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2022年10月9日説教全文「迷い出た羊を喜ぶ羊飼い」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マタイによる福音書18章10~14節

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。

〇説教「迷い出た羊を喜ぶ羊飼い」

本日の聖書個所は、「100匹の群れから迷い出た1匹の羊を探しに行く羊飼い」のお話ですが、それに関連して私が牧師として願っている基本的な牧会方針についてお話をさせていただきます。

この譬え話はとても有名で、「迷子のメーコ」という紙芝居や様々な絵本にも使われています。教会学校などで古くから親しまれてきた聖書個所だと思います。聖書個所ではマタイ福音書とルカ福音書に取り上げられているこのお話ですが、内容や文脈を読んでみると、それぞれに若干の違いがあります。ルカでは「悔い改めた罪びとを喜ぶ」という文脈で登場するのに対し、マタイでは「小さな者を配慮する神の愛」の文脈でこの話が登場しているからです。悔い改めが神の元に立ち返ることを指すならば、迷い出るというのは神の群れから離れることを意味するわけです。ですから語られている方向性は正反対だと思います。私たちは福音書によって似ているけれどちょっと違うお話を見ると、じゃあ一体どっちが正しいのかということが気になってしまいますが、大切なのはどちらが正しいかではなく、それぞれの文脈の中でいったい何が語られようとしているかということです。今日のマタイの文脈では、イエスさまは、「迷わずにいた99匹よりも迷い出た1匹を喜んだ」と言うのです。これは一体どういうことなのでしょうか。聖書に聞いて参りましょう。

実は今日の聖書個所が登場するマタイ18章には、一貫して「小さな者」というキーワードの基にイエスさまのお話しがまとめまれています。まず最初に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、天の国に入ることはできない。自分を低くして子どものようになる人が天の国では一番偉い」。と語られ、その後「わたしを信じるこれらの小さな者を躓かせるものは不幸だ」と語っています。イエスさまは、弟子たちの「天の国で誰が一番偉いか」という質問に答えてこう言われているわけですが、やはり私たちの感覚で言うと、天の国で一番偉い人は、信仰面で立派で誠実で品行方正な人だと思います。弟子たちも当然そのようなイメージを持っていたことでしょう。でも、イエスさまはそうではない、子どものように自分を低くする者、つまり何も誇るものを持たない者なのだとはっきり言うのです。
この「小さな者」は、ギリシャ語で「ミクロス」と言う言葉ですが、これは最も小さい者の他に、吹けば飛ぶような者、他の人の目にも留まらないような存在とも言うことができると思います。これは低くなるなどという遜りではなく、最も弱く小さくされた者だということです。「わたしを信じるこれらの小さな者」と言う言葉から考えると、この小さな者たちとは、「イエスさまを信じなければやっていくことさえできない、イエスさまの言葉に寄りすがる他ない者」という印象を受けます。
そもそも自分だけで立っていくこともできないような最も小さな者です。私たちはそのような人をどのように見ているでしょうか。残念ながらそのような方々のことを軽んじたりすることがあるのが私たちの社会です。でもそんな私たちにとって今日の箇所は、イエスさまの忠告であり、かつイエスさまの愛の方向性を示すものとして響くのです。イエスさまの愛は、いわゆる普通の人では迷わないような社会の中で、迷い出てしまった人たちに向いているということ。それが明確に出ているのが、今日の箇所です。譬え話に入ります。

ある人が100匹の羊を持っていてその内の1匹が群れから迷い出てしまいました。そんな時、私たちはどうするでしょうかというお話です。私たちはこういう時、リスクを考えることに慣れています。ですからわたしがこの羊飼いならば、こう考えます。「これは大変なことになった。どうしよう。1匹を探しに行きたい気はするけれど、99匹を山に残しておいて、またいなくなってしまったら大変だ。山にはまだまだ野獣がいるだろう。二次被害を防ぐためにもこの群れを守らなければいけない。その1匹はもちろん惜しい気がするけど、1匹だけなら仕方ない。羊の自業自得だ。自己責任だ。私のせいではない。迷い出た羊がばかだったんだ。他の従順な羊と比べるわけにはいかない。残酷だけど、他の羊を守るため、その一匹を見捨てるよりほかはない」。みなさんならどうでしょうか?諦めないで、リスクを負うことを承知でその一匹の羊を求めていくでしょうか。恐らくはそうではないと思います。何故ならば私たちの社会はより多数を守るために少数者を切り捨てる社会です。99匹を守るために1匹を切り捨てることで社会は成り立っているからです。
そんな社会に生きる私が、もしこの1匹を助けに行く選択をするとしたら、どういうケースが考えられるでしょうか。例えば、その一匹がとても大切で価値のある羊、あるいはお気に入りの羊であった場合でしょうか。他の羊たちよりもその一匹が大事だ。他の99匹と引き換えにしても惜しくないと思う羊だったとしたら、私は出かけるかもしれません。でもそれくらいの思いがないと、あまりにリスクが高すぎることだと思います。
あるいは他の羊への配慮も考える必要があるでしょう。99匹を置いて1匹だけを探しに行ったら不公平だ。無責任だと不満が起こることもあるかもしれません。自分で群れを離れたその一匹なんて放っておいて、私たちの世話をしなさいという声が上がる可能性もあります。でもこのように考えていくと私は結局のところこの羊たちを100匹の内の1匹という数でしか見ていないということに気付きます。

でも恐らくこの羊飼いはその一匹の羊を数字上のたった1匹とは見ていなかったのではないかと思うのです。1匹だから仕方ないではなく、その固有のたった一匹しかいない大切な羊であったから助けに出かけたのだと思うのです。損得抜きです。その羊のことが心配で恐らくは一心不乱に飛び出していったようにも思います。もちろん、他の羊を山に置いていく危険性は百も承知だったでしょう。しかしその一匹のことを思うと、いてもたってもいられないような状態だったのではないでしょうか。
他の99匹の羊たちはどう思ったでしょうか。山に残されることに不安になったのでしょうか。不満の声を上げたでしょうか。いえ、恐らくそうではないと思うのです。むしろその一匹に向けられる深い愛に彼らはより羊飼いに誠実さを感じ、その信頼を厚くしたのではないかと思うのです。
何故ならば、その羊飼いにとっては、その羊だけが特別だったのではなく、すべての羊が等しく特別であるからです。ですからもし仮に彼が迷い出た一匹を連れて帰ってきたときに、一匹ないし数匹がもしいなくなっていたという事態があったとしても、彼はまた同じように私たちを一匹ずつ丁寧に探しに来てくれるに違いないという信頼を深めるということになって行くのだと思うのです。
神はそのように、私たち一人一人を大切に思っておられ、その名前を呼び、ご自分のもとへと招かれる方である。そのようなメッセージを私たちはこの箇所から受け取ることができます。本当に心が熱くされるストーリーですし、実は私は信仰告白をこの箇所からしています。

しかし今はそれだけで終わるわけにはいきません。またこのメッセージは私たちにも問いかけてくるからです。私たちはそのイエスさまの言葉をどう聞き、どう歩んでいるかを振り返らなければなりません。それはそもそもこの一匹の羊は、何故群れから離れたのでしょうかということです。自ら思い立って群れを離れたのでしょうか。それとも何らかの事情で群れにいることができなくなったのでしょうか。群れというのは個々の存在の集合体ですが、そこには価値観を共にし、同じ方向を向いて歩みを進めるというイメージがあります。ところがそのような群れから迷い出ること、或いは離れざるを得ないことがあるのです。例えば、ユダヤ社会はまさに律法(神の言葉)による群れでしたが、そこから自覚的に離れたのがイエス・キリストその人であったと言えます。離れたと言いましたが自立したというか、その社会の中で文化に染まるのではなく、福音と言う真理に立って歩んだということです。ですからイエスさまは、その群れの内実が律法を語るのに神の愛を行っていない現実を批判してファリサイ派や律法主義者を「白く塗った墓石」と言われました。そしてその群れから排除された「小さな者たち」に寄り添って生きて行かれ、「あなたがたは地の塩、世の光である」と語られたのです。

集団から離れた、話された者たちに語り掛けるこの言葉にやはりメッセージ性があると思います。何故ならば、やはりそのような人々こそがその集団が持つ特有の問題性に気付くからです。いわゆる普通の99匹は自分たちが入れるならそれでよいと思っているか、そもそも問題意識を持つこともないものです。でも、集団というものが改善していくためには、その一匹が必要なのです。むしろその1匹がいるからこそ、私たちはその集団を新しくその一匹も共にいることができる群れになっていくことができるからです。
私はイエスさまがその一匹を喜んだと言われるのは、そのような意味でもあるのかなと思います。何故ならば、そのような文脈で考えるからこそ、私はイエスさまがその迷い出た一匹を喜んだと言われつつ、その一匹を探すということに繋がるのだと思うのです。自ら迷い出たことを喜ぶのであれば必ずしも探し出す必要はないわけと思うのです。自由に生きていけばよいからです。でもイエスさまはその羊を探し、恐らくまた群れに戻したのだと思います。(マタイではそこまで書いてありませんが。)何故再び羊を群れに戻す必要があったのでしょうか。また迷い出てしまうことになるのではないでしょうか。でも、恐らくはそうではないのです。イエスさまに連れ戻された羊は、元の群れに戻っても、もはや昔と同じようではいられないと思うのです。それは、迷い出た自分を喜び、そして見つけ出してくださる方の信頼関係の元で、これからの歩みを送っていくことができるからです。
またそのような羊が戻ってきた群れもまた同じではいられません。その羊と共に生きて行くようにイエスさまの姿によって変えられていくからであります。

さて、私たちはどうでしょうか。100匹の羊がいて1匹がいなくなったらどうするでしょうか。もしこの見失った羊が数字上の一人、ではなく名前のある、知っている人の一人であれば、恐らく私たちもやはり探しに行くのではないでしょうか。例えば西南学院教会の1人だったとしたらどうでしょうか。1人の人が教会に来られなくなった。そうしたらやはり探しに行くのではないでしょうか。そしてどうして来られなくなったのか理由を聞いて、また来られるように対応するのではないかと思うのです。
もしそれをしないということであれば、それはその人の名前を知らず気にかけていないということ、その人の痛みに寄り添わないことになってしまうのではないでしょうか。それは果たして教会というのでしょうか。名前を知り名前で挨拶できるようになれば、そこで個人との関係が生まれます。古くからいる方も新しい方も平等な関係性が持てるのです。私はその関係こそが教会と言う、イエス・キリストに召された者たち、その羊の群れとしてはとても大切なのではないかと思うのです。

先週の礼拝の後、私たちは共に主の晩餐式を守りました。式文が変わったことでこれまでと違う印象を持たれた方もおられたと思います。主の晩餐で私が最も大切だと思うのは、何も誇ることができない私たちが共にイエス・キリストに招かれ、その恵みに預かるということです。それはイエス・キリストの十字架の犠牲と復活の希望抜きにはやっていくことができない私たちにイエス・キリストが寄り添ってくださること、その希望を隣人と共に分かち合うことでした。その分かち合うということが、私たちにはやはり大切なのです。私たちはその神の言葉であるイエス・キリストを毎週共に分かち合っているからです。そしてそれは、私たちの出会いによってやはり変えられてくる事柄なのだと思うのです。
先週の主の晩餐の後、ある人とお話ししました。その方はごく最近教会に来られるようになった方です。その人に聞いたところ、自分はクリスチャンであるけれど主の晩餐式のパンを取らなかったということでした。その理由を尋ねると「アレルギーがあるから」ということでした。私はその方にこれまでに行っていた教会ではどのような対応があったのかを聞きました。そしてどんな種類のパンであれば共に主の晩餐式を守ることができるかを聞きました。彼の言葉によれば、これまでの教会ではそのことで自分のことが気にかけられたことはなく、何の対応も配慮もなかったということでした。みなさん、どう思いますか。主の晩餐が一つのイエス・キリストの体を分かち合うものであるなら、一つのパンを分けたほうが良いという意見もあるかもしれません。でも私たちの主の晩餐は配慮であり、イエス・キリストの体の一体性を共に分かち合うということでもあります。それを考えるなら、私たちは色々な方々と共にイエス・キリストの体を分かち合うために、例えば複数の種類のパンを用意するということもできるのだと思うのです。
迷い出た一匹、その人との対話の中で、私たちの教会はより広げられて行きます。そして、それが私たちがイエスさまに出会っていく、イエスさまに従っていくこと。イエスさまの福音を分かち合う教会になって行くということなのではないかと思うのです。イエスさまの伴いの中、イエスさまの言葉に生かされて、今週も歩んでまいりましょう。

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