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2024年11月3日説教全文「ナルドの香油~惜しみない献げ物 」

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〇マルコによる福音書 14章1~11節

さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

〇説教「 ナルドの香油 ~惜しみない献げ物 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。一昨日、昨日と大雨が降りましたが、今日は心地の良い秋の日となりました。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

11月に入りました。今月は、次週10日に子ども祝福式、17日に収穫感謝礼拝、24日に世界祈祷主日礼拝を守ります。これらは「秋」と言う自然の恵みを感じる季節を通して、私たちが神の創られた豊かで多様な世界の中で生かされていることを感謝するために行います。神さまの造られた自然、世界はなんと素晴らしく美しいことか、時に大雨などの脅威もありますが、基本的には豊かな恵みがあります。その実りから得られる果実がどれだけ豊かで美味しいか、あるいはその環境というものが、どれほど調和がとれたものであるか、そこに与えられている個々人の命の豊かさ。個性の違いというものは、神が多様性を尊重している方であるということを私たちは感じることができます。

ところが一方で、そのような社会の中で生かされている私たちが直面している現実があります。子どもたちを祝福する気持ちを持つ一方で、実際におよそ9人に一人が相対的貧困状態という「子どもの貧困」に生きています。経済的な困難から、結婚や子どもを諦める若者が増えていることも課題です。収穫を感謝する一方で、あらゆる資源の争奪が起き、むさぼりによって様々な資源が減少していっています。飽食の時代と言われ食品廃棄物が社会問題化する一方で、依然として飢餓に苦しむ国々があります。世界平和のために祈る思いを持つ一方で、私たちは日夜、戦争と紛争、分断と対立による混沌に巻き込まれているのです。私たちはこのような矛盾した世界に生きています。
私たちはこの時に神様の恵みを感謝すると同時に、神さまが創られた世界が守られるように祈らなければなりません。何故ならば、神さまが与えられた世界を壊しているのは、人間そのものであるからです。人間が社会を壊しているのは、キリスト教においては「罪」の故だと言われます。「罪」とは「犯罪」のことではありません。「罪」はギリシャ語では「ハマルティア」と言い、その最も根源的な意味は「的外れに生きること」です。何から的外れに生きているのか。それは神の愛です。神の愛の満たしの中で生きていた私たちがそれでは満足ができなくなり、的外れに他のものをむさぼり求めてしまう。あるいは神との関係がなくなっているからこそ、私たちは不安になり、自己充足を求めて的外れに他のものでその不安を解消しようとするのです。しかし、神が私たちに願っている生き方は神の愛に立ち返り、生かされることなのです。すなわち「自己中心で、自分だけを愛す生き方」から「神に愛され、神を愛し、自分も隣人も愛す生き方」に立ち返ることなのです。イエス・キリストのメッセージを簡単に言えばそういうことだと思います。
わたしたちは考えます。「自分だけよければよい。自分の糧だけ備えられればよい。自分を中心とした環境が守られればよい。自分の国だけ平和であればよい。他のことは知らない。自分たちが豊かになるために他の人からその恵みを奪うこと。そんなの弱肉強食だ。相手が悪い。しょうがない。しかしこのように無関心に無感覚になっていくとき、時分だけの平和が他の人の平和を脅かし、住む場所を破壊し、人命を奪いさるのです。これらへの叫びが暴力になって始まるのが戦争です。

私たちはこの地球と言う一つの世界で、命が与えられている存在であります。神は、私たちがどのように生きて行くことを願っているのでしょうか。これは神が私たちに与えられたミッションであります。現状を見ると実現は困難のように思えます。分断と対立は広がっています。しかし、不可能ではありません。その道筋を示したのが私たちの主イエス・キリストです。神が与えられている恵みをどのように分かち合って生きて行くか。共に祈って参りましょう。

本日の聖書箇所が伝えようとしていることも、これまで話した内容と関わりがあるように思います。今日の箇所は、過越祭と除酵祭の二日前という記述があります。過越祭と除酵祭はそれぞれ出エジプトの災いを小羊の血によって過越(パスオーバー)し、酵母を入れないパンを持って出かけたという出来事を記念する、まさに神がイスラエルの人々を救われた記念のお祭りなのでです。いよいよユダヤの最も重要な祭りも佳境が迫ってきたということです。それと同時にイエス・キリストの歩みもクライマックスとなります。祭司長や律法学者がイエスを殺そうと計画し、また12弟子の一人であったイスカリオテのユダがイエスを裏切る約束をしています。彼らがイエスを殺そうと思った理由は、端的に言えば、彼らにとってイエスが都合の悪い存在であったからです。しかし、彼らが表立ってイエスを捕らえることができなかったのです。何故ならば民衆にとってはイエスは人気がありましたので、自分たちがやったということがばれてしまうと、人々の反感を買って支持を失う恐れがあったことです。いつの時代も自分たちに不都合な存在は、自分たちに関わりのない形で闇に葬りたいという思いが透けて見えます。ユダがイエスを裏切った理由は不明ですが、やはり彼にもなんらかの思いがあったのでしょう。
それが今日の真ん中に位置している物語ではないかと思います。ある女性がイエス・キリストに「ナルドの香油」と言うとても高価な献げ物をしました。この女性の献げ物は、祭司長や律法学者、ユダとは対照的に、自分の出来る限りのことを公正明大にイエスに行う姿で記されています。この出来事が伝えようとしていることは何なのか、共に見て行きましょう。
イエスは、エルサレム滞在中の宿泊場所をベタニヤというエルサレム近郊の村にしていたようです。ベタニヤは「貧しき者の家」という意味があり、恐らくは光り輝くエルサレムの陰、スラムのような部分だったのだろうと思われます。そこにはイエスの友人、ラザロとその姉妹であるマルタとマリアの家がありました。この日、イエスは重い皮膚病の人シモンの家にいたと書かれています。このシモンがどういう人かは、実はあまりわかっていません。また、このシモンが同席していたかも不明です。というのは、重い皮膚病とは「らい病」のことであり、ギリシャ語では「レプラ」と書かれていますが、当時とても恐れられていた伝染病であり、罹患者は隔離生活を余儀なくされていましたので、シモンは不在で、彼の家を借りていたのではないかとも言われます。もちろん、イエス・キリストのことですから、シモンとも一緒に食事をすることもあったでしょう。しかし、今日のポイントはそこではありません。ポイントは、ナルドの香油を捧げた女性についてです。

実は、平行記事のヨハネによる福音書12章によると、ここにはラザロやマルタも同席していて、この香油を捧げたのはマリアと言うことになっています。しかし、マルコ福音書では誰かわからない素性の知れない女性として描かれています。最初に成立した福音書はマルコですから、恐らくヨハネの物語は、その後何らかの意図があって加えられたと考えられます。

彼女が何者か、そしてイエスにどうして油を捧げようとしたのか、その詳細は不明です。わかることは、このナルドの香油が、当時とても高価なもので、裕福なユダヤ女性たちに愛用されていたものであったことです。ですから、この女性は恐らく自分の持っているものの内で、最上の献げ物としてこのナルドの香油をイエスに注いだのです。壷を割ったと言うことですから、自分のために余らせておこうなんて思いを彼女は持っていません。一切それを惜しむ様子も見せず、イエスに注いだのです。ところが、この行いに対して憤慨したのが弟子たちでした。彼らは言います。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして、彼女を厳しくとがめた」。
弟子たちが他の人を厳しく咎める箇所というのは、時々登場します。例えば、マルコ10章で子どもたちがイエスのところに来たとき、弟子たちは子どもたちを連れてきた人々を叱っています。またマルコ8章では、イエスが十字架での死を始めて口にした時、ペトロがイエスを脇に連れ出し、諫めています。ここで使われた言葉は、エピティマオーという「叱る」とか「厳しく命じる」と訳せる言葉です。

しかし今日の箇所で使われた「咎める」という言葉は、他に訳すとすれば「鼻息荒くしかる」とか「不機嫌に怒鳴りつける」とあてられます。簡単に言えば、感情的になって怒るという表現です。なぜそんなに怒ったのかというと、その香油が非常に高価で売れば300デナリオン以上に売れたと言うからです。1デナリが一日分の労働対価でありますので、およそ300倍、言い換えれば年収に近い金額をここで使ってしまったことに彼らは激しく感情的になったのです。しかし、恐らくはもっと根源的な問題があったのではないかとわたしは考えています。それは、弟子たちがこの女性を差別していたのではないかということです。つまり、彼らはこの女性の行いに無理解で、間違ったことをしたと思ったから彼女に対して激しい怒りを見せたのです。
「それを売り払えば、貧しい人に施すことができたのに」。これは、一見もっともらしく聞こえるいい分です。しかし、彼女のものを彼女がどうしようと勝手なはずです。これは彼らが自分のものではないにもかかわらず、自分の正義、価値観を押し付けるという、献げ物をした人の思いをないがしろにした発言です。当時の文化的背景の中で、男性がこぞって女性を攻撃するということ、しかも食事の席についているようなある意味で立場が上の方から一方的に攻められた女性は、もはや立つ瀬がありません。自分の宝物に違いなかったものを、イエスさまに喜んでほしくて捧げただけなのに、外野にわぁわぁ言われて、やっていられません。

しかし、こういう時にこの女性の思いに応えて、彼女に労いの言葉をかけられるのが、イエス・キリストであるのです。「この人は出来る限りのことをした」。正しいか間違っているかではありません。この言葉は、彼女の行為を喜んで受けてくださったということです。しかも、これが実に自分にこれから起きる十字架と埋葬の出来事、そして復活の出来事を意味づけるものであることを語るのです。「油注ぎ」というのは、当時の文化の中では遺体を保護するためのものでもありました。しかし、ここではもう一つの意味を持ちます。すなわち、イエスがキリストであることです。実はキリストとはヘブライ語では「メシア」と言いますが、この言葉は「油注がれた者」という意味があります。イエスがこれから受けられる受難のための備え。これがこの箇所が伝えようとしていることです。

この物語から考えたいことがあります。それは、「自分の正しさ」の危うさです。私たちは、自分の正しさが唯一だと考え、人を自分の物差しに当てはめてしまうことがあります。そして時に、相手の立場に立たずに、一方的に人を傷つけてしまうことがあります。いくら自分が信じていることが真理の一面であるからと言って、相手を簡単に裁いたりしてよいものではありません。これは弟子たちにも起きたことでありますが、実は祭司長や律法学者たちが考えていたことと同様のことです。相手が自分の価値観と違う。あいつがいると都合が悪い。だから排除するというのは、正義ではありません。「正しさ」というものは、立場によって変わるものだからです。正義は人を傷つけるものになります。
イエスはこの物語の中で、自分の正義を語りません。あるいはそれを押し付けようとはしません。むしろ、愛を行っています。それは、この香油を献げた女性の思いを受け止めることであり、その女性の行為に意味を与えることであるからです。愛を行うこと。これが実に、神の正義なのです。

わたしたちは、合理的思考、損得勘定、そしてそれがどのように用いられるか、色々なことを計算して生きています。時に自分の理解を超えた割に合わない事柄、どう見ても無駄なことは理解ができませんし、受け止めようとすらしないことがあります。でも、それは自分の価値観に相手を合わせようとすることなのかもしれません。大切なのは、その本人がどのような思いでそれを行ったかを確認し、受け止めることなのではないでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」正しいことではなく愛を行うこと。そして、それが違いを持った人々と共に生きて行くために、最も重要なことなのです。そして今日の箇所で私たちがむしろ心を留めるは、相手が何をしたではなく、私たちが神に喜ばれる惜しみない献げものをしているのかと言うことではないでしょうか。神の願う私たちの生き方、それは神を愛し、他者の隣人になって生きて行くことなのです。共にお祈りしてまいりましょう。

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