〇マタイによる福音書 6章25~34節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
〇説教「 神は、あなたを愛している 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。12月に入りました。そして今日から、クリスマスを待ち望む待降節(アドヴェント)という季節が始まります。この季節は、救い主誕生の意味を改めて黙想し、神の愛を改めて受け取り直す4週間です。今日の礼拝の始まりに、アドベントクランツに火を灯しました。4本のクランツにはそれぞれ「希望」「平和」「喜び」「愛」という意味があります。本日は「希望」のキャンドルに火を灯しました。どんな時も私たちに希望が絶えることはない、何故なら神が私たちと共におられるからである。このことを今日の聖書個所から受け取っていきたいと思います。この時期、神の愛を黙想しつつ、皆さんの心と体のご健康が守られ、すべての人の歩みが平和のうちに守られますようにお祈りしたいと思います。
今日の礼拝は待降節の礼拝であると同時に、私たちの教会にとっては、創立102周年記念礼拝であります。長年に渡り、これまでの教会の歩みを守り導いてくださった主に感謝をすると共に、私たちのこれからの歩みの上にも主の恵みと導きをお祈りしたいと思います。教会の創立記念にあたり、私たちが心に留めたいことは、この教会の誕生のきっかけとなったイエス・キリストの「無条件の愛」の福音です。この神の愛を宣べ伝えることが私たちの教会の原点であり、使命であります。西南学院教会は、このイエス・キリストの福音を伝えるために存在しているのです。
一昨年、教会創立100周年をお祝いする中で、私たちはこの西南学院教会の使命を確認しました。それは一言でいうならば、「西南学院、西南幼稚園に連なる人々を始め、地域の人々への福音宣教」であります。現在、カルトと呼ばれるキリスト教系新興宗教の影響等もあり、宗教不信甚だしく、「福音宣教」というものが難しい時代になっていると言われます。特に、イエス・キリストの福音を変質化させ、これを信じないと救われない、天国に行きたいならこれを信じなさい。さもなければ地獄に行くというような裁きの言葉として用いるカルトや過激で感情的なキリスト教会の影響がその不安をあおっています。
そういう中で、私たちはどのように福音宣教に仕えて行くでしょうか。私たちは西南学院教会という社会的信用を持った教会です。イエス・キリストが「あなたがたは世の光である。山の上にある街は隠れることができない」。と言ったように、私たちは福音を隠して生きることは出来ません。私たちがこの福音を理解して、この福音に喜びを持って生きるということが、世の光として私たちが為していくことです。ですから、私たちはこの時イエス・キリストの福音を改めて受け取り直し、かつその福音に喜びや感謝を得て歩んでいきたいと思います。今日はその神の愛を確認し応答するため、イエス・キリストの山上の垂訓の一つ「空の鳥と野の花の教え」から神の愛を受け取っていきましょう。
今日の箇所は、イエス・キリストが思い悩みやすいわたしたちに神の愛をわかりやすく示している箇所です。イエス・キリストは言われます。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。
この言葉でイエス・キリストが伝えようとしていることは、2つあります。一つは私たちは色々なことに悩みながら生きているわけですが、実は私たちは神の大きな恵みと見守りの中を生かされているということです。「空の鳥と野の花」という譬えを用いて、イエス・キリストが私たちに伝えようとしていることは、「種も蒔かず、借り入れもせず倉に入れもしない空の鳥、働きもせず、紡ぎもしない野の花」さえ、神さまはこのように着飾らせてくださっているし恵みを与えて下さっている。彼らは、何を気にするわけでもなく、神さまの恵みによって生かされている。そしてそれが鳥が大空を自由に飛び回ることに繋がるし、野の花が自分の花をしっかり咲かせていくことに繋がるのだ。そして神はそのように私たちにも神の恵みの中で、自由にのびのびと生きて行ってほしいということです。
もちろん、私たちも悩んだって仕方ないことくらいわかっていますし、何も悩みがなくなったらどんなに良いだろうかと思います。のびのび生きて行きたい。しかし、そういう私たちがやはり気にしてしまう思い煩いがあるとイエス・キリストは指摘しています。
これは別に食べるものがないとか着るものがないとかそういうことではありません。「何を食べるか」ということは、つまり私たちが何を手に入れようとしているかということであり、「何を着ようか」とは、私たちがどのような装いをして暮らしているかということを気にしていると言うことです。つまりいい収入のある働きをして良いものを食べられるように、良いもので囲まれる生活を送りたいということを気にして生きていると言っているのです。この指摘は、人間ならば誰もが持つ欲求かもしれません。しかしながら最近はこれがとても顕著になってきていると思います。
例えばSNSが発達してからは「○○映え」という概念が生まれ、自分が食べているもの、着ているものを「自撮り」して投稿する人が増えてきました。美味しいものが食べれて嬉しいとか綺麗なものが着れて楽しいとかそういう思いから始まったものかもしれません。喜びのおすそ分けという気持ちはわかるのですが、しかしそういう投稿を繰り返すうちに、自分を人にどのように見せるかということに終始してしまい、本当に大切な目の前のものに向かい合うということができていないことがあるのではないでしょうか。またその投稿に対するコメントを気にして、良い評価が少ないと思い悩んでしまったりとかそういうことが、若者を取り巻く、昨今のSNS問題の一つです。
イエス・キリストがここで伝えようとしていることは、そういうことを気にするわたしたちに対して、そんなことを気にする必要はないということです。だから、イエスは、神は空の鳥も野の花も見守り養ってくださるように、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」と言ってたしなめるのです。つまり、言おうとしていることは、神があなたのことを愛していることなんて、当然の事じゃないか、私があなたのことを守り恵みを与えているのだから、他のことからの評価なんかを気にすることは必要ない、と言うことです。
実は、この空の鳥と言うのは、平行記事のルカ12章によると、カラスのことだと言われています。カラスというと日本においては忌み嫌われる鳥のように言われます。カラスを見かけると不吉だとか言いますよね。福岡市はゴミ出しが夜のため、ごみが荒らされている現場をあまり見かけませんが、私が以前住んでいた神戸での私の朝の仕事の一つはゴミ集積場を掃除することとカラスを追い払うことでした。カラスだって生きて行くために仕方なく餌を探しているわけですが、あまりのしつこさと狡猾さに辟易していたことを思い出します。忌み嫌われる理由の一つにはそういう性質があるからだと思います。しかし、人に嫌われようがカラスはカラスの生き方を貫くわけです。野の花もそうです。この花は、パンジーなど小さい小さいお花のことを表すと言われますが、私は道路の側溝に咲いているいわゆる雑草のような花のことではないかと思っています。いってしまえば無価値に等しい花々です。それらの花は美しさとはいっても、栄華を極めたソロモンに適うわけはありません。しかし、それらの花が素晴らしいと思うのは、その花がどんな所でも咲いていくたくましい生命力を持っていると言うことです。こんなところで咲くわけないやろと思うようなところで、それぞれの美しい花を咲かせるのです。
神の恵みは、カラスにも野の花にも豊かに注がれている、ましてやあなたがたにはなおさらのことではないか。確かにその通りだと思います。しかしながら、私たちに思い悩みは尽きないのです。「思い悩むな」と言われる理由はわかるのです。思い悩んでも仕方ないからです。でも悩みですから、そんな風に言われてもそう簡単には頭から離れるものではありません。だからこそ「悩む」のです。そもそも、本当に悩まないで生きるなんて可能なのでしょうか。悩むことが無くなれば人生楽に生きられるようになるかもしれません。でも悩まないで生きる生き方が本当に幸せなのでしょうか。
確かに時に悩みは心に大きな負担となり、心を病ませることもあります。「悩み」という言葉でインターネットを検索すると、「この世は本当に病んでいる」と思うくらいたくさんの悩み事があることが分かります。またその人たちの助けになる診療所や相談所のページが出てきます。さらにはこんな悩みにはこうしたらよいという事例を挙げたアドバイスや有名人のコメントみたいなページもゴマンと出てきます。でも、そんな参考例を見るだけでは、個別の問題は決して解決していくわけではありません。或いは問題が解決してもまた新たな悩みが出てくるということもあります。ですから、こうしたサイトが尽きることはないのでしょう。
果たして悩むことは悪いことなのでしょうか。そうではないという意見もあります。何故ならば確かに悩むことは苦しいことだけれど、その時の経験が新たな自分を作っていくというからです。これは悩むことのポジティブな一面です。自分の行動を振り返り検証することで、自分を成長させることができるのです。くよくよするだけではなく悩むことを肯定的に捉えることもできるということでしょう。
でも、確かに悩んで良い悩みと悩まなくてよい悩みがあると思います。実は今日の「思い悩み」という言葉は、聖書では「メリムナオー」という言葉ですが、他に「心配」という言葉にも訳すことができます。「思い悩むこと」と「心配すること」は少し違う印象があると思います。調べたところ、思い悩みはその出来事に対してとった自分の行動について悶々と考えること、心配はその出来事自体についての心配ということのようです。ですから、悩むべきことはあるけれども、心配してもしょうがないことはあるともいえるのかもしれません。
ちなみに、イエス・キリストが今日の箇所で思い悩まなくてよいと言っているのは、「何を食べようか」「何を飲もうか「何を着ようか」ですから思い悩みというよりは「心配しすぎなくてよい」と言った方が正確なのかもしれません。実はイエス・キリストはすべてのことについて「思い悩むな」と言っているのではないのです。心配すべきではないことに対して悩んではいけないということであります。イエス・キリストは思い悩む人々にどう接してくださるのでしょうか。聖書を見てみると、イエスは悩みの中にいる人々の傍らに伴い、心の痛みを知ってくださる方であるのです。なぜならば、イエス・キリストが福音書の中で出会われたのは、悩みの中にあった人々であるからであり、イエスはその方々の思い悩みを癒されたからです。私たちの中にも、悩みの中で「道」や「救い」を求めてイエス・キリストに出会った方が多いのではないでしょうか。言い換えれば、悩みの中でこそ私たちは神、あるいは神の言葉に出会うのです。
イエス・キリストがここで言おうとしていることは、神があなたがたを常に見守っておられ、恵みを与えてくださっていると言うことです。そして必要な時に私たちに寄り添い、食べ物を与えるだけではなく、あなたの命が満たされ、あなたらしく生きて行けるように、恵みを与えてくださっているのだということに心を留めなさいと伝えようとしているのではないでしょうか。
「神の国と神の義をまず求めなさい」。これは一言で言えば、「神の愛の内で生きていきなさい」ということです。神の国とは、神の愛に満ちた国であり、私たち一人一人のいのちが満たされる場所であります。神の義とは神の正しさです。他のもので自分自身を満たそうとするのではなく、神が自分に与えてくださっているものに目を留めるということだと言えるでしょう。だから、あなたはいちいち悩まなくて良いと言っているのです。何故ならば、空の鳥や草木をも愛しておられる神は、わたしたちが神の愛の内に生きていくことを願っているのです。
だからこそ、神は神の国と神の義に加え、全てのものが与えられるのです。「明日のことまで思い悩むな」。私たちが生きているのは明日ではない、今日である。明日のことを心配するのではなく今日、今を神と共に生きていくことが大切なのです。その時に明日が開かれて行くのでしょう。
聖書には、「安息」の重要性が指摘されています。「安息」とは、心落ち着けてゆっくり息ができることです。私たちは思い悩みや心配があると「息つく間」もなくなることがあります。しかし、神は私たちに安息ができるように、神のひとり子であるイエス・キリストをお与えになったのです。
イエス・キリストは「明日のことまで思い悩むな。その日の苦労はその日だけで十分である」と言われます。私たちに心配事は尽きません。しかし神の大きな愛に包まれていることに心を留めましょう。「空の鳥を見よ。野の花を見よ」。私たちは、働きもせず紡ぎもしない小さな存在をこよなく愛し、わたしたち一人ひとりをも愛してくださる神の恵みに包まれているのですから。これが神の愛であり、キリストの福音なのです。神の導きと守りの中で、安心して、これからの時を歩み出していきましょう。