メッセージ

2022年11月6日説教全文「あなたがたが食べ物を与えなさい」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 マルコによる福音書 6章30~44節

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」。これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」。弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です」。そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

〇説教「あなたがたが食べ物を与えなさい」

みなさんおはようございます。今日は、「5000人の給食」あるいは「共食」と呼ばれる有名な聖書箇所から、イエス・キリストの食卓である「主の晩餐式」について黙想したいと思いますがその前に。
先月10月、私はこの西南学院バプテスト教会の牧師に就任して初めて主の晩餐式を執り行いました。これまでは踊先生が日本基督教団の式文をお使いでしたが、私はそれとは異なる式文で執り行いましたので、内容に違和感を覚えられた方もおられると思います。実はその式文は私が自分で作ったものです。「式文」というときちんと制定された言葉で、変わってはいけないもののような印象を与えますが、私は刻一刻と変化する時代の中で語られる言葉は変化していって良いものだと考えています。私が作った式文は、神戸時代に使っていたものとも異なります。これまでの出会いと対話の元にしつつ、この教会で用いられていた式文を参考にして改めて作ったのです。今日も後ほど主の晩餐式を執り行いますが、前回とはまた少し異なる文章での式になります。式の中で語られる言葉、あるいはその動作に込めている思いに心を寄せて受けていただきたいと思います。

さて、今日私たちはこの5000人の給食と呼ばれる個所から主の晩餐式についても黙想すると言いました。皆さまのなかには主の晩餐式といえば、「最後の晩餐」の箇所を想像する方が多いのではないかと思います。イエス・キリストは十字架にかけられる前日、弟子たちを御許に招き、ご自分のパンを割き、「取りなさい。これは私の体である」。葡萄酒を「この杯から飲みなさい。これは多くの人のために流される私の血、契約の血である」。と言われました。そして弟子たちはイエス・キリストを記念してこれを守ってきました。使途パウロはⅠコリ11:26以降にこう言っています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。今日のキリスト教会は、この言葉によって自らを省み、改めてイエス・キリストの愛によって罪清められて生きる悔い改めの中で、この出来事を守ってきました。この出来事は「聖餐式」と呼ばれる儀式となり、イエス・キリストを信じた者たちが、その思いを改める時となりました。

しかし私たちは今日、「聖餐式」ではなく「主の晩餐式」として守っています。もちろん聖餐式として守っている教会も多くあります。日本キリスト教団なんかはそうですし、特に改革長老派の教会は、毎月一度ではなく年に数回しか行いません。それくらい聖餐式に臨む自己の振り返りを大切にしているからです。しかし私たちバプテストは聖餐ではなく「主の晩餐」としてこれを守っています。この文言の変化には意味があります。それは聖餐式のように、主を信じバプテスマを受けて清められた者たちだけが特別に招かれた食卓ではないということです。主の晩餐とは、主イエス・キリストの食卓のことです。その食卓はどのような食卓でしょうか。それは、どこにも行く場所もない、誰からも愛されない。悔い改めることさえできない罪びとである私たちに一方的に与えられた恵みであり、その十字架と復活によって、すべての人に開かれた神の国の祝宴の先取りであるのではないでしょうか。ですから私たちはこの出来事を秘跡(サクラメント:これを受けることによって救われる)のではなく、キリストの恵みへの応答(オーディナンス)として守るのです。それは、選ばれた人だけが招かれる食卓ではなく、罪びとに過ぎない私たち、悔い改めても同じことを繰り返す私たちに一方的に向けられている愛に私たちが感動し、そのイエス・キリストの歩みを記念し、応えていくことであります。

私は今日のマタイ福音書の「5000人の給食」がまさにイエス・キリストの食卓だと思います。
このお話は福音書の中で最も不思議な出来事の一つです。賛美の祈りをしてパンと魚を裂いて配ったら男性だけで5000人が食べて満腹したというのです。女性と子どもを含めたら倍ぐらいの人数がいたのではないかとも言われます。いったいどんなパンと魚だったのでしょうか。元々大きかったのかそれとも分けたら増えたのかと想像は膨らみます。しかもこのような不可解な出来事にもかかわらず、この物語は4つの福音書すべてに収録されているのです。つまりこれはとても大切な意味があるということでしょう。この箇所が語ろうとしていることは一体何なのでしょうか。
実はこの物語は各福音書によってそれぞれ若干異なる形で収録されています。それはそれぞれが伝えようとしていることが違うということです。例えばヨハネによる福音書で有名なのは「少年がパンと魚を差し出した」ことです。少年のお弁当ですからたかが知れているものです。しかしそのたかが知れているものでも献げる時、神はその献げものを祝福し、すべての人の必要を満たすことに繋がるという読み方をすることができます。

それではマルコが伝えようとしていることは何でしょうか。私が、今回心に留めたいのは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とのイエスさまの言葉であり、それを拒絶する弟子たちの姿があらわにされるその文脈です。実はマルコの文脈では、五つのパンは二匹の魚は弟子たちの食事です。文脈を確認してみると、イエスさま一行がこの出来事の前に行っていたのは、弟子たちの宣教報告を聞くことでした。そしてイエスさまが弟子たちをねぎらい、休息させるために船に乗せたということがこの出来事の始まりであり、マルコ特有の文脈になっています。ところが、弟子たちが岸についてみると、そこには大勢に群衆が押し寄せてきていました。みなさんが弟子の立場だったらどうするでしょうか。もちろん使命感はあるでしょう。彼らはイエス様を求めてやってきたのだ。イエス様はそんな人々を見過ごしにできる方ではありません。そしてイエス様は彼らを「飼い主のいない羊のように憐れみ」教え始められました。弟子たちもまた、体に疲れを覚えているけれど、もうすぐ休憩がやってくる、最後のひと仕事だ」。と人々に仕えていったのだと思います。
ところが次第に夜が更けてきました。弟子たちも次第に疲れを隠すことができないようになってきています。彼らの心の内を考えてみると、「さすがにもうそろそろいいでしょう。それどころかイエス様が熱くなりすぎている。ほかの人々のことも心配だ。そろそろ解散させたほうがよいだろう。何より私たちの体力も限界、お腹もペコペコだ」。そこで弟子はイエス様にそのように語りかけたわけです。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」。ところがイエス様は言われるのです。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」。

さて、皆さんが弟子たちであったら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。「体力も気力も限界です。早く休みたい。また群衆たちの帰りの道も心配だ。確かにパンがあればいいけれど、そんな大量のパンがあるわけない。それよりも先生は私たちの心配はしてくれないのか。なんで先生、そんな無茶なことを言うのですか?」もし彼らの気力がある状況で彼らに200デナリオンあったら、彼らは買い求めに行ったかもしれません。でも、それができない状況にあった。しかも、その疲労困憊具合をイエス様に分かってほしいということで、弟子たちはそのような思いで発言したように思えるのです。ところがイエスさまは言います。「パンはいくつあるのか。調べてきなさい」。
彼らが持っていたパンというのは、この文脈上で考えると、まさに弟子たちが休息の時に食べるパンでしかありませんでした。何よりも弟子たちが一番楽しみにしていたパンです。弟子たちはどう思ったでしょうか?「イエスさま、いったい何をおっしゃるのですか。あなた方が食べ物を与えなさいって、わたしたちのパンを与えるということですか?ちょっと待ってくださいよ。そのパンは私たちのです。私たちが宣教の働きをして、あなたから「よくやったごくろうさま」と言われ、これから食べようとしているパンじゃないですか。それをあなたは私たちの手から取り上げてほかの人に与えようとしているのですか。もうびっくりです」。と思ってもおかしくありません。しかしなんとイエス様はそのパンと魚を惜しみなく弟子たちの手から取り、ほかの人々の手に分け与えてしまったのです。みなさんだったらどう思うでしょうか。不信感が出てきてもおかしくなかったのではないかと思います。

しかし驚くことに、そのパンと魚が分かち合われたときに、多くの人々を満腹にさせていったのです。「満腹」という言葉は「満ち足りた」という意味でもあります。つまり、彼らは食べ物で胃袋が満たされただけではなく、イエス・キリストとの関係において、体も心も満たされたのです。
すべての人が満腹したとあります。ここには弟子たちも含まれていました。弟子たちは当初自分たちのお腹が満たされること、自分たちの休息を得ることしか考えられていなかったと思います。でもそれは自分たちと群衆を切り離すことでした。しかし、イエスさまの祝福の御業を覚える時に、まさに自分のパンを分かち合うということ、そしてそれが多くの人々の心も体も満たしていくところであることを感じたのではないかと思います。イエス・キリストの食卓とはつまり多くの方々と共に繋がっていくところであり、神の祝福の中で霊肉共に、心も魂もイエスさまとの関係の中で回復するということです。
私たちは正直に言うと、自分たちのパンを分かち合うことが苦手なものだと思います。神さまに「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、その日ごとの糧は自分のものであり、相手のために日ごとの糧を祈ることをしていないのではないかと思います。私たちは主の祈りに込められている教えを改めて受け止め、を再びともに祈ることも大切かもしれません。

イエス・キリストの食卓は「われらの食卓」です。わたしだけではなく、あなただけでもありません。排除される人はいない私たちのために開かれた食卓です。まさにイエスさまの恵みは善人にも悪人にも雨を降らせてくださる神さまの愛と同じように、罪びとにも善人にも信仰を問うことなく開かれており、一方的な恵みであるからです。だからこそ、私たちは正直に言えば悔い改めることさえできていなくても堂々とイエスさまの御前に集い、その恵みに預かっていくことができるのではないでしょうか。そして私たちはそのようなイエスさまの愛だからこそこのかたくなな心が解きほぐされて、少しずつ変えられてきたのではないかと思います。
それではパウロが言っていた「主の晩餐にあずかる者は、自分を振り返る必要があり、ふさわしくない形でそれを受けるものは、主の体を汚すのである」というのはどういう意味なのでしょうか。実はコリントの教会では長い時間をかけて食卓を提供していたため、早く集うことができる比較的裕福な人が、労働者や奴隷たちの分まで食べてしまうということが問題になっていました。ですからパウロは、そこにはキリストの身体としての一体性がないだろう。だからみんな自分のことだけではなくキリストが皆のために体を割かれ血を流されたように、私たちも他の人のために配慮する。つまり自分自身を振り返るだけではなく、共に集う人々のことを考える。それが主の晩餐で最も大切なことと言っているのです。
今日、「主の晩餐式」は、そのようなイエス・キリストの愛を現わす交わりの場ではないかと思います。先月の主の晩餐式の後、小麦アレルギーを持つ方がパンを取ることができなかったというお話をした時、教会員の何名もの方から「グルテンフリーパンの導入」について提案を頂きました。それは一人でも見過ごしにしないことを皆さんが考えてくださった結果だと思います。「一つのパン」という具体を分かち合うことはできなくなります。しかし私たちは多くの違いを持った方々とイエス・キリストの体という愛を分かち合うことができるようになるのです。
私たちは今、問われています。イエス・キリストは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言って招く方であるからです。私たちは誰とパンと杯を分かち合うのでしょうか。私たちのものと思っているパンと杯を主に委ねた時、私たちが想像もできない奇跡的な祝福が私たちに与えられるのではないかと思います。主の御心を求めつつ、主のパンと杯を分かち合って参りましょう。

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