〇マルコによる福音書 13章14~31節
「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」。
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
〇説教「 わたしの言葉は、決して滅びない 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。心地の良い秋の日が続いています。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。
今日の聖書箇所は、先週の礼拝で取り扱ったマルコ13章「イエス・キリストの小黙示録」と呼ばれる聖書個所の続きです。小黙示録とは、イエス・キリストがこの世の終わりの時に起きることを明らかにした言葉のことです。私たちは黙示録と聞くとなにやら怖いイメージを持ちますし、今日の聖書を読んだだけでも、あまり深入りはしたくない、イメージするだけでも辛くなる。気分が落ち込む。世の終わりが来るなんて不安を覚えるのではないかと思います。先ほどの子どもメッセージでも申し上げましたが、本音を言うと、わたしもこういう個所はあまり読みたくありませんし、説教にも選びたくありません。理解するのも難しければ説明するのも難しいからです。しかし、こう言う個所を好んで読む団体もあります。それは世の終わりを強調して人々の恐怖心を煽り、心に付けこもうとするカルト宗教やキリスト教の中でも特に過激なグループです。その方々は、世の終わりから救われるためにはこうしなければいけない、あれをしてはいけないと、まことしやかに言うことがあります。
私たちが今日確認したいことは、この箇所が伝えようとしていることはまったくそういうことではないと言うことです。また、この箇所は聖書の中で最も大切な箇所と言うわけではまったくありませんし、イエスもまたこの話を私たちを恐怖に陥らせるために持ち出したわけでもありません。
むしろ大切なのは、このイエスの言葉が私たちに何を言おうとしているのか、その福音を探ることですので、その意味を今日共に受け取っていきましょう。
そもそも事の発端は、弟子たちがエルサレム神殿の建物あるいは栄光を素晴らしいとほめたたえたことです。イエス一行は過越祭に合わせてエルサレムに来ていましたので、弟子たちは神殿のすばらしさを褒めたのです。それに対してイエスは、この神殿が崩壊することを預言しました。イエスは何故そういうことを言ったのでしょうか。
一説には、紀元70年ごろ起きたユダヤ戦争で崩壊することを預言したのだと言われることがあります。先週の礼拝では、私はその出来事に触れながら、弟子たちや他のユダヤ人たちが、美しい神殿、あるいはその中に祭られた神の偉大さを誇り、その神が私達と共におられるのであれば、必ずや私たちは勝利を得られる。そのような勝利と栄光の神を彼らが信じていたことを、イエスは間違いだと指摘したのではないかとお話ししました。神殿とは、まさにユダヤ人たちの宗教的シンボルであり、民族的アイデンティティーを保つものでありますが、そういう意味では、神殿が崩壊するということは、彼らの願望或いは理想が崩壊する時が来る。まさにアイデンティティーを失うことが起こる。しかしそんな時に大切なのはむしろ、見える形の神殿ではなく、見えない神を信じることであり、その神のことばに生かされることではないか、ということをお話しさせていただきました。
今日はもう一つのことをお話ししたいと思います。イエスは今日の箇所で具体的な状況に触れて色々と言っていますが、一つ一つに恐れる必要はありません。今日の箇所で私たちがまず心を留めたいのが、「読者は悟れ」という言葉です。文脈の中で突如として出てくるこの言葉に、違和感を感じずにはおれません。これはいったい何なのでしょうか。実は聖書学の世界では、これは「後代の付加」と呼ばれるものだと考えられています。
聖書と言うのは、元々はそれぞれパピルスや羊皮紙というものに書き記されたものであり、写本として書き写されることで広まってきたものです。長い年月をかけて書き写されてくる中で、「これは大切だ」とか「これはいい」と思った場所に記しを入れたり、欄外にコメントを残されるケースもありました。私たちも聖書の欄外に書き込みを加えることがあると思いますが、それと同じことです。しかし写本を書き写している人が、これはいいと本文の中に入れてしまうことがあります。こういうものが後代の付加であると言われています。ですから、「読者は悟れ」。これは福音書を書き写した人が、恐らくは何かすでに起きた出来事をイメージさせるように、あるいは「憎むべき破壊者が誰か」ということに注意するように伝えているのです。そういう意味で、これはすでに起きた出来事として受け止めることもできます。
今日の箇所で最も大切なことは、最後の箇所で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言っていることだと思います。天地が滅びるとはまさに世の終わりです。しかしそのような時にも、わたしの言葉は決して滅びないというのです。つまり、神殿よりも天地のすべてよりも、神のことばが重要なのだと言うことです。
これはどういうことなのでしょうか。私が今日考えていることは、あらゆる天災、人災、色々な具体的なこの世の終わりを思わせるような不安で不穏な出来事があったとしても、それらを恐れる必要はない。それを心配する必要はない。むしろ神の言葉に生かされていくことが大事だと受け取っています。でも、それなら何故こういう小黙示があるのか、聖書に書かれていることと違うじゃないかと言われるかもしれません。しかし、私は今日の聖書箇所の否定ではなく、むしろこの箇所でイエスが言おうとしていることそのものだと考えているのです。
実は福音書の記述によれば、イエスは既にこのときご自分の身に起きる十字架刑のことをご存知であったはずです。つまり自分の命を奪うものがもう目前に迫ってあるわけです。世の終わりといえるような大災害でなかったとしても、自分の命が失われてしまう時は、やはり自分にとっては世の終わりの出来事です。しかし、イエスがそのような時にも信じでいたことは、神の導きであり、神から与えられた使命、つまり十字架という人々の罪を贖うための出来事でした。実はイエスを殺したのは、むしろ神殿の力であったのです。とイエスは神を冒涜した罪によって告発され、ローマ総督ピラトに引き渡され、処刑されました。神殿という存在は時に神の御心から離れてしまうことがあります。ヨハネ2:7には「あなたの家を思う熱意がわたしを食らいつくす」と言う言葉がありますが、まさに神殿が私たちの思う神殿らしくあらねばならないと考える時に、神さえ不必要な存在のように切り捨ててしまうことがあるのです。しかし本当に神の御心を行ったのはイエスであるのです。神の言葉が彼の歩みを導いたわけですし、その果てに復活という出来事が起きたのです。
だから、私たちは神のことば、神の伴いにこそ目を留めたいのです。実は、イエスがエルサレム神殿で起こした「宮清め」の出来事。神殿で商売をしていた人々を追い出す場面ですが、マルコ福音書では長い旅の最後のクライマックスのように登場します。しかしヨハネによる福音書では早くも2章にその出来事が記録されています。そこではイエスはこう言います。「この神殿を壊してみよ。3日で立て直して見せる」。ユダヤ人たちは建築に46年かかったこの神殿を3日で建てるのかと言って驚愕するわけですが、イエスは、神殿と言う建物の再建ではなく、十字架からの死からの復活を意味してそう言っています。つまり、わたしたちのシンボルとは、建物ではなく、イエス・キリストであり、復活であるのです。それがこの神の宮、神殿、あるいはこの教会の礼拝の中で確認することが大切なのです。
見えるもの、頼りにしていたものが失われてしまう時、わたしたちは自分たちの土台を見失います。自信も誇りも失います。不安になります。そうしたとき、私たちが行う心理的な防衛は、何か他の安心できる場所を探そうとすることです。私たちは不安の中にいるとストレスになりますので、落ち着ける場所、安心できる場所を求めるようになるのです。しかし、大切なのは、イエスは既に私たちの土台となり、憩いを与える場所となっているということです。私たちはその関係性による平安と信頼の中で、ブレずに、恐れずに、私たち自身の使命を果たしていくことができるようになるのです。
「天地は滅びるが、決して滅びないわたしの言葉」とは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)との約束です。
私たちはどんな時も、神の愛を信じ、神の愛に生かされ、神の愛を行っていくことが大切なのです。
実は、私は先週水曜日に、西南女学院大学の短期大学部のチャペルに招かれて、お話をさせていただきました。初めて西南女学院に行ったのですが、私は実はずっと訪問する機会を待ち望んでいました。と言うのは、西南女学院には、西南学院の創設と発展に関わったC.K.ドージャー先生、E.B.ドージャー先生、またJ.H.ロウ先生、W.M.ギャロット先生のお墓があることを聞いていましたので、お墓参りをお参りしたいと思っていたのです。
私は、西南学院バプテスト教会の牧師の招聘が与えられた時、やはり西南のために祈る者となる使命をいただきました。そしてその思いをお墓の前で改めて確認する時を持ちました。木漏れ日が差し秋風が吹く中でしばしの祈りの時を持ちましたが、心がとても熱くなるときでした。
ドージャー先生の遺言は、「西南よ、キリストに忠実なれ」という建学の精神になり、今も大切にされている言葉です。ギャロット先生は、西南学院創立50周年の記念講演の中でこう言っています。「創立者にとって、西南は決して絶対的なものではありませんでした。西南第一ではなく、神の御心第一でした。この精神を誠に受け継いでいる間、西南は『永遠の学院』と言えます。西南よ、今日、永遠の学院たれ!真理を生きよ。愛に生きよ!神の御心に生きよ!今日、キリストに忠実なれ!」
わたしたちが受け継ぐべき精神もまた同様です。建物が大切なわけではありません。立派な礼拝堂、神殿、ネーム、輝く栄光が大切なわけでもありません。大切なのは、私たちがキリストの言葉に立ち、真理を求め、愛に生きること。すなわち、神の御心に生きることなのです。それが、神の願いであり、神の愛に応えることになるのです。それが永遠の命に繋がりますし、不安や恐れを克服するものになります。
いま私たちが生きている社会は、まさに不安渦巻く中、終末とよばれる混乱の中にあります。全ての人がなんらかの救いを求めている状況があると言えるでしょう。わたしたちは、そのような中で、地の塩、世の光となって、喜びと希望を持って、この使命を果たして参りましょう。