〇マルコによる福音書 12章28~34節
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
〇説教「 焼き尽くす献げ物より、優れた献げ物 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。残暑厳しいまま9月を迎えましたが、先週は非常に大きな台風10号が九州に上陸し、南九州をはじめ各地域に大きな被害が生じました。台風の停滞、大雨による河川の反乱、暴風による建造物の被害、土砂災害、様々な事故で命を落とされた方もおられます。その影響は九州だけではなく四国から関東の方に及びました。現在も日本列島の様々なところで被害が出ています。福岡県内でも避難勧告、また停電が起きた地域にお住まいの方もおられます。皆さまの命の守り、災害からの復興と共に、大変な被害に遭われた方々のためにお祈りしたいと思います。これからも色々なことが起こるかもしれませんが、皆さまの心と体のご健康が守られ、日々の営みの上に主の恵みがありますようにお祈りします。
聖書箇所に入る前に、もう一つ、皆さまにお伝えしたいことがあります。実はこの9月1日は、わたしが西南学院教会の牧師として赴任した日です。わたしは不思議な神さまの導きによって、2022年8月に神戸バプテスト教会の牧師を辞任し、9月にこの西南学院教会に招かれてきました。その時から早いものでもう丸2年が経過して、これより3年目の歩みが始まります。この間、教会は100周年を迎え、新しい歩みのために様々な変化が生じたことと思います。新しい牧師という異質な存在が入ってきたことにより、教会員の皆さまには良い変化と悪い変化と感じられる部分もあったと思います。この違和感というものを言語化し、より良い形にしていくことが大切なことと考えています。しかしながら私の及ばないところで様々なトラブルが生じていた時期もありますし、皆さまには大変なご心配をおかけし、不信感を抱かせてしまったこともあると思います。その点、率直にお詫び申し上げたいと思います。わたしはそもそもあまり自分に自信があるタイプの人間ではないのですが、この二年間、まさに私自身の弱さや足りていない部分を反省させられる毎日でした。この任は重すぎると感じたこともあります。しかし、そのようなわたしに皆さまが色々な形で声掛けをしてくださり、励まし、支え、また共に働きに当たってくださっていることで、今私は牧師として立つことができていることに心より感謝申し上げたいと思います。
わたしがこの間してきたことは、神さまの御心を追い求めることでした。何故私が導かれたかもそうですし、私がこの教会でなしていくことは何なのか。また神さまがこの教会に今、求めていることは何か。神が教会員一人一人に語り掛けていることは何か。日々の祈りと毎週の礼拝を通して、神の御心を求め、どのように福音を分かち合い、信仰に生きていくことを祈り続けてきました。
いま私が示され受け止めているのは、やはりこの教会の使命、そして教会の諸先輩方からバトンのように引き継いだ事柄です。すなわち、西南学院、福岡女学院を始めとするミッションスクールの学生、ご家族、教職員の方々、そして西南幼稚園、それらの置かれているこの福岡の地域の全ての方々を始め、オンラインを通して広げられていく世界の中で、今イエス・キリストの福音を求めている多くの方々に分かりやすくみ言葉を解き明かすことであり、愛を行っていくことです。
キリスト教の言う「愛」とは、有名な「善きサマリア人の譬え」でもあるように、相手と出会い、相手のために祈り関わっていくことから始まります。イエスはガリラヤ中を巡り歩き、出会った人々に愛を行われました。愛は自分一人の世界では生まれません。人と出会うことがないからです。たとえ多くの人と顔を合わせていたとしても、相手と関わらなければ、出会うことにはなりません。つまり愛は、人格的に人と出会う時に生まれるものです。そして私たちはそのような人との出会いを通して、神という存在に出会うのではないかと思います。自分の思いだけではどうしようもないこの関係に神が共にいてくださる。そして神が私たちを支え、慰め、励まし、勇気と希望を与えてくださる。そのような出会いというものを、私は丁寧に進めていきたいと思っています。最近、よく皆さまから言われるのは、「先生はお忙しいから、話に行くと迷惑が掛かるのではないか」。そんなことはありません。むしろ皆さまとお話しすることが私の最も大切な働きの一つですので、是非お気になさらずにご連絡いただきたいと思います。そのような関わりを通して、皆さまと共に祈り、教会の歩みを進めていきたいと願います。今後ともどうぞよろしくお願いします。
それでは、聖書個所に入ります。私たちは、マルコによる福音書を続けて読んでいます。今日の聖書個所は、新共同訳聖書では「最も重要な教え」と小見出しが振られている箇所です。私たちはこの箇所から、イエス・キリストの福音を黙想していきたいと思います。
今日の箇所に至るまで、イエス・キリストは色々な人々に様々な問答を仕掛けられていました。祭司、律法学者、長老には「権威」について、またファリサイ派とヘロデ派には「皇帝への献金が律法で正しいのか否か」という問題について、そしてサドカイ派の人々には「復活」について尋ねられていました。彼らが何故イエスに質問してきたかと言うと、彼らは真理を求めて質問しようと思ったわけではなく、イエスを陥れようとし、わざと返答しにくいような悪意に満ちた質問を用意してやってきたわけです。ところがイエスはそれらの質問に対して、彼らが想像もできないようなうまい返し方で、切り抜けてきたことを、私たちは先週までの礼拝で確認してきました。
今日の箇所では、ある律法学者がイエスに質問します。「あらゆる掟の内で、どれが第一でしょうか?」彼が質問したきっかけは、これまで通りであれば悪意に満ちた質問かと思うわけですが、そうではありませんでした。イエスの対応を立派に思ったからと書かれています。立派と言う言葉は適切とか見事という風にも言い換えることができます。恐らく彼は、それまでのやり取りでイエスが適切に答えたのを見て、イエスに聞いてみたいと思ったのでしょう。その点彼は、他の質問者が悪意を持って聞いたのとは違う反応を示しています。そういう意味で、その律法学者は、他の律法学者と一緒のグループにはいたけれど、その実は真理を求めていたのではないかと思えます。
イエスはこれまでとは異なり、この問いかけには誠実に答えています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これは、旧約聖書申命記6章4節からの引用です。ちなみにこの箇所は「シェマーイスラエル」と呼ばれ、今もユダヤ教の礼拝で大切にされているものです。英語ではこうです「Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength.’」(TEV)心、精神、思い、力を尽くすこと。日本語で言えば、精神統一して意識的に全力で神を愛することであると言えるでしょう。
何故、この掟が第一であるのでしょうか。それは恐らく、この「シェマー、イスラエル(聞けイスラエルよ)」という教えが、ただあなたがたは神を愛しなさいと言うこと教えの前に、むしろ神が全力であなたがたを愛し、守り、ここまで導いてきてくださった方だという関係性があるからです。神はあなたがたを全力で愛し守ってくださるお方である。だから、あなたがたもこの神を唯一の主と信じ愛しなさい、大切にしなさいと言うのです。ちなみに引用元である申命記は、エジプトで奴隷だったイスラエルの人々が、新しい土地に踏み出していくに際して、モーセがこれから守るべき事柄を語り聞かせるという書き方になっています。なので、これは命令と言うよりも新しい場所、新しい歩みを進めていったとしても、神と人との関係性を守ることがとても大事だと言っているのです。
それでは、神を愛すると言うことはどういうことでしょうか。皆さんは神を愛すると言えばどんな形でそれを表すでしょうか。例えば神の教えを一つも欠かさず守ることなのでしょうか。それとも神さまに自分の持てる物の内で最上の献げ物を行うことでしょうか。それも、もちろん大切かもしれません。しかし、イエスはそのようには言いませんでした。第二に大切なのは、「隣人を自分のように愛すること」だと言います。この言葉はレビ記19:18節からの引用です。大元にはこのように書かれています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。
「私は主である」という最後の言葉がとてもインパクトがあります。つまりやはりここにも神と人の関係性があるのです。私が主でありあなたにいのちを与えた。そしてあなただけではなく隣人にも命を与えた神なのだ。だから何か出来事があって両者の中に関係性が崩れたとしても、相手に復讐や恨みを抱いてはならない。むしろ自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。つまり、相手のことも考えなさいというより、自分の正義を押し付けるばかりでなく、あなたは相手の立場になって考えてみなさい。そこに神がおられるのだから、というように考えることができます。
実はルカによる福音書ではこの箇所に引き続き、「善きサマリア人の譬え」が記録されています。そこでは質問者が「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいか」という話で始まり、自分を正当化するために「では、隣人とは誰ですか」という風に会話が進みます。残念ですが、今日はそちらには触れません。今日のマルコ福音書では、この質問者はイエスの答えに同意しています。「先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。
面白いのは、この律法学者の受け答えです。彼は先ほどからイエスを立派に思っていますが、彼のこの応答にも感動と言うか、激しく同意するような印象を受けます。それは何故でしょうか。
これは想像でしかありませんが、私はこの文脈から、この律法学者はまさにイエスとの人格的な出会いによって変えられて行ったのではないかと感じるのです。どういうことかと言うと、彼は律法学者です。立場としてはイエスを嵌めようとしてきた人々のグループにいたわけですし、恐らく周りにはその仲間たちもいたのではないかと思います。想像するにその人たちはイエスに言い返されてぐうの音も出ない、くやしさ、ばつの悪い思いなどを持っていたのではないかと思います。しかし彼は、むしろそういう仲間に同調するのではなく、自分の言葉でイエスに向かい合っています。つまり、彼は自分自身の考え方をしっかり持っており、自分の言葉でイエスに質問し、そしてその答えに同意することができたということです。言い換えれば彼は自立した信仰をしっかり持っていたということです。
想像してみてください。イエスに悪意を抱く質問者が多くいたのに、自分だけイエスに同意したとしたら、普通なら「裏切り者」と言って罵られ、仲間外れにされてもおかしくなかったのだと思います。しかし、彼はそれを恐れていません。もしかして彼は、彼らの仲間の内にはありながらも、何かが違うのではないか。本当に神さまの御心が何なのかということを考えていたように思えるのです。むしろそれがイエスに出会った時に、彼の中で目覚めたのではないかと思います。
彼は言います。『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。
このように読むと、普通のことのように思えます。しかし恐らくは当時の人々の考え方はそのようには思われていなかったのでしょう。もしかして人々は、「焼き尽くす献げ物」を神に献げることが、最も大事だと考えていたのかもしれません。焼き尽くす献げ物とは、自らの罪の身代わりに動物を贖い献げることであり、神に許しを乞う儀式です。自分の罪の身代わりですから、本来は自分の心も精神も思いも力も全てを神にささげるものであります。しかしながら、動物犠牲を献げると言うことで、次第に形式的に慣習的になっていき、自分の代わりに献げられるということを忘れるようになっていたのかもしれません。どんな尊い捧げものでも、思いが込められていなければそれはただの物質です。しかし大切なのは、神への思いであるのです。
イエスと律法学者が同意した内容は、形式的な献げ物ではなく、まさに自らの命を隣人に献げて、愛を行っていくことが神に喜ばれる最善の献げ物、それはむしろイエスとの出会いによって変えられ、神と共に生きる私たち自身であるのです。何故ならば、まさに神が私たちに願っていることは、神を愛し、神が愛された人々と共に生きていくことであるからです。
イエスはそのような律法学者の返答を、適切な答えとして受け止めて、「あなたは神の国から遠くない」と言います。これは、遠く離れてはいないこと、つまりすぐ近くにあると言うことです。それは、集団や何かの思想に依存することではなく、神を信じて自立すること。自分自身でしっかりと考え、自分の行いを恐れなく行っていくこと。言い換えればイエスとの出会いによって、変えられること。自由にされること。解放されて生きることが私たちは大切なのです。そしてそれがイエス・キリストが私たちを罪(的外れの生)から解放してくださる出来事なのではないかと思うのです。神が願っているのは、神との関係の中で神の御心を行って生かされていくことなのです。何故ならば、その時に神が私たちのことをどんなにか愛してくださっていることを知ることになるからです。共に祈りましょう。