〇マルコによる福音書 8章1~10節
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」。弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」。イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
〇説教「 四千人の給食~七つのパンと七つの籠 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、日々の歩みの上に主の豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。
わたしたちは、現在キリスト教の暦で言うレント(受難節)というイエス・キリストの十字架への歩みを黙想する時期を過ごしています。ヨハネ福音書によると、イエス・キリストは過越祭の前日、弟子たちの足を洗われ、最後の晩餐の席で自らの割かれる体と流される血をパンと杯に譬え、弟子たちに渡されたあとこのように言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ福音書14:1-4)。
イエス・キリストが十字架への道筋を歩まれたのは、私たちの罪の赦しのためであり、私たちが永遠の命を得るためであります。私たちはこの時、改めて十字架と復活の主イエス・キリストの愛に心を留めて参りましょう。
今日の聖書個所に入ります。今日はマルコ8章の「四千人の給食」の物語です。皆さんは、この物語をしっかりと読んだことがあるでしょうか。私は正直に告白すると、牧師になるまでこの箇所はあまり気に留めたことがありませんでした。というのは、パンの数と残りを集めた籠の数が違うだけで、他の部分は「五千人の給食」の物語とほぼ重複する内容でしたから、あまり読む必要はないと思っていたのです。しかも有名な「五千人の給食」が四つの福音書すべてに記載され、かつその情景描写に様々な違いがあり豊かなのに比べて、「四千人の給食」はマタイとマルコにしか記載されていない上、内容もほぼ同一です。ですからこの物語自体の印象が薄いというか、なんかダブっている聖書個所という感じがあったわけです。もしかして、聖書を書き写していた写本生がうっかり間違えて書いてしまってそのまま残ったんじゃないかと思うこともありました。
神学者の中には、これらの物語は一つの出来事であったが二つの形で記録されたのだと言う人もいます。そんな風に言われると、やっぱりこの箇所はあまり意味がないものなのかとも思ってしまいます。しかし、それでも聖書に残っているわけですから、今日この箇所をしっかり読んでいきたいと思うのです。そうすると、驚くことなかれ、やはりこの箇所が伝えようとしている福音に出会うことができるのです。
まず文脈を確認していきましょう。先週の聖書箇所で、イエスは異邦人の土地であるデカポリス地方に来ていました。そこから動いたという記述がありませんので、この出来事は、異邦人の土地で起きたパンの出来事だと言えるでしょう。ちなみに五千人の給食の起きた場所については福音書によって証言が異なるのですが、ベトサイダあるいはカファルナウムという町の近くの寂しいところですから、ガリラヤ湖北岸部のユダヤ人の住む地域であります。つまり、ここにいは、ユダヤ人への給食と異邦人への給食の違いというものが浮かび上がってきます。
先週の箇所で「耳の聞こえず舌のもつれた人を癒したこと」でイエスのことが噂になっていたのでしょう。人々は群衆となってイエスのところに集まっていました。しかも驚くことに、彼らはイエスのところに押し寄せてすでに三日経っていました。これはもう「群衆がかわいそうだ」というレベルのことではありません。三日も空腹のままでいたのか、それとも最初はパンがあったのだけど、三日目にはすっからかんになってしまったのかも不明です。もし既に三日も食べていないと言うことであれば、帰りがけに倒れるどころか、もうその場で倒れてしまう人がいてもおかしくないと思います。
ちなみに、色々な情報の違いはあるのですが、人間は食べ物が無くても3週間くらいは生きて行くことが可能だそうですし、断食も3日くらいは一般的に推奨されるレベルだということです。むしろそれくらい断食することで腸内環境を整え、老廃物を出し、むしろ健康的になり集中力も高めるというファスティングという考え方もあるということです。しかしもちろん聖書はそんなことを言おうとしているわけではありません。断食はそれなりに覚悟がある人ならウエルカムかもしれませんが、集団の強制的な断食はなかなか過酷であり、望まない人にとっては地獄でしかありません。彼らは断食をするためにイエスのところに行ったわけではなく、やはり救いを求めて集まって来たのだと思うのです。ですから、彼らにとって食べ物がないことは非常に緊迫した危険が迫っていたということです。
イエスはそんな彼らを心配し、食べ物を用意するように言います。弟子たちは再びこう言います。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」。みなさんは、この弟子たちが不信仰だと思われるでしょうか。確かに、「いやいや、五千人の給食の奇跡を見たでしょう。何故信じないのか」と言えるかもしれません。しかし、私には弟子たちの反応はむしろ正常だと思います。自分たちが招いたわけでもないのに人々が集まって来て、しかもその人たちのお腹を満たせなんて、無理なわけです。しかも三日食べ物がないわけですから、なんかあればもうすでに食べ尽くしてしまっている状況のはずです。ですから、聖書に繰り返し「食べ物がない」と書かれているのです。弟子たちさえ空腹で心が落ち着いていなかった、イライラしてしまいやすい状況があったということが分かります。
ところが、イエスさまは言います。「パンはいくつあるのか」。弟子たちは答えます。「七つあります」。「あるんかーい!」という突っ込みの声が出て来そうですが、彼らにしてみたら、やっぱり四千人に対してはこれっぽっち何の意味もない、だから敢えて言いませんでした程度のものだったのでしょう。
しかし、イエス・キリストはその程度の無力とも思えるものを用いて、五千人の給食と同様の奇跡を起こされるのです。イエスさまはそれを用いて、感謝の祈りを唱えてこれを割き、人々に配られました。また小さな魚がすこしあったので、賛美の祈りを唱えて群衆に配りました。「五つのパンと二匹の魚」ならぬ「七つのパンと小さな魚少し」です。しかし人々はそれを食べて満腹しただけでなく、残ったパンくずを集めると七つの籠になった、というのです。
さて、私たちはやはり考えなくてはなりません。ここではいったい何が語られようとしているのでしょうか。私は、やはりこの細部の違いが非常に大切なのだと思います。七つのパンと七つの籠とはいったい何を現わしているのでしょうか。ちなみに、「五千人の給食」では五つのパンと二匹の魚が、「十二の籠」いっぱいに集まりました。
これは聖書の中でとても象徴的な数字です。つまり12というのはイスラエル十二部族の象徴です。「五千人の給食」が何を語っているかというと、そこに集った群衆は律法を守ることもできなかった人々、ファリサイ派や律法学者からすれば「罪びと」と見做されていた人々であり、どこにも助けを求めることができずイエスのところにやってきた「飼い主のいない羊」のような有様の人々でした。しかしイエスは彼らに糧を与え、そして余ったものが12の籠。つまり彼らは見捨てられてしまったのではなく、彼らもまたイスラエルの民であるのだ、神の民であるのだということを語っているのです。
これと同様に七つのパンと七つの籠にはやはり意味があるのだと思います。聖書における「七」とは、象徴的に「完全、完成」を表しています。キリスト教の数字には意味があると言われますが、3は神の世界、4は四方世界、神が創造された自然全てを意味していると言われますので、神の世界と被造世界を合わせた数が、7という完成体ということです。さらにいえば7日で神は天地創造の仕事を完成され、第7の日を祝福し聖別されたように、すべての人が憩いを得て休むことができる日、つまりいのちの満たしというものを得ることができる意味が7という数字には込められているのではないかと思います。
ちなみに、7つの籠の「籠」はスピュリスと言う言葉で、12の籠はコフィノスという言葉です。コフィノスが食料を運ぶのに用いた大きな枝編みの籠であったのに比べて、スピリュスとは、食料を入れる布の籠であり、人が入れるほど大きいものであったそうです。
つまりこの箇所が語ろうとしている福音は、救いの出来事はユダヤ人から始まり、異邦人の救いの出来事へと広がっていった。つまり、その救いとは、誰も差別され排除されることのない居場所であり、すべてのものの命が憩うことができる、包み込まれる包容力のある交わりであり、それぞれのいのちが尊ばれる社会、関係性、これがイエス・キリストの神の国の完成であるということなのです。
パン、あるいはパンくずと言う言葉を私たちは最近ずっと耳にしています。それは「食卓の下の子犬も、子どものパンくずはいただきます」(マルコ7:28)。という異邦人の女性の言葉に象徴的でした。ここで分かち合われたパン・パンくずとは、神の祝福であり、神の恵みであり、神の憐れみです。それがこのイエス・キリストの出会いの出来事から広がって行ったことなのです。まさに私たちはイエス・キリストの信仰によって救われるのです。
先ほど、この四千人の給食の物語は、マタイとマルコにはあるけれど、ルカ、ヨハネにはないと言いました。ルカ福音書は元々異邦人に開かれている福音書ですから、敢えて採用する必要がなかったのではないかと思います。また、私はイエスが4千人の異邦人と共にいてパンがなくなった三日間というのは、イエス・キリストが十字架で殺され、三日目に復活したということと重なるのではないかと思うのです。つまり、失われたように見える福音の復活です。
わたしたちは、いまこの物語をどのように受け取ればよいのでしょうか。説教の冒頭で申し上げましたが、私たちは今、イエス・キリストの十字架への歩みを思い起こすレントの時期を歩んでいます。この時、私たちはイエス・キリストの愛を黙想し、そしてその思いを改めて受け取ることが大切です。
イエスはその最後の晩餐において、パンを取り、賛美の祈りを唱えた後これを割き、「取りなさい。これは私の体である」と言われ、弟子たちに渡されました。杯をも同じようにして渡されました。これはユダヤ人であり12弟子である彼らにだけ与えられたものなのでしょうか。異邦人、イエスを信じていない人々には広がっていないものなのでしょうか。恐らくはそうではないでしょう。むしろ今日の箇所から考えるならば、これは広がっていく必要のあるものです。イエス・キリストの愛は限定されたものではありませんし、すべての者に拡がっていくものなのです。失われたものを回復させ、復活の命を与えるものであるのです。
それではわたしたちはこの愛を受けたものとしてどのように歩んでいくのでしょうか。イエス・キリストは言われます。「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネ15:17)。私たちの生きている世界は対立と争いが顕著に見える社会です。なかなか踏み越えることは出来ない立場、関係性があります。しかしイエス・キリストはその境を自ら越え、違う人々と出会って行きました。その最初にはイエス・キリスト自身、変えられる出会いがあったということに心を留めたいと思います。方向転換、悔い改め。それは新しい自分、違う人々との出会いを促します。それは自分にとっては違和感のある、痛みの伴うことかもしれません。しかしそのような違いを持った方々と共に生きれる社会こそ、神が創造された完成された世界なのではないかと思います。
イエス・キリストの歩みに倣うならば、わたしたちもまた同じように、自分自身が変えられていくことを恐れずに、異なる方々と出会って行くということ、新しい地に向かっていくと言うことが求められているのではないでしょうか。共にお祈りしましょう。