〇イザヤ書 55章8~13節
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。あなたたちは喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が/おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。
〇説教「 人の思いを高く超える、神の思い 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。本日の礼拝は、2024年最後の礼拝です。年末を迎え、まさに師走と言うようにお忙しく過ごしている方も多いと思います。また寒さが続いています。皆さまの心と体の健康が守られ、この時期を心穏やかに安息しつつ、新年を迎えることができますようにお祈りしたいと思います。
日本においては、12月25日が過ぎると街中は一斉にお正月モードに入ります。早いところではもう門松が備えているお店もあります。教会でも、なんとなく新年の準備を始めなければ落ち着かない方もおられると思います。しかし、実は教会暦、キリスト教の暦では、12月25日の降誕日から降誕節というクリスマスの時期が始まります。私たちはその4週間前からの待降節(アドベント)がありましたので、なんとなくその時期にクリスマスを味わい尽くし、お腹いっぱいな気分になるのもわかりますが、実は25日からが本番です。それはマリアとヨセフがイエスのお生まれの喜びを実感したように、羊飼いたちがイエスにまみえて、その喜びを心の中で自分の出来事にして行ったように、まさにその喜びを確認していく時です。12月25日から公現日(キリストが世に現された日)である1月6日までの期間、私たちはこの喜びを旨にクリスマスの季節を過ごして参りましょう。
聖書には、キリストがお生まれになったのは、神が世に住むすべての人々を愛しておられることを示されるためであったとあります。インマヌエルには「神、我らと共におられる」という意味があります。この神が、私たちに共におられ、平和を示し、希望を与えてくださることによって、私たちは世の困難に陥ったときにも、絶望や失望に終わることなく、倒れても再び立ち上がっていくことができるようになります。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章で、このように言っています。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5:1-5) 。
わたしたちが生きている世には、残念ですが、やはり多くの困難があります。今日の週報巻頭言には、今年起きた色々な出来事を一部書きました。一例を挙げれば、やはり今年元日におきた能登半島地震です。一年が穏やかに平和に暮らすことができるようにと祈願した元日午後に、最大震度7を記録する大地震が発生しました。犠牲者は石川県、新潟県、富山県を含め現在のところ504名。また家屋の全壊倒壊、道路の寸断、また日本海側沿岸一帯に津波警報・注意報が出され、多くの被害がでました。中には実家に帰省したがために災害に巻き込まれたという、家族の心情を考えると、悔やんでも悔やみきれない犠牲もありました。その日からおよそ1年経ちますが、復興は依然として進まず、仮設住宅に住まう人々、避難生活を続けている方々もいます。また9月にはその地域一帯に豪雨が押し寄せ、さらなる被害を出しています。地域に住まう方々のために、またその地域に家族、友人、知人がおられる方々のためにお祈りしたいと思います。
自然災害は、地域は異なれど毎年のように起こっていますが、それが起こるたびに思うのは、何故そんなことが起きるのかということです。自然災害の発生のメカニズムはわかります。また自然の力が脅威なことも知っています。しかし仮に被災した当事者の場合、そんなことで納得できるわけではありません。人は言います。「運が悪かった」。「誰のせいでもない」。でも、私たちは思うのです。「自分の行いが悪かったからじゃないか」、「もっとこうしておけばよかったんじゃないだろうか」あるいは「神さまが本当におられるなら、なんでこんなことになるのか」「神さまに裁かれたんじゃないか」。タラレバを語ればキリはありませんが、そんなことを考えて、私たちは理由付けをしようとします。納得は心を整理し落ち着けようとすることですので、大切なことです。しかしながら、それですべてが解決するわけではありません。
本当にわたしたちの心を守るものは何か、それは悲しんでいるわたしと共に悲しんでくれる人の存在です。誰かが自分と共に泣いてくれるということが大切です。そんな人が一人でもいると、私のおかれている状況は何が変わるわけではなくても、自分の心が変わる。再び立ち上がっていける。これがキリスト教の神が私たちに差し出した愛であり、御子イエス・キリストをこの世に送られた理由であるのです。これは一見、無力なことのように思います。わたしたちが求めることはどちらかと言えば、自然災害がおきないことであり、それで苦しむ方が減ることです。そのための知恵を出してくれる人、あるいはそういう脅威からわたしたちを守ってくれる存在を私たちは求めます。私たちは救い主をそういう存在として求めてしまうのです。
しかし、神はそういう救い主をお送りになりませんでした。そうではなく、もっとも無力で無意味のように思える救い主をお与えになりました。赤ちゃんイエスさまですから即効性はありません。しかし、その方が与えられた意味、神がいつもわたしたちと共におられるを信じることによって、わたしたちには希望と平和が与えられるのです。苦難は忍耐へ。忍耐は練達へ。練達は希望を生む。そしてこの希望はわたしたちを欺くことはない。信仰とは信じることによって何かを為すことではありません。信じればすべてが可能になるわけでもありません。自然災害や人災から守られるわけでもありません。しかし、信仰というものの持つ強さというのは、決して絶望に終わらない希望があるということです。神が共におられるから、わたしたちには希望があるのです。
今日のイザヤ書もそういうことを告げようとしています。実はイザヤ書は66章までありますが、聖書学の中では3つの区分で考えることが一般的になっています。1-39章までの第一イザヤは、紀元前700年ごろに南ユダ王国で活躍した預言者の言葉としてまとめられています。40-55章までは紀元前584年にバビロン捕囚という出来事が起きた後、捕囚から解放されることを預言した内容、56-66章は解放が起きた後の預言と位置付けられています。今日の箇所は、55章ですから第二イザヤが語る解放の希望の結びという内容になっています。
今日は内容について詳しくお話しするのではありません、今日わたしたちがこの一年の終わりに心に留めたいのは、神の言葉への信頼です。神はイザヤを通して告げます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」。
わたしたちは自分たちの思いを持ち、自分たちの道を歩んでいます。その歩みに色々な困難があった時、私たちは苦しいですし、つらい時もあります。でこぼこ道、曲がり道、坂道、色々な道があります。わたしたちは自分だけの道を見ていたらしんどくて倒れてしまいそうになるでしょう。なんたって先行き不透明、これからどのように歩んで行けばわからない毎日です。神に呪いの言葉を叫びたいときもあります。しかし、神は言うのです。わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。わたしの道はあなたの道を高く超えている。預言者エレミヤはこう言っています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」 (エレミヤ29:11) 。
これらの希望の言葉は、バビロン捕囚で苦しい生活をしていた人々には、どう響いたでしょうか。恐らく一足飛びに喜びとか感謝とか、そういうことにはならなかったのではないかと思います。先ほども申し上げたように、神の言葉が実現するのは、時間がかかります。即効的ではないのです。いつになるかわかりません。祈ったら叶う的なそんな単純なことでもありません。しかしその言葉が与えられている事実というものが、私たちの希望になるのです。バビロン捕囚の民は、この言葉を握りしめ、耐え忍んで、その解放の時まで歩んだのです。そして、その約束がついに果たされる時が来た。これが神の言葉の受肉であるイエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事であったのです。
わたしたちは、アドベントの時からイエス・キリストに出会って救われた人々の物語を聖書から読んできました。それら一つ一つの出会いが神がイエス・キリストへの使命であり、人々に神の愛を伝える福音(良き知らせ)であったのです。神はすべての人を愛しておられる。その人がどんな人でも関係ない。何故なら神がすべての人を創造し、その命をお与えになられたからです。
私たちは自然災害や人災だけではなく、人間関係で悩むことがあります。個人的には一生分かり合えない人だっているでしょう。しかし、神はその人のこともまた愛しておられるのです。私たちの思いと神の思いは異なるからです。それでは私たちは、どのように生きて行くのでしょうか。それはこの神の思いを求め、神の国と神の義を求めることであるのです。そして、互いに愛し合って生きて行くようにと言われたイエス・キリストの命令を私たちも受け止めて歩んでいくことなのです。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙の中でこう記しています。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントⅠ 10:13) 。
私たちの世には色々なことが起こります。試練とは、良い意味で試されることと悪い意味で試みられることの二つの意味がありますが、当面私たちにはあまり歓迎されるものではありません。時々、この試みさえなければと思うこともありますし、神は逃れる道を備えていてくださると言いますが、逃れることができないものに直面することだってあります。実はこの試練は迂回する逃れるではなく、神が共にいることによって、最後まで歩み抜いていくことができるのがこの逃れの道であると言われることがあります。
私たち、この一年を振り返り、色々なことがあったと思います。教会のことを振り返っても、それぞれの歩みを振り返っても様々な試練や困難の連続だったかもしれません。人によっては犯してしまった過去の過ちや様々な失敗をしでかしてしまったという方もおられるかもしれません。全てがうまくいったわけではないでしょう。苦しみの渦中の方々もおられます。今まさに親しい人を失い、悲しみの中にある方々もおられるのです。しかし、それでも神が私たちと共にいてくださったからこそ、私たちは今、この時を迎えているのです。神の言葉は、私たちの救いになるからです。もちろん、全てのことに感謝できるわけではないかもしれません。しかし、この一年の守りを神に感謝し、新しい一年、また神の言葉に生かされ、教会で祈りを合わせ、賛美を歌い、共に歩んでまいりましょう。主が私たちの只中におられ、私たちが新しい一年、それぞれの歩みでするべき使命へと導いてくださることを信じて参りましょう。