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2024年11月10日説教全文「放蕩息子の譬え~神の子となる 」

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〇ルカによる福音書 15章11~32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と』。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』。兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』。すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」。

〇説教「 放蕩息子の譬え ~神の子となる 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。心地の良い秋の日が続いています。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。そして日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

今日の礼拝は後ほど子ども祝福式が行われるため、いつも教会に来ている子どもたちや幼稚園の園児たちを始め、多くの子どもたちそしてご家族の方々が参加してくださっています。イエス・キリストは言われました。「子どもを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)。つまり神の国は、子どもたちのものである。では神の国とは何か。私たちはどうやったら入れるとか、どうしたら入れないとか、あれやこれやごちゃごちゃ難しく考えます。しかしこの言葉を考えると、神の国は恐らくは何も考える必要もない、何を気にする必要もない、あるがままのわたしたちがそのまま受け入れられる場所のように思います。教会も、礼拝も同様です。
教会とはそもそも「神さまと人との交わり」のことですので、わたしたちがそういう関わりの中で生き生きとされる場所であり、神はそんなことを私たちに願っています。そして教会の礼拝の中心となるものが神の言葉です。神の言葉は裁きや律法の順守、緊張を強いるものではなく、喜びと平安と感謝を与えるものです。今日はルカ福音書「放蕩息子の譬え」のお話をします。先ほど子どもメッセージでもお話しいただきました。これはイエス・キリストの譬え話ですが、説明する必要がないと思うほど、わかりやすくイメージしやすい物語だと思いますが、譬え話と言うことは、ここにこう書いてあるから信じなさいというものではなく、考えることへ導いています。聖書は私たちが考えながら神のみ言葉を求めるものであるからです。今日の箇所でクローズアップされるのは、親子関係のすれ違いや兄弟関係のいびつさです。しかし、これは神の愛の物語です。今日は初めて来られた方や学生さん、またキリストの教えに向き合おうとしている方がおられると思いますが、イエスが伝えようとしていることが、ただ神の愛であり、子どもたちにどのような眼差しを向けているか、どのように愛しているかということをお伝えしたいと思います。

もう一度、簡単にこのお話を振り返って参りましょう。ある人に二人の息子がいました。あるとき弟が父に「お父さん、私が頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。これは簡単に言えば、父親が亡くなる時に自分に手に入る財産を先に欲しいというわけです。当時のイスラエルに贈与税があったかどうかは知りませんが、相続権から考えると、長男が家を引き継ぐことになっていましたので、次男である弟は、自分の歩みを始めたいと思ったのかもしれません。あるいはもう家族っから出ていきたいと思ったのかもしれません。詳しいことはわかりませんが父親からすれば、この生前贈与の申し出は、自分の死を待つ前に自分の取り分をくれと言うことですから、考えられないほど失礼なことだったのだと思います。ところが、この父は怒ることなく弟の申し出の通りにして財産を渡しました。何故、父は弟に財産を渡してしまったのでしょうか。財産を受け取った弟は、案の定、受け取ったらすぐに家を出て行ってしまったようです。

弟はその後、放蕩の限りを尽くし遊びまわったようです。いったい何をしたのでしょうか。財産がどれくらいあったのかわかりませんが、金のあるところには人も集まります。恐らく豊かな父親のもとでボンボンだった弟は色々な人にちやほやされて、湯水のようにお金を使ってしまったのでしょう。彼はあっという間に散財し、すっからかんになって窮乏に陥ります。「金の切れ目が縁の切れ目」と言うように、彼を助けてくれる人は誰もいませんでした。さらに弱り目に祟り目というか、悪いことは重なるもので、その地方でひどい飢饉が起こった時、彼は食べるものにも困り果て、当時イスラエルで、忌み嫌われていた豚を飼う仕事をすることになりました。ものの見事な転落人生です。

自分が頼りにしていたものがなくなるとき、生きて行くためにはどうしたらよいかという目先の事しか考えることができなくなります。彼は恐らく初めは助けてくれなかった友だちを恨み、その後自分の愚かさを呪い、犯した過ちを頭の中で繰り返し、もう取り戻すことができない過去を悔やみ続けていたのだと思います。自分はどこから間違ったのか。なんであんなことをしてしまったのか。これからどうしていけばよいのかということを考えるより先に、もう過去に捕らわれてしまって動き出すことさえできない。父親のところに帰ることだって何回も考えたはずです。しかし、父の反対を押し切って出てきてしまったのだから、もう帰るなんてできっこない。恥ずかしくって合わせる顔がない。頭の中では、そういう思いがぐるぐるしていたことでしょう。しかしある時、我に返るのです。これはハッとするというよりも、彼自身に立ち返るという意味があります。つまり、今最もしなければならないことに気付かされると言うことです。頭がぐるぐるする中で、今何が自分に必要かと考えること。それは彼にとって生存することでした。最初は、生き延びるためには恥を忍んで父の元にかえらなければなければならないという形で始まったかもしれませんが、次第に、これまでとは違う新しく歩み出していくための決断。頭を下げてでも父親の元に帰ろうということになるのです。息子と呼ばれる資格はもうない。それほど大きな罪を私は犯してしまった。赦される値打ちもないという振り返り。だから召使いの一人にでもしてもらおう。彼はそのように思って家への歩みを始めます。恐らくは空腹で倒れそうになりながら、表情も落ち込んだままであったでしょう。みなさんもまた挫折というものを経験したことがおありだと思います。人を責める前に自分自身で自分のことをこれでもかというほど責めます。情けない。世の何物からも見捨てられたように感じます。この弟もそのような感じだったのではないかと思います。

しかし、そんな弟が遠くからとぼとぼと帰ってくるのを待っていた人がいました。それが父親だったのです。父親は恐らく、弟の帰りをずっと待っていたのでしょう。父は、まだ息子が遠くにいるのにも関わらずそれに気づき、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけをしたのです。
父親は、彼が反省しているかいないか、そのような言葉を待つことがなく、彼を受け入れています。わたしたちなら、しっかり反省していればよし、そうでなければ家の敷居を跨がせないなど言うのではないでしょうか。しかしこの父親は、遠く離れたところにいた人を息子だと確信し、走り寄っていったのです。イスラエルのなかで男性の佇まいの中で走るということはあまりないようです。しかし父親はそんな人目を気にするようなこともなく、息子のところに駆け寄ったのです。
『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父親は僕たちに言いました。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』。
これまで何をどう経験してきたのか、口に出さずともよい。あなたが私のところに無事に帰って来てくれただけでもうけものだ。財産なんてどうでもよい。あなたの命が大事なのだというメッセージです。父親は彼を迎え入れ、大宴会を開催しました。弟としては、父の愛の深さを改めて認識する出来事であったでしょう。

一方で兄はその頃、畑にいて家のために働いていました。帰ってくると音楽や踊りのざわめきが聞こえたため、これは一体何かと僕に尋ねています。いつもと違うということを彼も感じ取ったのでしょう。聞いてみると、弟が帰ってきたということで宴会が開催された。しかも子牛を屠った最上級のお祝い事であったわけです。兄は驚きと共に怒りを感じています。父に対しての不満と弟の勝手に対する憤りと妬みだと思います。だって兄からすれば弟は家の仕事をほおって勝手に出て行った存在です。もう家なんか寄り付かないよと生前贈与を受けて出て行ったわけです。それが帰ってくることだけでもうっとおしいのに、なんで父親は弟を歓迎しているんだ。しかも子牛。わたしが友達と宴会したときも子ヤギ一匹くれなかったではないか。ふざけるな。なんで自分ばかりいつも我慢しなきゃいけないんだ。そんなうっぷんが溜まっていたことが彼の言葉からわかります。兄は何故、この父の元を離れなかったのでしょうか。長男という立場や責任感もあったかもしれません。でも兄の言葉からは、父親に対する不満、つまり自分の扱いへの不満というものがずっとあったように感じられます。

しかしそんな彼をなだめるのも父親であるのです。彼は言います。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。父の言葉は、兄の思いを受け止めると共に子どもたちに対する父の愛の深さを表しています。父が息子たちをなだめていているのです。なぜでしょうか。言い換えるなら、兄は勝手に出ていった弟に勝手に怒っているだけです。自分中心の感情です。そんなめんどくさい奴の相手なんかしたくありません。むしろ私の気持ちをわからなければ、家に帰って来なくてよいとでも言いたくなってしまいそうです。しかし父は、兄を責めることをせずなだめています。ただただ行き場のない相手の気持ちに寄り添っているのです。
父は言います。お前のあの弟は死んでいたのに、生き返ったのだ。もちろん文字通り死んでいたのではありません。関係性において死んでいたようだったのだ。しかし、彼は生き返った、つまり立ち返ったのだ。わたしはそれを喜んでいるのだ。無理に兄弟仲良くしなさいと強制しているわけではない。しかし、誰も子どもが一人で失われてしまうことを喜ぶ人はいない。親の目はいつも子どもに注がれているのだから。そして私の目線はあなたにも同じように注がれているのだ。だから私のものは兄であるあなたのものだと言うのです。

この譬え話の中で、父親は神を表しています。しかしどうも神の愛は、兄にも弟にもうまく伝わっていないように思います。兄も弟も父の愛を勘違いしています。兄は父に逆らわずに生きてきました。フラストレーションを抱えていたことから、自由な感じではありません。弟はが父の元を離れた理由も明らかではありません。もしかして父の支配から抜け出していきたいと思っていたのかもしれません。父の愛というものは時に厳しく感じ、息苦しさを覚える時もあるからかもしれません。しかし、父の愛は、決して子どもたちの歩みを束縛したり押さえつけようとするものではありません。やはりこのお話しのポイントは、この父親が弟の生前贈与の申し出をうけいれたところにあると思います。つまり、弟の行動が怪しい、大丈夫かと心配しても、その思いを受け止めて送り出す親の愛です。そして帰ってきた時も責任を問わずしっかり受け入れるものなのです。子どもはそのような信頼関係の中で育つのでしょう。むしろ優しく寄り添いその言葉に耳を傾け、語り掛ける。これが神の愛であるのです。

皆さんの中にも失敗経験、転落体験をされたことのある方もおられると思います。或いは頑張って頑張って「いい子」であることを続けてきた方もおられるかもしれません。神が私たちに願っていることは、無理に頑張って生きることではありません。むしろ自由に思っていることをやっていくことであり、困った時にはいつでも帰ってきてよいという関わりの中で生かされていくことなのです。神は私たちの心に寄り添って下さり、希望を示し、慰めを与えてくださるからです。神の子となるというのは、そのような神の眼差しの中で自由に生きて行くことなのでしょう。

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