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奴隷であった一人の少女(2019年5月)

 今回は列王記下5:1~27を通してナアマンと一人の少女について学びたいと思います。ナアマンは「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた」人物でした。その名の意味は「喜び」「心地よい」です。しかし彼の身に生じた重い皮膚病が彼の人生を喜べない、不快なものにしていました。誰の人

「母の愛に感謝して」

創世記では、神が美しい園を造り、アダムとエバを出会わせて家族となり、彼らの間に与えられる新しい命を祝福されました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ』」(創世記1:28)。また十戒の中で神は子どもたちに対しお命じになりました。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与

「主の業に励みなさい」

全ての福音書は主イエスの十字架上の死を記しています。しかしそこで筆を置かず、そのイエスを父なる神が復活させられたと告げているのです。復活がなければ十字架の死は愛に生き愛に死んだイエスの美しい美談で終わってしまいます。復活があるからこそ、イエスの死は意味のある死、即ち「神はおられる」という存在証明であ

「いかに幸いなことか」

詩編には「いかに幸いなことか」という言葉が実に24回も出てきます。代表的なものを挙げてみます。まず詩編1:1~2です。いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず/主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。詩編128:1にも出てきます

「十字架のイエスこそ私たちの誇り」

マルコ福音書14章以下は「受難物語」と言われ、主イエスの十字架の出来事が語られています。ですからある人はマルコ福音書のことを「長い序文をもった受難物語」と言っています。受難物語の基本的な流れはマタイとルカ両福音書とも同じです。主イエスの十字架刑が執行されたのはエルサレム、その地にいたキリスト者た

「復活なさったのだ」

主イエスはユダヤの宗教指導者カイアファ、ローマ総督ピラト、そして扇動された多くの群衆によって十字架に架けられました。人々の目には主イエスの死は神の呪い、無力、愚かなものに思えました。しかし主イエスの口から洩れた言葉は「父よ、彼らをお赦しください」であり、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でし

「イエスは祈っておられた」

マルコ福音書一章三五節に次のような注目すべき言葉が記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」この言葉の前には主イエスの多忙さが記されており、音楽に例えると曲想が変わり、その後再び主イエスの多忙な宣教活動が描かれているのです。福音書記者

問29: それでは祈りとは何ですか。

答:祈りは、私たちの切実な願いと求めを神に告げて、今ここにある私たちに対す る神の意志を示されることであります。ですから、特に宗教的な聖い場所で特に宗教的な事柄についてのみでなく、む しろこの世の中で個人的社会的窮乏の中から、いわゆる世俗的事がらについ て、祈るのです。そこで、この世の中にまきこまれ

問28:それでは私たちの信仰生活は、主の日に礼拝を守り、説教を聞いて礼拝 に出席しておれば、それでよいのですか。

答:いいえ。それだけでは私たちの信仰生活は、多く受け身にとどまることになります。私たちは祈らねばなりません。祈りによって、私たちの方から本当に神を求め、事実神を信じていることを表すのです。信仰生活の心棒としての礼拝礼拝を軽視する信仰生活はありえない。それは不健康な信仰生活に陥る最短の

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