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問13:聖書とは何ですか。

答:聖書は、旧約39巻、新約27巻、全部で66巻よりなる、古代の異民族の人々の書いたさまざまな文書集、今日までそして今も読む値打ちのある書物すなわち古典であります。聖書は「古典」であると言います。ひょっとすると、皆さんの中には「聖書は古典以上のものだ」と言われる方もいらっしゃるでしょう。確かにそ

問11:あなたはどこにイエスを求めて行くのですか。

答:やはり聖書に行くよりほかありません。自分で聖書を読みまた教会でこれを聞くのです(ヨハネ5:39)イエスについて書いた本はたくさんあります。例えば、バーバラ・スィーリングの『イエスのミステリー』がNHK出版から翻訳出版された時、キリスト教が書き換えられるだろうというような宣伝ぶりでした。また最

問10:それではあなたは、聖書から聞いて信じ、いつも神と共にあるのですか。

答:いいえ、私もやはりそこから落ちて失われているのです。この世の混沌の中に巻き込まれ、無力で虚しく、罪を犯しています。ただ私はいつも聞いて信じたい、神と共にありたいと切に願っています。「無信仰な私を助けてください」。「はい、いつも…」と答えたいですが、「いいえ」と正直に答えています。そして「いつ

問8:それでは、私たちは個人としても人類としても、生きる希望は残っていないのですか。

答:いいえ、決してそうではありません。私には、また「見よ、私はきょう、あなたの前にいのちと死との道、幸いと災いの道をおく」(申命記30:15、19、エレミヤ21:8)という、「静かな細い声」(列王記上19:12)がひびいてくるのです(申命記30:15~18、ヨシュア記8:34、エレミヤ21:8)。

問7:あなたの思いは間違っていないでしょう。すると私たち人間は、これからさきどうなるのでしょうか。

答:私たちはすべての生物と同じくついに土に帰るでしょう。しかし私たちの子孫は、つぎつぎと生まれてくることでしょう。けれども私たち人類はいつまでも生存し続けるでしょうか。大昔、この地にはびこりその繁栄をほこった羊歯(しだ)や爬虫類(はちゅうるい)も大きくなり過ぎてついに滅亡してしまったように、人類もま

問6:それは、実際にはどういうことなのでしょう。

答:はっきり言い表すことはむずかしいのですが、私たち人間の世界は何か混沌として、すべてが空しく過ぎ去っていきます。しかしそれは創造以前の「形なく、むなしく、やみが淵をおおう」混沌ではなく、私たち人間に責任があり、その根源に人間の罪責があるように思われます。創世記3章にはアダムとエ

問5:それでは、私たちは今ここで、造られたとおりの人間として生き、動き、存在しているのでしょうか。

答:いいえ、むしろ私たちは、自分の頭と手によって、神のように賢く偉くなろうとして、創造の根源から失われています。私たちは自由な人格としてたがいの交わりを求めあいながら、しかも孤独でしばしばたがいに誤解し争っています。いわゆるたがいの断絶を経験しているのです。あらゆる争闘も戦争もまた根本的にはここに起

問4:人間とはいったい何者なのでしょうか。

答:人間は一つの生き物として、しかも頭と手によってものを創り出す自由な人格(神の像)として造られました。しかし人間は、天地の間にひとり自由に存在するのみでなく、また自分の創造者である神と、他の自分とおなじ人との交わりにおいて存在しています。ここには学ぶべきいろいろのことがあります。第1に

問3:あなたは、だれですか。

答:わたしは、ほかにかけがえのない私というひとりの人間である、と言うべきでしょう。神によって創造された人間、かけがえのない存在、他の何をもってしても取り替えることが不可能な存在です。仏教の言葉に「愛別離苦」というのがあります。愛する者と別れなければならない苦しみです。先だってスキーバスの転落

問2:どこから始めましょうか。・・・どこからでもよいのですね。 キリスト教は個々の教えの寄せ集めではなく、一つの生き物のように、その心臓部から、どの部分にも同じ血がかよって生きているのですから。

答:そうです。キリスト教の全体をぼんやりととらえるよりも一部分でも生きたいのちにふれる方が、はるかに大切であると思います。松木治三郎先生の著書『人間』の中に「聖書一句の人」という説教があります。アウグスティヌスにとってはローマの信徒への手紙13章13節以下、ルターにとってはローマの信徒への手

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