときに、思わず差別的とも捉えられかねない心にもない発言をしてしまったのではないかとお話ししました。それを聴いて、「西脇は不信仰だ、イエス・キリストを冒涜している。あるいは神学的ではない」と思われた方もおられたかもしれません。それはある意味正常な反応だと思います。と言うのは、キリスト教が歴史的に造り上げてきた神学あるいは教義というものがあるからです。しかし、私はその教えは不変不動のものではなく、まさに「聖霊を通して聖書が語る」というように、時代や文化的背景によって変えられていく余地のあるものだと理解していますし、それが聖書は律法ではなく、福音として人を活かす言葉になる所以だと思っています。確かに私は信仰的な牧師だと言い切ることは出来ませんし、神学の学びも拙いものだと思います。しかし、聖書を文脈的に丁寧に、また自分の出来事として読んでいくことを大切にしていますし、そのような黙想の中で与えられたメッセージであります。

とはいえ、私が語っている言葉をどう聞くかはそれぞれの人にかかっていますし、正しいかどうかはわかりません。わたしとしては、みなさんがそれぞれで聖書を読み、今神が語られていることを求めて行っていただくことが本望ですので、是非、そのように受け止めて頂けばと思います。

それでは今日の聖書箇所に入っていきましょう。今日の箇所は実はマルコによる福音書にしか記されていない「耳が聞こえず舌の回らない人を癒す」という物語です。「エッファタ」というアラム語、その意味は「開け」という意味ですが、この謎めいた言葉が非常に強く心に残りますし、この特別な言葉が何やら魔法のように人に作用したようにも感じられます。しかし、この「エッファタ(開け)!」という言葉で開いたものは一体なんであったのかと言うことを今日は共に考えてみたいと思います。

聖書に目を向けてみましょう。イエス・キリストはティルスという異邦人の地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へとやってきました。目まぐるしく動いているように思いますが、実はこれはやや不思議な行程です。聖書をお持ちでしたら、巻末の地図6「新約時代のパレスチナ」をご覧ください。私たち、なかなか地名を聴いても場所を想像することもなく、地理的なこともあまり深く考慮することもありません。しかしその町がどこにあるのか、どんな町であったかを考えることや、イエス・キリストの行動の意図を考えると、聖書が言おうとしている内容に深く心をはせることができるようになるかと思います。

地図を確認すると、ティルスとシドンというのは、ガリラヤの北西部で地中海に面している町々であることが分かります。シドンの町はティルスから北に約35キロほどのところにあります。ところがデカポリス地方というのは、内陸部、ガリラヤ湖の南東の広大な地方を指しています。つまりこの書き方だとイエス・キリストは、北西の町々からガリラヤを迂回して南東のデカポリス地方を経由してガリラヤ湖にやってきたという説明になります。イエスはガリラヤ湖の右回りルート、左回りルートのどちらを回られたのかは不明です。ちなみに『岩波訳新約聖書』では31節はこのように訳されています。「さて彼は、再びテュロスの地域から出て、シドンを通ってガリラヤの海に至り、デカポリス地方の只中に来た」。この訳はガリラヤ湖を迂回せず突き抜けてきたような印象になります。実は原文がはっきりしていないため、このような訳し方の違いが可能になります。ということは、今日の箇所の具体的な地名は不明ですし、特定することはあまり重要ではないということでしょう。では、この31節は一体何を語ろうとしているのでしょうか。

実はデカポリス地方とは、「悪霊に取りつかれたゲラサ人の救い」(マルコ5:1-20)が起きた町が含まれる地方であり、ティルス・シドンとは異なる人種の異邦人たちが居住する場所でした。ですからこの節が言おうとしていることは、イエスは異邦人が住む周縁部の町々をくまなく巡り、宣教の舞台であるガリラヤに再び戻っていったと言うことでしょう。もしかして先週の女性との出会いを通して、異邦人との出会いを求めていったとも考えることができるかもしれません。ということで今日の舞台は、ガリラヤ湖南東岸、デカポリス地方の異邦人の町ということで考えたいと思います。

さて人々はイエス・キリストの元には「耳が聞こえず舌の回らない人」を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったとあります。耳が聞こえないことと舌が回らないというのは、いわゆる「聾(唖)」という症状、つまり聴覚にハンディキャップを持った方々のことだと思われます。ギリシャ語聖書では、コーフォスという一つの単語で表されています。つまり、耳が聞こえないことと舌が回らないことが連動する問題だったということが、当時も理解されていたということでしょう。しかし、実はこれに加えられてもう一つ「舌が回らない」という意味のモギラロンというギリシャ語が出てきます。

つまり、彼は2重の意味で舌が回らない症状であったと言うことです。それはどういうことなのかというと、身体的な意味だけでなく、精神的な意味でも「言葉にならない思い」というものがあったのではないかと思います。

病気やハンディキャンプを得るということに関して、問題なのは、何故それが自分の身に起きたのかということです。ヨハネによる福音書9章で弟子たちが目の見えない人を見かけた時に、こうイエスに尋ねています。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。この理解は当時から約2000年経つ現代社会においても同じように成り立つ考え方です。つまり私たちの身に起きた不条理について、私たちは犯人捜しを行うのです。これは一つ意味では、自分の心を納得させることにつながると思います。しかし、それがはっきりしないとき、それは私たちの心を苦しめることに他ならないのです。

ちなみに、日本の新宗教はそういうところに目を付けています。「あなたが○○なのは、先祖が解放されていないからだ。成仏していないからだ。怨念が向けられているからだ。だから、祟りがこないように像を買いなさい。お布施を払いなさい。お札を買いなさい」。まことしやかに語られる言葉に藁にも縋る思いで飛び込む人が多くおられます。しかしそれは解放を与えるものではなく、むしろ「霊によって人を縛ること」と言えるものだと思いますし、マインドコントロールだと言えるでしょう。

イエス・キリストは、そのように問う弟子たちにこう言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。これがまさに解放の業なのです。誰かが悪いではないのだ。そしてそのような病気やハンディというものが悪いわけでもないのだ。むしろ、私たちがそのような思考回路から解放される必要があるのだということです。「神の業がこの人に現れるため」と言うのは奇跡的な癒しが起きるためというよりも、それを含めたイエス・キリストの働き、あるいは存在というものはそういう人々のためにあると考えることができるでしょう。

恐らく、この耳が聞こえず舌の回らない人も助けは求めていたでしょう。彼は何も聞こえず何も発語することができませんでした。もちろん会話は意思疎通の方法の一つであり、ボディーランゲージなどでやり取りすることもできたと思います。しかし、彼は自分ではどうすることもできず、周りの人々に引き出され、イエスの前にやってきたのです。彼に先週の女性のような求める思い、門をたたき続ける信仰は見出せません。しかし、イエスは、彼を見て、彼を群衆の中から連れ出して癒しを与えたのです。イエスが、彼の両耳に指を差し入れ、唾を付けてその舌に触れたと言うのは不思議なことです。しかし恐らく彼にとってその部分は、原因不明の症状がある中で、まさに恐らく誰にも触れられたこともなく、恐れられていると思っている患部に触れたということです。彼にとってイエスの身体的なタッチは完全なる受容の意味として映ったのではないかと思います。

「エッファタ」という言葉は、「開け」という意味のアラム語です。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス・キリストの当時のガリラヤではアラム語が一般的に使われていました。なので、魔術的な特別な言葉ではありません。しかし象徴的に、印象的にこの言葉が残っているのは、やはり大切な意味があると思います。実はこの「エッファタ」には「解放されよ」という意味があるようです。

それは身体的に耳が聞こえるようになることだけでなく、会話ができるようになると言うことだけでもなく、恐らく、自分自身で精神的に自分を縛っていた呪いのようなものから解放されていくということでしょう。イエスの言葉、あるいは存在と言うのは、そういう意味で、人を解放していくものなのです。

さて私は説教の冒頭で「「エッファタ(開け)!」という言葉で開いたものは一体なんであったのか」を共に考えてみたいと言いました。それは恐らくこの人が耳が聞こえるようになったことだけではなく、また彼自身の心が解放されていくことだと思います。

しかしこの箇所が言おうとしていることは、それだけではありません。この箇所の面白いところは、周りでそれを見ていた人々もまた解放されたということです。群衆は、イエスの癒しの奇跡を見て、こう言っています。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。しかも、イエスが口止めしようとしても、彼らは止まることがなかったようです。

やはりここには理由があると思います。実は聖書において「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにする」というのは、メシアによる回復の預言の中にしか存在しません。わかりやすく言うと、旧約聖書において、死者の復活のエピソードはありますが、聾者の癒しは存在しないのです。しかし、イエス・キリストにおいてこれが起こった。しかも異邦人の地において異邦人たちの中に起きた。そしてイエス・キリストがこう賛美されているということが極めて象徴的なのです。

先ほど、「舌が回らない」という意味の「モギラロン」という言葉なのですが、聖書の中でここと、もう一か所でしか使われていません。それはギリシャ語で訳されている旧約聖書イザヤ書35:5です。文脈を確認したいので1-6節までお読みします。

「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる」。

人々がこの奇跡を見て、口止めされてもますます言い広めてしまった理由。それは、まさに異邦人の土地とみられ、荒れ野、荒れ地、砂漠と思われていた場所にも、神は恵みを与えてくださる。神の恵みは、ユダヤ人だけではなく、異邦人たち、まさに辺境の土地とみられていた人々にもしっかりと及んでいる。これに感動した方々の心が解放された出来事だったのではないでしょうか。

イエス・キリストの歩み、行い、言葉というものは、まさに私たちの心にこのように働くものなのです。イエスは言います。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。霊の縛りからみことばによる解放へ。このイエスを共に信じていきませんか。共にお祈りいたしましょう。

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