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2024年7月7日説教全文「神は約束を決して忘れない」牧師:西脇慎一

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〇ハガイ書 2章1~9節

七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。お前たち、残った者のうち/誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度/天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし/諸国のすべての民の財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと/万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると/万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と/万軍の主は言われる。

〇説教「 神は約束を決して忘れない 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。

本日の礼拝は、先週の礼拝に引き続き、神学校週間礼拝として守っています。先ほど西南学院大学の神学生紹介ビデオを見ましたが、神学生の一人一人が現在どのような思いで神学校生活を過ごしているかということを一言ずつお話しくださいました。残念ながらビデオが短いため、一人一人が何故、神学校へ行こうと思ったのかという話は聞くことができませんでした。献身、つまり神さまに身を捧げて歩むことは、別に牧師に限ったことではありません。信仰者であれば全て神さまに従って生きるからです。しかし献身を志す人々にはそれぞれ、共通して神さまとの出会いが与えられ、神さまに従って歩んでいきたいと思う出来事との出会いがあります。今日の礼拝では、通常の通読の箇所から離れ、私がいわゆる神さまへの献身を志したときのことをお話しさせていただきたいと思います。

今日選ばせていただいた聖書の言葉は、ハガイ書です。みなさんはハガイ書を読んだことがあるでしょうか。旧約聖書の小預言書の一つ、しかも旧約聖書の最後から三つ目に位置しています。恐らく聖書通読でもしない限りはあまり開くことがない、一度も読んだことがない人もおられると思うほどマイナーな箇所です。皆さんそれぞれに好きな聖書個所をお持ちだと思いますが、私はこれまでハガイ書が一番好きだという人と出会ったことはありません。でも、実はこの箇所は私にとっては献身を志す時、これから自分がどのように歩んで行けばよいのかと祈り求めていた時に示された言葉が、実は今日のハガイ書の言葉なのです。

私が最初に神さまに仕えていきたいと思った時は、私が18歳くらいの頃、ルーテル学院大学に入学する時期でした。わたしは元々両親が教会に通うクリスチャンホーム育ちですが、牧師になりたいなんて一度も思ったことはありませんでした。なれるとも思っていませんでした。わたしにとって牧師とは、礼拝堂の前で難しいお話を長々する人であって、幼かった私にとっては親しみがないと言うか、距離がある存在でした。そもそも牧師って毎日何をしているのかもわかりませんでした。ですので、「無理」という以前にあまり魅力的にも映りませんでした。しかし私は教会という交わりは好きでした。聖書のこともあまりわかりませんでしたが、教会はわたしにとって居場所の一つだったのです。

私が神の存在を初めて自分の事柄として考えたのは、高校生の時に起きた父親の会社の倒産を通してです。つまり、クリスチャンの親の会社が倒産することによって、これまで教えられてきた神の存在を疑ったわけです。神さまを信じれば守られる。祝福される。成功する。そういう安易でシンプルな神認識が根底から覆される出来事でした。神を信じていても苦しいことはある。当たり前のことなのですが、そういうイメージが私にはありませんでした。しかし実際に私たちが困難に陥いる中で、しかしながら信仰に希望を見出していた両親の姿を通して、あぁ、神という存在は、苦しい状況の時こそ必要だと感じたわけです。聖書を読み直してみれば、イエス・キリストが出会っていった方々も苦しい状況にいる人でしたし、そういう人々の支えになったからこそ、イエスは神の子と呼ばれるようになったと思いました。わたしはその時初めてイエスが救い主であるということが分かりました。そういう出会いがあり、私は神を信じることを大切さを感じましたし、信仰という者が実際に生きる上で力になることだと思いました。ですから、私は神さまを信じることの重要さを感じましたし、神さまの福音を伝えていきたいと思いました。

しかし献身とはいっても、牧師と言うよりは違う形で仕えたい、当時社会的に心の悩みの問題が色々なところで出ていましたから、クリスチャンカウンセラーになりたいと思い、ルーテル学院大学に入学したのです。しかし、その大学卒業を間近に控えた時に、ルーテル派の神学生や様々な教会との出会いを通して、私は再びどういう形で神さまに仕えるかということを真剣に祈り求めることになりました。
その時の私の祈りはこういうものでした。「神さま、私は神さまに仕えていきたいと思います。しかしどのような形で仕えればよいのか、わかりません。神さま、どうぞあなたの道を示してください。その道を教えてくれたら、私はその道に従って行きます」というものでした。エレミヤ書29章にはこうあります。「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めていると主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」という言葉があるように、私は神さまの計画があると思っていたので、それを知りたい、教えてくださいと願ったわけです。しかしながら、神さまはそういう私の願いには答えてくださいませんでした。

ですので、私は色々と迷走しました。キリスト教には色々な考え方をしている教派がありますが、「預言の賜物を持っている」と噂される人のところに出かけて行って預言してもらったこともあります。ある人は聖書を読みなさい。そうしたら神さまがメッセージを与えてくださるよと言いました。なので私は、無我夢中に聖書を読みましたし、「神さま、み言葉を与えてください」と言いながら聖書をパッと開いて、そこから神さまが示される言葉みたいなものを探しました。

でも神さまは、この祈りには答えてくださいませんでした。恐らく「献身」とは言っても、私は不信仰者でして、なんもかんも委ねていくということができませんでした。今思えば神さまが立てた計画に進めばうまくいくのではないかという推察があり、歩み出すべき根拠が欲しかったのだと思います。なので、神さまが示す最善な道が何かを知ろうと思ったのです。
でも、ある時、それこそふとした時にその思いが変わりました。神さまは、私が思っていたような一本の間違いのない歩みをして行くことを願っているわけではない。むしろ神は私たちが自分で神を求めて献げて行く道を祝福してくださる方だということです。簡単に言えば私は神の操り人形になろうとしたのですが、神が願っているのはそうではなく、私たちが自由に歩み出していくことだったと感じたのです。
そうした時にこのハガイ書の言葉と出会いました。わたしがハガイ書を好きな理由は、今お読みした聖書個所のなかにいるように、「勇気を出せ、働け、私が共にいる。私はあなたを見捨てない。私の約束は今も生きている」。と言うインパクトのある言葉が、私に非常に力強い言葉として響き、心に残り続けたからです。
神という存在に対する私たちの呼びかけの言葉、いわゆる信仰告白は、神が自分自身に対してどのような形で影響を与えたかということによって変わるものだと思います。例えば、神は愛してくださる方という告白をする方もおられると思いますし、守り神、癒し主、慰め主という形で表されますが、私にとっては導き手です。それは私が歩むべき道に向かっていくことを躊躇していた時に、不安に思う必要はない、私が共にいるのだから歩み出してみなさいという導きがこの言葉によって与えられたからです。「勇気を出しなさい。働きなさい」。何をしたらよいのでしょうか。それは今私たちがすべきと心に与えられていることを行っていくことから神がその歩みを祝福してくださると言うことなのです。そしてこの言葉は、出エジプトのモーセの後継者となったヨシュアに語られた「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神主が共にいる」。と同じメッセージとして私に響いたのです。そして目の前の出来事に忠実に従って行った結果、今の私があります。その背後には多くの方々が祈り支え励まし、時に諭しをいただくことがありました。このような出会いの出来事を通して、神さまは導いてくださっています。

今日私たちが共にこの言葉を受け取りたいのは、神が私たち一人一人に備えておられる計画に向かって、歩み出していきたいからなのです。実は、ハガイ書にはハガイが告げた神の言葉しか記されていません。どういう文脈の中で語られたのかということはハガイ書ではなく、旧約聖書エズラ記の中にあります。

聖書の歴史の話をすると、少し眠くなってしまう方もおられるかもしれませんが、大切なことなので少しだけ触れたいと思います。エズラ記は北イスラエル王国と南ユダ王国が滅び、約70年に及ぶバビロン捕囚から帰ってきた時期のお話です。ユダヤを占領したバビロニアはその後、ペルシャ帝国によって滅ぼされますが、その時にバビロンに強制移住させられていた人々に解放令が出され、自分たちの国に帰ることができるようになりました。これはユダヤの人々にとっては、喜びの時であり、自由を得た時であり、ついに神の約束が実現した時でありました。ですから人々は、神が、その解放を導いたペルシャ帝国のキュロスという王さまに働きかけたと信じ、エズラ記の冒頭にはそのように記しています。
解放された人々は、神殿を再建する希望を持ってエルサレムに帰ってきました。彼らが神殿再建を願った理由は、自分たちが神の言葉から離れて行ってしまったことでバビロン捕囚という悪夢の出来事が起きたという反省に立ち、悔い改めて神を信じて生きる為に神殿が必要だったからです。ところがなんとエルサレムに残っていた人々の妨害工作によって、その工事は中断に追いやられてしまいました。その妨害工作とは賢いものでして、ペルシャ帝国の行政に「ユダヤ人たちは独自の神を信じて王様のいうことを聞かない人々だから、神殿なんて作らせたら大変だ」と訴え出るというものでした。ものの見事にその訴えは成功し、神殿再建の工事はストップしてしまいました。その期間は何と15年にも及びました。この15年は、意気揚々と帰ってきた人々を再び絶望のどん底に突き落とすのに十分な時間でした。解放の希望が潰えてしまった。そうなってくると彼らはエルサレムに戻ってきた理由すら見失い、腐るようになって行きます。本当はそうではないのです。神殿は象徴であり、神の守りは言葉の中にあるのですから。でも、希望を失った人々は次第に神から離れ、世間に染まっていく。そのような状況がありました。しかしそこに現れたのがハガイであったのです。

「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと/主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると/万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき/わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない」。

ゼルバベルとは、ダビデ王家の血筋を引いたユダヤ人のリーダーであり、ヨシュアは大祭司です。そしてユダの民全体に「勇気を出せ」と語る言葉は、人々を立ち返らせる宣言のように響く言葉でした。何のために私たちは戻ってきたのか、それは神を信じ神に生きるためではないか。この時彼らはまさに言葉によって生き返ったのです。ハガイの預言に励まされた彼らは、中止命令が出ていた現状に変化はないにもかかわらず、神殿再建に向けて歩みを進めるのです。そうした時、まさに「閉ざされていた門」が開かれていくように、神殿再建への道筋が全て整えられて行ったのです。驚くことに行政官が、かつてキュロス王の時に神殿再建が認められた証拠を見つけ、工事を許可しただけではなく、工事が滞りなく進むように、費用など色々な支援を受けることができるようになったのです。

ハガイ書にはその顛末は記されていません。しかし、神の言葉を信じ、またその言葉に生かされていく時に、私たちはたとえ目の前に困難があってもそれを乗り越えていくことができるのです。そして私はそれが信仰というものの持つ強さであると思うのです。
何故、私にこのハガイ書が示されたのかはわかりません。何か牧師として赴任した教会で新会堂建築でもやることになると預言されたのかなと思ってもいましたが、今は違います。わたしは神を信じ、その存在に力をいただき、改めて福音宣教に立ち上がっていく教会で、皆さまと共に希望を持ち、歩んで行ったときに、神さまが必ず以前の神殿、つまりこれまでの教会の歩みの中で最も良かった時にまさる歩み、最も充実した教会生活をして行くことができるということを神が約束してくださっていると受け止めています。そのために、今私たちの前には色々な困難があるかもしれません。しかし勇気を出し、目の前の出来事に主にあって向かい合って参りましょう。そこに神は祝福を与え下さるからです。

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