〇マルコによる福音書 14章12~21節
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」。弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。
〇説教「 過越の小羊イエス 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。寒い朝ですが、今週も皆さまの心と体の健康が守られ、主のみ言葉に希望と力を頂いて新年の歩まれますようにお祈りしています。
わたしたちは、クリスマスを待ち望む待降節と降誕節の間の礼拝を、「神よ、今こそ救いたまえ」というテーマに基づいて聖書個所を選び、共に読んでまいりました。今日からイースターまで、久しぶりに通読をしていたマルコによる福音書の聖書個所に戻ります。今日の箇所はいわゆる最後の晩餐の前段の部分。つまりイエス・キリストが十字架に架けられる前の晩の出来事、イエスが弟子たちの愛を分かち合う場面となっています。約一か月半ぶりの箇所になりますので、文脈をお忘れになった方もおられると思います。改めて状況を説明いたします。
イエス・キリストは元々イスラエルの北部ガリラヤという地域で福音宣教を行っていました。この地域は「異邦人のガリラヤ」と揶揄されたように、宗教的シンボルであるエルサレムから見たら辺境の地であり、軽んじられ差別視されている地域でありました。もちろんイスラエルですのでユダヤ教ファリサイの人々や律法学者のように律法を守ることを大切にする人々もいました。しかし、そういう人々は自分たちの信仰を高く見せるために、さらにより立場の小さい者たちを差別するようになるのです。それは例えば、様々な理由の中で律法を守ることができず罪びとと罵られた人々、徴税人という職業のために仲間外れにされた人々、悩みや病気の中にあり、それはあなたか家族が悪いことをしたからそうなったのだなどと言われ、どこにも助けを求めることができない人々でした。
そういう人々に神の愛を語り、寄り添い、その悩みを共に担われたのがイエスでした。イエスは「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と語り、まさに私たちの側が何か善い行いをしたからとか律法を守ったからという理由によらず、神は先だって私たちを愛してくださっているという無条件の愛を示されました。
これが、まさに様々な病気や思い悩みに苦しんでいた人々、貧しさの中にある者、誰にも理解されず苦しんでいた人々の救いになったのです。私たちが悔い改めて罪から足を洗ったから救ってくださるという条件付きの救いではなく、私たちは何もできない、正しくもなれない罪深い存在であることには変わりない、悔い改めてもまた再び同じことを犯す罪びとである者たちにすぎない。しかし神はそんな私たちのことを愛してくださっているのだ。だから私たちは再び立ち上がっていける。生まれ変わっていけるようになるのです。これが福音であり、神の恵みであるのです。
人々は、そんなイエスをメシア救い主と呼ぶようになりました。実に聖書はイエスが書き記した言葉は何一つ残っていません。イエスに出会って救われた人々がその出来事を語り伝え、まとめられたものが福音書であるのです。人々がどれほど大きな影響をイエスから受けたと言うのでしょう。それは恐らく、人々にとって感動の出来事、また真実の出来事であったからこそ、人々はその教え、その出会いを忘れずにいたと言うことであったのではないかとわたしは思います。
イエスはその後、過越の祭りに合わせ、南部に位置するエルサレムに来ました。エルサレムに入る時、人々は歓呼の声を上げ、イエスを迎えています。来たるべき神の子がやってきた。「神よ、いまこそわれらを救い給え」。このような思いを込めて、彼らは「ホザナ」とイエスを讃えたのです。
ところが、エルサレム神殿において、イエスを邪魔だと思う人々が色々な問答を仕掛けます。その人々は、律法順守を大切にするファリサイ派の人々、神殿儀礼を大切にするサドカイ派の人々、律法学者、またヘロデ派という領主ヘロデの手先となっている人々でした。本来なら神に仕え、人の暮らしを守る立場の人々です。しかしそんな彼らがイエスの抹殺を計画するのです。イエスの12弟子の一人であるイスカリオテのユダがその誘いに乗り、イエスはまさに捕らえられる寸前になっていました。今日の場面は、そんな時にイエスが行った「過越の食事」の個所です。
過越の祭りとは、かつてエジプトで奴隷となっていたイスラエル人が預言者モーセによって導き出されたことを記念した祭りです。詳しくは出エジプト記に記されていますが、なかなか奴隷解放を認めようとしないエジプト王ファラオに対し、神は10の災いを引き起こし、解放を呼びかけます。最後の災いが「初子の死」という災いでした。エジプトに生きている人や家畜の最初の子どもがなくなってしまうという恐ろしい災いです。しかしイスラエル人は、小羊の血を家の門に塗ることでその災いを過ぎ越すことができました。ファラオもこの災いには根負けし、奴隷解放を認めるという流れになります。非常に残酷で恐ろしい出来事ですが、イスラエルの人々からすればこれは解放の出来事ですので、これを忘れないように記念して行い、子どもたちに語り継いでいるのです。これは今もイスラエルのみならず、伝統的なユダヤ人のコミュニティで行われている事柄であります。
イエスはその過越の食事を行うため、弟子たちに不思議なことを言います。「都に行くと水がめを運んでいる人に出会うからついていきなさい。その人が入っていく家の主人に聞いたら部屋を用意してくれる」。実に不思議なことです。都で水がめを運んでいる人なんて五万といたはずです。その内から一人と出会う。その人の行くところの主人が部屋を用意する。こんな偶然あり得ません。でも聖書はそう書いています。もしかしてイエスの協力者が既に用意していたのか、それとも神の力で不思議なことが起きたのかは、わかりません。しかし大切なことは、イエスと弟子たちのために過越の食事のための場所が用意されていて、そこに入ったということ。つまり神の出来事であることです。
そしてここで大切なことは、イエスがこの食卓の交わりの中で、弟子の一人が自分を裏切ろうとしていることを告げていることです。「あなたがたの内の一人で私と一緒に食事しているものが私を裏切ろうとしている」。どれくらいの時間食事をしていたのかはわかりませんが、親しいワイワイとした空気は一瞬で静まり返ったでしょう。
これは、今日の箇所の直前にイスカリオテのユダが祭司長たちにイエスを引き渡す場面が記録されていますから、ユダのことを指していると思われます。しかしこの場面では、具体的には誰のことか明らかにされていません。ですから弟子たちはこう言い始めています。「主よ、まさかわたしのことでは」。聖書の訳し方の問題ですが、この訳では弟子たちが「わたしのことでしょうか?」と申し訳なさそうに尋ねているように思えます。あるいは「弟子たちが心を痛めた」とありますので、悲しむなど自分を振り返る内省的な言葉のようにも受け取れます。でもギリシャ語本文を見てみると、この言葉は、「主よ、私のことであるはずがない」。という意味になりますし、「心を痛める」も悲しむではなく、傷つけられ感情を害するという風にも訳せます。ですから、この言葉の意図するところを考えてみると「まさかわたしのことではありませんよね。違いますよね!?わたしではない他の誰かのことですよね。それは誰か」。感情的になり、あるいは疑心暗鬼になる。裏切るのは間違っても自分ではない。裏切るとしたらあいつじゃないか。このような心の探り合いがここでは起きていたのではないかと思うのです。弟子たちの動揺は隠せません。イエスさまに付き従ってやってきたたった12人の交わりです。色々な立場の違いや思いの違いがありましたが、それでもイエスを求めてやってきた12名です。しかし、その言葉によって私たちは相互に疑い合う関係になってしまうのです。
イエスは言います。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る」。これもまた非常にあいまいな表現です。一緒のタイミングでと言うことなのでしょうか。でもみんなが可能性があることですので、よく分かりません。でも、実は大切なことは、イエスがその者たちを招き共に食事をしているという事実なのです。
そもそも、イエスが弟子に裏切られようとしていることが分かっていたならば、前もってその弟子を交わりから排除するなり、思いとどまらせようとするなりするのではないでしょうか。しかし、イエスは裏切り者をその交わりから排除することをしませんでした。その裏切りがまじかに迫っているこの時でさえ、イエスは裏切る者と共にこの食卓に着いているのです。これが神の愛の食卓なのです。
ですからイエスは続けてこのように言うのです。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」。つまり、これは旧約聖書の預言の成就であるということ、定められた神のご計画なのだということです。つまりこれは私たちが裏切るとか裏切らないとか、そういう人間の思いではどうすることもできない神の出来事であるということなのです。
しかしそれに続く言葉にはドキッとします。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。非常に心に突き刺さる言葉です。もし仮にこの言葉が、「人の子を裏切る者は不幸だ。その人は生まれなかった方がよかった」。というのであれば、これは裏切り者の存在を根底から全否定している裁きの言葉のように受け止められます。
でもイエスは「生まれなかった方が、その者のために良かった」。と言います。「その者のために」と言う言葉が重要です。それは、イエス裏切ることでその本人がうける様々な苦しみに対してのイエスの慰めと配慮の言葉であったように聞こえるからです。
例えば、直接的に裏切ったユダについて考えてみたいと思います。彼がイエス・キリストを裏切った背景は実は定かではありません。色々な理由が考えられます。例えばお金が目的だったとも言われます。マタイによる福音書では、ユダは祭司長から銀貨30枚を受け取っています。しかしこのお金は、およそ30日分の労働対価、つまり月収分であり、当時の奴隷一人分の金額でしかありませんでした。多額のお金に目がくらんでと言うことではなかったのです。しかしそのことによって、彼は「ユダと言えば裏切り者」という一番不名誉なレッテルを張られるようになってしまっているのです。
しかし、実は「裏切る」と言う言葉は、パラディドーミというギリシャ語ですが、元々は引き渡すと言う言葉です。つまり、ユダはそもそもイエスさまを裏切る意図ではなく、自分のすべきだと信じたことをした時に、結果的に彼は祭司長、律法学者に利用されてしまったのかもしれません。
ユダの末路がそれを物語っています。彼はイエスさまが捕らえられ有罪判決を受けたことで我に立ち帰り、自分のしてしまったことを後悔し、自責の念に駆られ、最終的に首をつって死んでしまいました。使徒言行録には地に落ちて死んだと書かれています。これは地獄に落ちるイメージです。マタイ福音書では首を吊っています。恐らく彼は木に吊られたのでしょう。これは聖書の中で最も忌み嫌われる木に架けられて死ぬという呪いの死であり、祝福の正反対です。つまり、ユダは神の祝福を受ける資格はもうないと思い、その道を選んだのです。これは、どれほどの苦しみ、後悔、絶望であったでしょうか。無実な人を売ったその苦しみは、恐らくそうしなければ自らを正気で保てないほどの痛みとなっていたのでしょう。ですからイエスさまが「生まれなかった方が、その者のために良かった」ということは、そのような苦しみの中に入るであろうユダへの慰めの言葉であったと受け止められるのです。
だからこそイエスは、裏切るユダをこの最後の晩餐の交わりから排除されなかったのでしょう。何故ならそれは、イエスがこの過越の祭りの中で犠牲となった小羊であるからです。神の祝福にも等しい初子。その初子が死に至るという恐ろしい出来事を過ぎ越すための小羊の血。それはエジプトで奴隷として縛られていた民に自由と解放を与えるためのものでした。イエスもまた罪と律法に縛られていた人々の救いと解放へと導く福音を伝える者として、その命を人々のために流されたのです。
聖書における「血」とは「命の源」です。イエス・キリストは十字架に磔にされることで流される血を、最後の晩餐において葡萄酒に置き換えて分かち合われました。これはわたしたちがイエスの命をいただき、またその犠牲を覚え、わたしたちの命が救われていることを覚えるために行うものなのです。神の愛は、裏切る者にさえ向いている。その者さえ、地獄に落ちることを望まない。むしろ、その者たちの救いのために、イエスは黄泉に降り3日目によみがえったのではないでしょうか。
イエスの極限の愛、この愛は、誇るものを何も持たないわたしたちに向いています。この愛を受け止めて、この愛に生かされて参りましょう。