メッセージ

2023年4月9日説教全文「 イエスの復活~絶望から希望へ~ 」牧師:西脇慎一

説教のダウンロードはこちらから(PDFファイル)

聖書個所 マルコによる福音書 16章1~8節

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

説教「 イエスの復活~絶望から希望へ~ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日はイースター。十字架に磔にされ殺されたイエス・キリストがその三日目に復活された記念日です。ですから今日は皆さんと「イースター、主のご復活おめでとうございます」とご挨拶したいと思います。

福岡ではここ2日ほど、若干肌寒いですが天候の良い日が与えられています。朝日に照らされる自然の美しさをSNSでアップされている教会員の方々がおられました。春の命の芽生えの季節というか新しい始まりというか、そんなことを想わされました。わたしも昨日は本日午後に行われる墓前礼拝の準備のために平尾霊園に行ってきましたが、心地よい春の息吹を感じてきました。そんなとき、イエス・キリストが復活された朝はどんな日だったのかということが心に思い浮かんできました。

水野源三という詩人はイエス・キリストの復活の朝を思い描き、「こんな美しい朝に」という詩を書きました。のちに武義和という作曲家が曲を付け、こんな歌が作られました。「空には、夜明けと共にひばりが鳴き出し、野辺には露に濡れて、すみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に。主イエスさまは甦られたのだろう」。
水野源三さんは9歳のころに小児麻痺になったせいで自由に動かせるところが目だけになり、その目の動きで詩を書いたことから、まばたきの詩人と呼ばれました。この詩にはイエス・キリストの復活の美しさが表現されているように思います。復活は希望であり、生命の始まりであることを連想させます。深く長い闇が続いている。しかし朝の訪れを感じると生き物は目覚めはじめ、緑が太陽に照らし出される、朝もやが晴れわたる。そして生命が躍動していくようなイメージが浮かび上がってくるのです。
残念ながら、イエスさまが葬られたお墓は乾燥地帯イスラエルの山地にあるエルサレムにあったと思われますので、恐らくこの詩に現わされているようないわゆる日本的な自然の美しさは、そこにはなかっただろうと思います。しかし、イエス・キリストの死と復活の出来事は、このような美しさを持って人々を絶望から希望へと導くものであるのではないかと思います。今日は、そのことをマルコ福音書16章からイエス・キリストの復活の出来事を見て行きたいと思います。
復活の日の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメの三人がイエスの遺体が納められた墓に向かっていました。彼女たちは「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに墓に行った」と聖書に記されています。そしてそれは、イエスの遺体に油を塗るためであったとあります。何故朝早く出かけて行ったのかというと、イエスが十字架に磔にされた日が安息日に入る時刻であったため、本来埋葬の前に行うべき遺体の腐食から守るための処置などができなかったということが理由にありました。

墓に向かう道中で、彼女たちは「墓の入り口の石をどうやって動かすか」を相談していることからすると、彼女たちのこの行動は、理性的計画的と言うよりも感情的に、どうしても早くそこに行かなければならないと言うような焦りや落ち着かなさに促されてのことだったことが考えられます。
それもそのはずです。彼女たちはイエスさまが無言のまま裁かれ、鞭うたれ、罵られ、十字架を担いで歩かされ、無抵抗のまま十字架にかけられ、嘲笑を浴びる現場を目撃していたからです。今日の聖書箇所の一つ前の15章47節には、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」とありますが、そこには無念さと言うか茫然自失というか、ただ見つめることしかできない無力感、喪失感があったのではないかと思うのです。

ですから、彼女たちは安息日の空けた週の初めの日、安息日とは土曜日のことですから、翌日の日曜日の朝早くにいてもたってもいられず、お墓に向かっていったのです。しかし彼女たちには恐らくは自然の美しさと言うよりは、むしろすべてが灰色に映るような景色が色あせて見えるようなそのような心持だったのではないかと思います。それはその中日に当たる安息日に何があったか書いていないことからも明らかのように思います。

ところが彼女たちが墓に到着すると石が既にわきに転がしてあり、墓の中にはイエスの遺体はなく、代わりに白い長い衣を着た若者が座っていました。彼女たちは非常に驚きました。これは驚愕したとも訳せます。驚愕とは、予期しない出来事を体験したときに起こる瞬間的な感情です。それは当然です。「なんで墓が空いているの。なんでイエスの遺体はないの?どこにいったの?そもそもあなたは誰ですか」って感じです。一つ分かるのは、何か自分たちではわからない事態が起きているということです。そもそも既に十字架の出来事から受け入れられずふわふわしている精神状態の人々にとっては極めつけの大パニックな出来事です。もう何が何だかわからない、勘弁してほしい。驚きと恐れしかない状況だと思うのです。

しかも、そんな婦人たちにこの若者がこう告げました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。当然の結末です。まったく何が何だかわからない。誰か、何か起こっていることを教えてくれって言いたいくらいです。しかしその問いかけへの応答は記してありません。
実はマルコ16章9節以降は恐らく後代に書き加えられたものだと思われますので、8節のここで本来のマルコの復活物語は終わっているのです。

つまりマルコでは復活のイエス・キリストに出会うことができていません。そこには喜びも感謝も希望もありません。ただ恐れに満たされその場を逃げ出した婦人たちがいます。これはイエスが捕まえられる時に弟子たちが逃げ去ったこととも重なります。どこにも復活がありません。救いもありません。それでは、マルコ福音書ではイエスの復活はなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。マルコ福音書の復活は、実は恐れによって逃げた人々が復活していく出来事であるからです。

そのキーワードになる言葉が、墓にいた若者が告げた「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と言う言葉です。ガリラヤとはどこか。それは、生前のイエス・キリストが神の国の福音を語り、人々の声に耳を傾け、共に生きて行かれた場所です。マタイ福音書では文字通りガリラヤで復活のイエスに出会うという場面が描かれていますが、マルコではそういうことではありません。ガリラヤと言う地域に行きなさいということではなく、ガリラヤと言うイエスがかつて働きあなたがたと共に生きられたその出会いを思い起こしなさいと言うことなのではないかと思うのす。

何故ならば、最後の言葉に「誰にも何も言わなかった」と言うことがあります。これが真実であるならば、どうやって人々に復活が知られたのでしょうか。聖書の記録が閉じられた後に話せるようになったということでしょうか。いいえ、そうではないのでしょう。恐らくその婦人たちはその「ガリラヤに行きなさい」という言葉をずっと連想していたのではないかと思います。それってどういう意味だろう。そしてガリラヤでのイエス様の出来事を思い返していたはずです。その時、彼らの心のただ中に、イエス・キリストがまさに甦り、人々を絶望から希望へと導きだしてくださったのではないでしょうか。
そうだ、イエス・キリストは、十字架で殺されること、そして復活されると言うことを告げていた。そうだイエスさまは神の国を語り、私たちと共にいてくださると言っていた。そうだ、イエスさまは見えなくなっても言葉の中に今も生きて、私たちの心の中に住んでいるではないか。

そこに起きた喜び、希望というものが、人々が語る前に多くの人々の心に伝わったのではないかと思うのです。この時、私たちが心に留めたいのは、復活がどのように起きたか、どうして起きたのかという理由よりも、イエス・キリストは私たちに届けられた神の言葉であったということです。
ヨハネ福音書には、こうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

私たちは復活というと「どのように復活したのか?」など復活の科学的な根拠と理屈を求めます。それは理解するためには大切なことです。他の人を納得させる強い武器ともなるでしょう。しかし恐らくそういうものではないのです。もちろん神の独り子としてのイエス・キリストの歴史的一回的な出来事として神が復活させられたと言うことはあるかもしれません。イエス・キリストの復活は私たちでは到底なしえない出来事、その苦しみを背負い、身代わりとなられた死を遂げられたからこそ神によって与えられた出来事であったからです。しかし、その復活の証言はそれぞれの福音書を見てみてお分かりの通りに一様ではありません。つまり、復活の出来事というのは、一人一人が受け取るものであるということだと思うのです。私はこの復活の出来事において大切なのは、私たちの心に、神の言葉が届けられ、その神の言葉によって生かされていく時に、私たちは一人ではない、神は我らと共におられる。絶望は希望に変わる。ここに復活と言う出来事があるのではないかと思うのです。

キリスト教は復活の宗教です。イエス・キリストが復活させられたと言うこと。そこに私たちの希望があり、私たちの信仰の根拠があります。それはどのようにということはわからないまでも、しっかりと自覚的に私たちの中に生きて行くものであるのです。そしてそれは私たちの力になるのです。
逃げ出していった弟子たち、婦人たちの心の中でイエス・キリストはしっかりと甦り、その福音を今度は命がけで伝えていくものとなりました。そして今その福音は私たちに届けられているものであります。

復活をどう考えればよいのか。うまく伝えることができません。だからこそ復活なんてありっこないと言いたくなる気持ちもわかります。しかし、私たちがイエス・キリストの言葉を通して、或いはその生きざまを見ることを通して復活を信じる時、それは私たちにとって本当に大きな喜びであり、感謝であり、希望の出来事になっていくのです。

この復活の主イエス・キリストを改めて信じていきませんか。信じて生きて行きたいと思う方はどうぞ後ほど個人的にお知らせください。

お祈りして参りましょう。

関連記事

TOP