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2026年3月1日説教全文「三つの天の国の譬え」

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〇マタイによる福音書 13章44~52節

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。

〇説教「 三つの神の国の譬え 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。三月に入り、暖かな陽気が続いています。春の訪れを感じます。皆さまのご健康と歩みが守られますようにお祈りしております。

私たちは、先週までイエス・キリストの山上の説教からみ言葉を聞いてきました。山上の説教の締めくくりは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。という教えでした。イエスの言葉を聞くだけではなく行うこと。つまり信じて生きることが、私たちの土台を強くするということだとお話ししました。もちろん、そうは言われても信じたいけれど信じることが困難だと思われる方もおられると思います。土台と言うものは一日でなるものではありません。しかしその言葉を疑いつつも受け止めて生きていくときに、気が付くとその言葉が自分の土台になっていることに気づくものなのではないかとも思います。

ですから、私たちは今日も続けてイエスの教えを聞いていきたいと思います。私たちは一昨年以来、最初に成立したと言われるマルコによる福音書を通読してきました。マルコ福音書はイエスの教えに特化した福音書です。誕生物語や復活後の出会いがないことからイエスの生きた福音に集中していることがわかります。マタイによる福音書にはマルコの物語に加え、独自の資料が付加されています。それの主たるものが「山上の説教」です。福音書はそもそもどれが正しいというものではなく、それぞれの著者が伝えようとしている福音が収録されているものですので、これからしばらくの間は、マタイ福音書独自のイエスの教えを聞いていきたいと思います。

今日の聖書箇所はマタイ13章44節から始まる三つの天の国の譬え話です。その内容は「畑の宝」と、「高価な真珠」、「網の魚」です。そして最後に天の国を学んだ学者は自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ていると結ばれています。これらの譬え話はマタイ福音書だけにある話ですので、ここにはマタイが特別に伝えたいことが書かれていると思います。さて、それはいったい何なのでしょうか。じっくりと見ていきましょう。

まず一つ目のたとえ話と二つ目のたとえ話は、ほぼ同じような内容として考えることができます。一つ目の「畑の宝」です。ある人が畑の中に宝を見つけた。ところがその人は宝をそのまま誰にもわからないようにこっそり隠しておいて、誰にも気づかれない内にその畑を丸ごと買い取り、その宝を手に入れるということです。豪快かつ賢いやり方だと思いますが、その宝を間違いなく手に入れるために手段を選ばない姿勢です。しかも喜びながら帰りとあります。つまりその畑の宝は、これまで築いた全財産をはたいても惜しいものではなかったという、すがすがしさが見えます。ということは、そのようにしてまで手に入れたいもの、これが天の国であるということでしょう。

二つ目もほとんど同じです。ある商人が高価な真珠を一つ見つけた。そうしたら出かけていって自分の全財産を売り払ってでもそれを買い求める。その真珠を手に入れるためならば、これまでの自分たちの全てを投げ打っても惜しくない。それが天の国であるとイエスさまは言うのです。

わたしは次週、久しぶりに前任地である神戸バプテスト教会の創立75周年記念礼拝に参加します。ほぼ4年ぶりに懐かしい面々にお会いできることを嬉しく楽しみにしています。もちろん、その後はしっかり福岡に帰ってきますので、ご心配なきようにお願いします。実は、神戸という町は、真珠の町として世界的に有名です。なぜなら、世界に流通する真珠の70%は神戸で選別加工されているからです。神戸教会は神戸北野という風見鶏の館で有名な観光地にありますが、山本通、通称異人館通りを一本下った通りは、パールストリートと呼ばれています。そこにはおよそ220社ほどの真珠関連業者があります。真珠は、今ではとても一般的な装飾品の一つでありますが、約2000年前のイエスの時代はとても高級な装飾品の一つであったそうです。その高級ぶりはどうだったかというと、なんと天然の真珠一粒に一つの小さな国を買えるほどの価値があったようです。こんなエピソードがあります。かの有名なエジプトの女王クレオパトラが、「世界で一番豪勢なパーティーを開く」と言って当時ローマの将軍であったアントニウスを招いたそうです。アントニウスはローマ皇帝の候補者に選ばれたほどの大将軍です。その時クレオパトラは耳につけていた真珠を外してワインビネガーに入れて溶かして飲んだそうです。これには豪華なパーティーには慣れていたはずのアントニウスもびっくりして、まさに世界で一番豪勢なパーティーであったと敬服したというお話です。雲の上の方々の世界のお話しなので、私たちには実感としてはまったくわからないわけですが、確かに聖書の時代の真珠にそんな価値があれば自分の全財産をかけても良いほどのビジネスになっていたものだと思います。

つまり、この二つの譬え話で言いたいことは、天の国とは、自分が持っているものをすべて売り払っても惜しみないほどのものであるということ。そして、そのようにして手に入れた宝や宝石というものは、私たちがこれまでもっていた財産よりもはるかに尊いものであるということ。そして手に入れたものは、その価値を生み出し続けていくものであるということでしょう。

天の国がそんなものなら何としても手に入れたいと思うものです。しかしながら、それでも自分が持っているものをすべて売り払うということはかなり勇気のいることだと思います。非常にハードルが高いと感じます。こう思う時に、マタイ19章の「金持ちの青年」の話を思い起こします。イエスは永遠のいのちを得ることを求めて自分のところに来た若者に対し、「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから私に従いなさい」と言いました。これに対して若者は悲しみながら立ち去ったという話です。つまり、天の国、永遠のいのちがどんなに欲しくても、私たちにはこれまでの生活があり、そう簡単にはそれと引き換えにするということができない葛藤があるということです。

私たちはどうでしょうか。皆さんが自分の住んでいる家やその他財産を売り払ってでも畑の宝を買いなさいと言われたらどうでしょうか。これはなかなかに難しいお話だと思いませんか。使徒言行録5章に「アナニアとサフィラの話」があります。この二人は教会に捧げるために自分の土地を売りましたが、その値段をごまかして少しだけ自分たちの為に隠しておきました。ところが弟子たちはそれを見抜き、彼らの嘘が明らかになり、彼らは死んでしまったという話でした。この話を聞いた人たちは皆非常に恐れたと記されていますが、正直に言うと私もこの話はとても怖いと思います。自分自身は果たして本当に神さまに正直にすべてを捧げているかということを突き付けられるからです。

アナニアとサフィラは土地の値段をごまかしたとのことですが、どれくらい自分たちのためにとっておいたのでしょうか。|割でしょうか、それとも、3割くらいは取っておいたのでしょうか。わかりませんが、でもその残りの相当な金額を捧げたとのだと思います。それもしなさいと命令されたからではなく、彼らが自分たちで進み出た自発的な献金です。本来なら誰に何を言われる筋合いもありません。むしろすごいことだと思います。振り返ってみて、私たちが今神様に捧げているものは多くて1/10です。しかもそれも満足にできないような厳しい状況もあるわけです。しかし、それは仕方ないのではないかと思うのです。アナニアとサフィラは確かに嘘をつきました。しかし、それよりも彼らが神さまのために差し出したということを評価したいと思うのです。それが人間ではないでしょうか。自ら捧げたい思いは顧みられず、嘘だけが問題にされるのでしょうか、それが本当に罪とされるのでしょうか。

もし今日の三つ目の「網の魚」の譬え話のように、天の国が取捨選択されて良いものが入り悪いものが捨てられるということであればそういうことなのかもしれません。しかしそうだとするならば、果たして誰が天の国に入れると言うのでしょうか。私たちは、すべて多かれ少なかれ罪びととして裁かれてしまうのではないでしょうか。しかし、聖書を読んでみると、イエス・キリストはそういう罪びとたちを救うために来られた方なのだということに気が付きます。むしろイエスはそのような正義を語り、律法を守る人に裁かれ、罪びとの頭として人に捨てられ、十字架にかけられた方であるのです。それならば、この三つ目の教えは何を言おうとしているのでしょうか。それを考えるとき、マタイ福音書の独自の文脈があるということに注意することが大切です。実はマタイ福音書は紀元80年代に西シリアの都市圏で成立したと言われています。そして内容が律法主義やファリサイ派への批判を含んでいることを考えると、主にイスラエルの人々に本当の神の愛を伝えることが目的の一つであったと思われます。そしてこの福音書が異邦人世界で成立したことを考えると、信仰を守ることが困難な時代においてもイエスの愛を信じる者として生きていくことを勧めているのです。だから、どんな選別があったとしても信仰を捨てず、しっかりと神の愛に生かされていくことを伝えようとしていると考えられます。

私たちは、網の魚が選別されると聞くと、誰が良い魚、誰が悪い魚かということを判断しようとします。私たちは良し悪しと言うと、信仰の結ぶ実とか行いで判断しようとすることが多いと思います。しかし、果たして行いで判断すると言うのであれば、それは律法主義がしていることと変わりはありません。イエスの教えはそうではありません。実は、何によってこの良し悪しというものが決められるかは定かではありません。ですからイエスがこの譬えで言おうとしているのは、第一にはそれを判断するのは私たちではないということなのです。そうではなく裁きはいつか来る時に神に委ね、私たちは同じ一つの網に救われた魚として生きていこうということなのではないでしょうか。つまり、その網そのものが天の国であると私は思うのです。問われているのは、そういう神の愛の中で私たちがどのように生きていくのかということ。これが良し悪しの判断になるのではないかと思うのです。畑の宝、高価な真珠を求めるように、私たちは神の愛を大切にしているでしょうか、ということの問いかけです。

先ほどの「金持ちの青年」の話では、彼はイエスに従うことを諦めて帰ってしまいました。でもよくよく読んでみると、イエスはそれを全部捧げないといけないと言ったわけではありません。そこから離れていったのは彼自身での判断でありました。もし彼がその場で、「私には無理です、それ全部はできません。しかしあなたに従っていきたいのです」と食い下がったとしたら、イエスはどう言われたのかなと思うわけです。神の国はあなたがたに近づいたとはいうけれども、結局のところ私たちが悔い改めてない、方向転換ができていないと、やはり私たちは裁かれてしまうということなのでしょうか。確かに裁かれても仕方ない自分だとは思います。でも、イエス・キリストの愛は、そのいのちの限り、十字架にかけられるほどに私たちを愛しぬいてくださったその愛は、まさに十字架上で「主よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか、わからないのです」。と話されたように、罪びとたちへの憐れみに他ならなかったのではないかと思うのです。イエス・キリストの救いが無条件の救いであるならば、悔い改めと引き換えという条件付きであることはやはりおかしいと思います。

私たちはイエス・キリストの語る神の国を誤解してはならないのです。その国とは、私たちがどんな人間であろうと、一方的に向こうからこちらにやって来て私たちに開かれている神の国であるのです。

最後にイエスは天の国を学んだ学者について話します。それは自分の倉から新しいもの、古いものを取り出す主人に似ていると言います。実はこの倉とは「宝箱」のことです。この宝箱に入っている者は何でしょうか。さきほど、真珠は非常に高価なものだったとお話ししました。しかし実は聖書で真珠が出てくるときはほぼ必ず比較の中で語られており、真珠よりも価値があるものが示されています。真珠より価値のあるもの、それは「知恵」です。この神の知恵が宝箱に詰まっているのです。神の知恵とは人の知恵より勝るものであり、私たちはそれを自分たちで判断することはできません。まさに「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:9)であり、神の知恵は人より賢いのです。そして主がその知恵をもって示そうとしていることは、すべての者のいのちを無条件で愛しておられるということなのです。イエス・キリストはそのために十字架に至るまでにわたしたちを愛されました。私たちがどんな者でもそのいのちを守るものが主の愛なのです。決して人を切り捨てるためのものではありません。この神の愛が今、私たちに与えられているということを覚え、感謝しましょう。お祈りしましょう。

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