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2024年5月26日説教全文「永遠の命はどこに?」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 10章17~27節

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。

〇説教「 永遠の命はどこに? 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。

先週の礼拝は、ペンテコステという聖霊降臨の出来事を覚える礼拝でした。ペンテコステとは、たんに聖霊の降臨の出来事だけではなく、復活したイエス・キリストの伴い、そしてキリストの昇天を見守ること。つまりキリストが再びやって来られるという約束の言葉を心に留めること、それらの出来事の全てを体験していた弟子たちに起きた新たなる福音宣教開始の出来事でした。キリスト教の暦ではこの日から12月の待降節(アドベント)までの日々を「三位一体節」として覚え守っています。これはまさに弟子たちの新しい歩みが、父なる神、子なるキリスト、聖霊の守り導きの中で始まっていったように、私たちにも三位一体の神が共におられる中で、今の時を歩んでいるということを覚える季節であります。つまり神に創造された私たちは、イエス・キリストの福音に生かされ、聖霊の導きによって今の時を生き、信仰生活を過ごすのです。今日わたしたちは、このことを、改めて心に留めていきたいと思います。
今日はマルコによる福音書10章17-27節の箇所からイエス・キリストの福音を受け取って参りましょう。今日の箇所のテーマは「永遠の命」です。非常に気になるテーマではありますが、実はイエスが自分からこのテーマについて語り始めたわけではなく、先ほどお読みいただいてお分かりのように、ある男がイエスのもとに走りよって、ひざまずいて尋ねることから始まっています。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をしたらよいでしょうか」。唐突に思えるこの質問ですが、この男性にとっては、イエスが旅に出かける前のチャンス、しかもこれはすでにエルサレムへの旅路の途中でありましたから、出会うことが困難になるまさに一期一会の出会いであり、彼が最も気にしていた事柄を尋ねる重要な機会であったことが伝わってきます。さて、それでは彼はこの「永遠の命」をどのように理解していたのでしょうか。あるいはどうしたら受け継ぐことができると思っていたのでしょうか。
皆さんは「永遠の命」と聞くと、どういうものだと考えますか?多分、私たちが考える「永遠の命」というものは恐らく「不老不死」、この肉体、この精神状態のままで老いることも死ぬこともなく、永遠の日々を過ごすことなのではないかと思います。実際に時の権力者や大金持ちがそのような永遠の命を得ようとしたお話しが残っています。例えば中国の秦の始皇帝は、初めて中国を統一を果たし、あらゆる富と権力を手に入れました。そんな彼でもどうしようもなかったものが、老いと死でした。彼はそれを克服するために、徐福という人物の協力を得て不老不死の薬を探し始めました。莫大な資金を使って薬は探されましたが、結局のところ、不老不死になることはできなかったどころか、不老不死の薬と信じて飲んだ「水銀」によって死ぬことになりました。そこまでして「死の恐れ」から逃れようとして永遠の命を渇望する人がいる一方、自分が得てきた名声、権力、財産というものを手放したくない、これを永続的に続けたいという欲望によって、永遠の命を得ようとしていた人もいると思います。

さて、そういう命があるとしたら皆さんはどう思うでしょうか。私も欲しいと思うでしょうか?物理に反する事柄ではありますが、超越的な存在になる不老不死。非常に魅惑的な言葉だと思います。人によっては、それが手に入れられるなら、悪魔に魂を売ってもかまわないという人が出てもおかしくないことではないかと思います。

一方で最近は、人生の生きづらさに絶望をして、永遠に生きるどころか早く神の国に呼ばれたいと思っている人々もおられるようです。最近ネット漫画で人気のあるジャンルになっているのが、「転生シリーズ」と呼ばれるものだそうです。転生とは生まれ変わりを意味する言葉ですが、漫画の世界では一度目の人生で得た能力あるいは情報を持ちながら、二度目の人生を生き直すというものです。そうすると生まれた時から他の人に比べて能力も高く、起きる出来事もやり直しなので、人生を楽勝モードで生きていくようなお話です。ファンタジーの世界のお話しではありますが、そういうものが流行っていくその背景には、今を生きている若い世代の人々の生きづらい現実、状況があります。生まれついたときにすべてが決まっている。そしてそれは自分個人の力では乗り越えることが難しいハードル。つまり「親ガチャ」と呼ばれることがある格差が固定化されているかのように思われる時代に、自分のリアルな人生には希望も持てないからこそ、「何でこうなったんだろう。本当はこうなりたかったのに」というような思いが、願望として空想の世界が広がっていくのでしょう。しかし、その願望の背景には、確かに自分を自分らしく生きていきたいという希望が込められています。

今日の聖書に出てくる男性は何故永遠の命を受け継ごうとしていたのか、その理由は明らかではありません。しかし彼の言い分を見るときに、彼の人生というものは、恐らくきわめて恵まれていた環境にあったのだと思います。「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいか」。イエスは十戒を引用して答えます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」。これに対し、彼はこう答えています。「先生、そういうことは皆、子どもの時から守ってきました」。この答えは、彼が恵まれた環境の中で、良い教育を受けて育ってきたということを示しています。そして22節によるならば、彼はたくさんの財産を持っていた人であったこともわかります。

言い換えるならば、彼は永遠の命を受け継ぐにふさわしい人物がいるとしたら、それは自分だと思っていたのかもしれません。永遠の命は神さまからいただくものですから、基本的に大切にされていた神の教えというものも子どもの時からクリアしていた。そして神さまの有り余る祝福も受けている。そしてまだ足りないものがあったとしても、自分だったら超えていけるということを信じていたのです。つまり、彼は自分の行いや生き方が神に認められて永遠の命が与えられることを信じていたと言うことです。
しかしながらそれはその一方で、彼は律法を守ることができない人々のこと、あるいは守ろうとしているけれど、守ることができない環境に置かれている人に対しては、やはり差別的な意識を持っていたということが隠せていません。もちろんおそらく彼は、これまでも慈善活動みたいなこと、およそ人々から賞賛されるに値するようなことは行ってきたことでしょう、非の打ち所がないように歩んできたと思います。そういう意味では、彼は極めて優等生であったと言えるかもしれません。しかし、彼はイエスから「行って、持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われたときに、悲しんで立ち去ったのです。それはどういうことかというと、彼は自分自身の全てを差し出すまでには思いは至っていなかったと言うことです。

それはつまり、いくら慈善活動をしていたとしても、いくら品行方正で色々な評価を受けていたとしても、結局のところ、それは、彼自身の徳が周りの人々の目に積みあげられるが目的であり、相手のために捧げること、あるいは相手が本当に求めていることを行っていくということとは差があったと言うことではないでしょうか。
つまり彼が求めていた永遠の命というものは、彼が自分自身で持っているものを何一つ失うことがない中で、これから先も何一つ不自由のない恵まれた環境の中で、自分が生きやすい環境の中で永遠に生きていたいという願望であったのではないかと思うのです。だから彼がイエスの元を立ち去ったのは、イエスの言う通りにしたら、彼が思い描いていた理想的な環境を壊すことになってしまうことなのです。イエスは、そういう彼のことを察したのでしょうか。或いは表面的には正しい彼に本質的な部分で立ち返ってほしかったということがあったのかもしれません。

イエスは何故永遠の命を受け継ぐことについて、十戒を引用したのでしょうか。この教えは、十戒の内、後半の6項目です。十戒とは10の教えですが、前半の4つは神と人との契約であり、後半は人と人との契約であると言われています。つまり、これは集団生活をしていく中で人々との間に平和を得て生きていくように、という教えです。しかし面白いことがあります。本来の十戒では、「父母を敬え」という教えは5つ目に来ているのですが、イエスの引用では最後に置かれています。おそらく言いたいことは、彼が今持っている環境というものが親から受け継いだものであり、親が願っていることであるとも思いますが、それは大切なことの最も最後の事柄だ。むしろ大切なのは、そのほかの人々の間で平和を得ていくと言うことなのではないかと思うのです。

イエスは立ち去っていく彼を見ながら、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。と言います。これに弟子たちが驚いてこう言います。「それでは、だれが救われるのだろうか」この弟子たちの反応は、神の国に入る人というのは正しい人、財力があり社会的な名声を持っている人、という思いがあったことがわかります。或いは、弟子たちもイエス・キリストに従って神の国に入ったらそういう名誉的なものがが約束されていると思っていたのかもしれません。

イエスは言います。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。これは大変厳しい言葉のように聞こえます。こんなことを言われたら付いていける人なんていなくなってしまうかもしれません。そしてこれが「永遠の命をいただくこと」なのだとしたら、弟子たちが考えていたことと真逆のことだと思います。

しかし、イエスの言葉からは、永遠の命というものが、私たちが人生で獲得した様々な財産、名声、権力によって得られるものではないと言うことがわかります。もちろん、お金のあることが悪いわけではありません。永遠の命とは不老不死でもないし、特別な人が受け継げるものでもないのだ。むしろ、自分たちの持っているものが必要ない世界、そういうものにとらわれない世界、神のみに生かされていくときに永遠の命が得られると言っているように思います。「献げられること、与えられることではなく、献げることから始まっていく、世々にわたって神と共に生きていく永遠の命のことなのです。

神と共に生きる永遠の命とは、自分の楽しみに生きる命ではありません。むしろ、神の御心をなして生きる命であるのです。それは、イエスの言葉にある通り、自分が得るもの、自分の力で受け継ぐものではなく、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。とある通り、神にのみ希望を置いて生きていくのです。

私たちは、「これこれこういうことをすれば神の国に入れる。永遠の命がもらえる」と考えてしまいがちです。しかし永遠の命とは、神と共に生きる命なのです。私たちは神の思いを超えて「自分の神像」を作ってしまうことはないでしょうか。或いは神の教えの真理というものを考えず、伝えられた教えを、そのままにやることを考えることはないでしょうか。

恐らく、そうではいなのでしょう。私たちがしていくことではなく、神が願うことを祈り求めて歩んでいくことが永遠の命に至ることなのです。ルカによる福音書には「良きサマリア人」の譬えがありますが、それも永遠の命を受け継ぎたいと言う人の質問から始まっています。今日は詳しくは触れませんが、簡単に言うと、私たちが与えられたように、わたしたちもまた与えていく、愛していくことが、永遠の命に繋がるのではないでしょうか。

キリスト教の考え方では、人生は一度きりです。再びやり直すことはできませんし、不老不死に生きることでもありません。一度きりの有限なる人生です。しかし、それだからこそ美しいのです。神に委ね、神の御心を求めて歩みましょう。そのときに、私たちに永遠の命が約束されているのですから。

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