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2024年3月17日説教全文「 新しい歩みを支える神の言葉」牧師:西脇慎一

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〇イザヤ書 40章27~31節

ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが  主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

〇説教「 新しい歩みを支える神の言葉 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、主の豊かな祝福と恵みに満ちた日々を過ごされますようにお祈りしています。
わたしたちは現在、レント(受難節)というイエス・キリストの十字架への歩みを黙想する時期を過ごしています。ヨハネ福音書によるとイエス・キリストは十字架に向かう前、弟子たちに言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:23-24)。マルコ福音書では、こう言われています。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである」(マルコ10:45)。イエス・キリストの十字架、それは私たちの罪の赦しのためであり、私たちが永遠の命を得るためであります。私たちはこの時、改めてこのイエス・キリストの信仰と愛に心を留め、黙想して参りましょう。

本日の聖書個所に入ります。本日の礼拝は「卒業礼拝」として守っていますので、通常のマルコ福音書の文脈を離れて、イザヤ書の言葉からお話をします。とは言いましても、今日の聖書個所は解釈をお伝えするというよりも、むしろこのまま受け止めることで十分私たちの力になる言葉だと思います。「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。わたしは今日この言葉を、卒業礼拝に出席されているいないを問わず、私たちそれぞれの家族の中で保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、専修学校、専門学校、高等専門学校、短大、大学、大学院を卒業・卒園された方々に贈ると共に、卒業生だけではなく、新しい年度を歩み始める皆さまお一人一人にお伝えしたいと思います。

わたしたちは新しい歩みを始めるとき、おおよそ心の半分は期待、残りの半分は不安があると思います。新しい歩みとは、これまでとは異なる歩みをして行くことであるからです。そこには新しい学校、あるいは新しい職場、新しい人々との出会いがあります。中には別の新しい土地へ移られる方もおられます。そこには、新しい生活の始まり、新しい文化との出会いがあります。そこで自分がどのようになっていくのか、心はやはりワクワク感もあると思いますが、大丈夫かな、などとけっこうドキドキしているのではないでしょうか。もちろん、私たちの心にはこうなったらよいという希望や理想があり、そのためのプランなども頭の中にあるでしょう。
しかし残念ながら、ここで一つお伝えしておかなければいけないことがあります。それは、人生は必ずしも自分たちが思い描くようにいくとは限らないものであるということです。
今日お集まりの方々の中にも、もしかして自分が願ったようにはうまくいかず、今この時を迎えられた方もおられるかもしれません。このように言うと、卒業生に贈る言葉としては不適切な言葉のように思えるかもしれません。しかし、残念ながらそれが人生なのです。

でも、これはなにも必ずしもネガティブなことを言っているわけではありません。むしろポジティブな側面もあるのです。何故ならば、自分の想像、あるいは自分の世界観というものは、全て新しい出会いの中で変えられていくものであるからです。自分の思い通りに行くことが必ずしも良いことではなく、新しい出会いの中でさらに良い道が見いだされることもあるのです。時にそこには挫折のようなものがあるかもしれません。しかし、それも捉え方を変えてみれば一つの新しい出会いの出来事であります。箴言にはこのような言葉もあります。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(3:6-7)。これは神を信じればすべてがうまくいくという意味の言葉ではありません。むしろ私たちの道筋は常に曲がりくねっていたり、上り坂下り坂があったり、でこぼこしている道であるということです。しかし、主を覚えて歩むときに、そのときにはわからないかもしれませんが、振り返ってみたらその道筋はまっすぐにされていると言うことがあるのです。この問題はそれ自体をネガティブに捉えるのではなくポジティブに受け止めていくということです。是非そういうことも含めて皆さんには新しい歩みを楽しんでほしいと思うのです。
そのために、今日お話ししたいことが、今日の聖書の箇所です。このイザヤの預言が私たちに伝えようとしていることは、端的に言うと私たちの視線はどこに向かっているのかと言うことです。私たちは希望が満ちているとき、心が明るいときは、自然と上を向くことができます。しかし悩み事や困難、心配事やうまくいかないことがある時、視線は低くなり俯きがちになり、狭い視野の中の事しか考えられなくなります。そんなときこそ「上を向いて歩こう。涙がこぼれないように」という歌にある様に、顔をあげて視線を広い世界に向けていきたいと思うのですが、それができないからなかなか困りものです。
実は、今日のイザヤ書の預言は、イスラエルの人々にとって国の滅亡という最悪の出来事が起きた後に語られた神の言葉です。バビロン捕囚という出来事は、イスラエルという国を滅ぼし、国の重要人物がバビロンに連行されてしまう事件でした。

イスラエルの人々にとって最も重大だったことは、これが神の裁きによって起きたことだと理解されたことです。つまり、自分たちが神の言葉に聞き従わず、自分たちの思うように自己中心的に生きてきたから、自分が悪かったから裁きが下り、滅びが起きたということです。確かに旧約聖書を読んでみると、それまでも神が預言者を通して、神に立ち返れ、罪を悔い改めよと再三にわたって語り掛けています。しかしながら、人は神の言葉に聞き従わないわけです。人の愚かさ、罪深さと言ってしまえばそれまでと言えますが、結果としてバビロン捕囚が起きてしまいました。それでは、じゃあこれがやはり神の天罰であったかと言うと、そういうわけでもありません。何故ならば、今日の箇所でイザヤが語っている言葉にあるように、神は決して罪を犯した人を見捨てて手放したわけではないからです。もちろん私たちは嘆きます。27節にある通りです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と」。私たちは自分の思い通りにならない時には、嘆くのです。しかし28節以降にある言葉は、むしろ神はあなたがたが滅びのような出来事に至ってしまったとしても、変わらずに希望を与え続けていると言うことなのです。

仮に皆さんが神さまであるとしたら、自分の言うことを聴こうともせず、違うことばかりする人に対してどのように思われるでしょうか。普通なら「おまえたちなんかもう知らん」という風にしてしまってもおかしくないのではないかと思うのです。しかし、神は違うのです。人が決定的に滅びのようになってしまったとしても、「お前たちが悪いことをしたからだ。その報いだ。もう知らん」。とは言われずに、見捨てることも見限ることもなく、反対に今度は希望と解放の約束を語り始めるのです。

もちろん、罪を犯し滅びる前に止められたら止めたかったことでしょう。しかし人はそんな言葉では止まることがない者です。頭ではだめだと思っていても心は弱く、ついついいつものように行動してしまうのです。しかし、神はそんな人間を見捨てずに、たとえ滅びのように思える中でも、神は人々に共に寄り添おうとされるのです。そのためにイエス・キリストをこの世に送られた。これこそが神が神である証拠であり、神が希望であり、愛である証拠であるのです。
ですからわたしたちは、どんな時も神の伴いがあります。神の見守りがあります。例え私たちがそれを受け止めきれないような中にあっても、神は共にいてくださるのです。そして、その神の伴いを信じることは、まさに「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。とあるように、私たちがどんな状態に見舞われたにせよ、希望の言葉、わたしたちを支える力になっていくのです。

わたしたちは、新しい土地に出ていく時に、頼れるものは基本的には自分自身ということになります。しかし時に自分たちがこれまで積み上げてきた自信や実績、常識が通用しない状況、まさに地震のように私たちの土台が揺らぎ崩れるということがあるのです。私たちはそういう出来事に直面した時、何を自分の支えにするでしょうか。
実はわたしにとって一番大きな土台が揺らぐ出来事は、私が高校2年生に起きた父親の会社の倒産でした。内装会社を経営していましたが、バブル崩壊のあおりもあり、多額の負債を抱えて倒産したのです。父はクリスチャンですので、私も幼い時から教会に通っていました。こう思いました。神さまはなんで父の会社を守ってくれなかったのだろうか。神さまを信じていれば恵みと祝福をお与えくださるのではなかったのか?信者を守らない神なんて信じる意味がないと思ったわけです。しかし、当の両親は信仰を捨てることをせず、むしろその信仰に支えられているように思えました。こういう風に言うと、今のご時世少々ヤバいように感じられるかもしれません。しかし、私はその姿は悲愴的ではなく、投げやりのようには思えませんでした。むしろ、希望に生かされている姿だったのです。
私はそれまで信仰と言うのは、信じれば守られ祝福されるご利益的なものだと思っていました。だから信じていれば守られるはずだ、祝福がある、成功があると思っていたのです。しかしその体験を通して、信仰というものはむしろ絶望のどん底に落ちた時にこそ輝く希望だということが分かったのです。実はわたしはそれまで神の存在はなんとなくわかるまでも、イエス・キリストの姿はよくわかりませんでした。自分が罪びとであるかともわかっていなかったからです。そういう人がいるのだな、でも自分には関わりがあるようには思えない偉人くらいにしか思えなかったのです。しかしそういう体験を通してイエス・キリストがリアルになってきました。イエスは順風満帆に行っている者ではなく、悩み苦しみの中にいる者たちのところに行って、彼らを慰められました。そして神は決して私のことを見捨てたのではなく、むしろ愛している証拠としてイエスを与えられたと言うことです。私は一人ではない。神、我らと共におられる。これは絶対に消え失せない希望であると思ったのです。

このように実に聖書の言葉というものは、困難な状況になったときに私たちの心を守り、支え強くするものです。ですから私は今日選んだ聖書の言葉を皆さまに贈り、主に望みを置くことの大切さを伝えたいと思ったのです。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。これはまさに神の言葉に希望があることを示しています。神を信じること、それは希望であり、私たちの力に直結するのです。残念ながら、私たちのこれからの歩みも、ずっと順調にうまくいくわけではないでしょう。世の中なにが起きるかわかりません。恐らくは思ってもみないことも起こるでしょう。しかし、そんな時こそ、神さまが共にいるということを思い出していただきたいと思うのです。

今日は説教の最後に一曲歌わせていただきたいと思います。Lyreというグループの「だから忘れないで」という讃美歌です。

これから先、色々あると思う。泣きたいこともあると思う。
耐えられなくて、何もできなくて、逃げ出したくなるかもしれない。
だけど、忘れないでいて。
あなたを決して離すことのないイエスさまが共におられることを。
私たちが生きて行く限り、喜びばかりじゃないだろうけど、苦しみの時に祈り求めよう。
命まで捨ててあなたを愛したイエスさまは今も生きている。

皆さまに神さまの祝福と守りをお祈りします。

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