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2023年2月5日説教全文「真理はあなたがたを自由にする」牧師:西脇慎一

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〇聖書個所 ヨハネによる福音書8章31~32節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

〇説教「 真理はあなたがたを自由にする 」

みなさんおはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さんの心と体のご健康が守られ、今週の新たな歩みの上に豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。

本日は「バプテスト・デー」として主日礼拝を守ります。バプテスト・デーは日本におけるバプテストの宣教開始を記念しています。私たち西南学院教会が加盟する日本バプテスト連盟の母体となったアメリカ南部バプテスト連盟の日本への宣教師派遣は1889年のことでしたが、それに先立つこと16年前、アメリカ北部バプテスト連盟(アメリカン・バプテスト・ミッショナリー・ユニオン)がネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻を日本に派遣しました。彼らが1873年2月7日に横浜に到着したことから、二月の第一主日をバプテストの日本宣教開始を記念しているのです。ちなみに南部バプテストが西南学院を創設したように、北部バプテストは関東学院を創設しています。どちらの学校もまずは日本におけるキリスト教の伝道者養成のために、そして日本における普通教育の重要性を考えて始められました。バプテストは後ほども触れますが教育、特に考えることを大切にする教派です。今日私たちは、そんなバプテストの思想を改めて考えていきたいと思います。

みなさんにお聞きしたいことがあります。キリスト教には様々な教派がありますが、どうしてバプテスト教会に来られたのでしょうか。教派の違いを比較検討して、「わたしはバプテストが良い」と考えて来られた人はおられるでしょうか?恐らく、たまたま初めて来た教会がバプテストであった。友人知人がバプテストであったから来た。或いは西南学院に縁があり、教会と言えばバプテストであったということもあるかもしれません。私の場合、親が通っていた教会がたまたま東京の調布バプテスト教会であったということが最大の理由です。しかし、私は大学の時にルーテル教会に出会い、その後福音派や聖霊派と呼ばれる教会に出入りをするようになりました。それぞれの教会が大切にしていることの違い、礼拝の考え方の違い、讃美のスタイルの違い、色々な刺激がありました。例えばルーテルは式文に沿って言葉と佇まいを大切にして礼拝を守りますが、福音派では自由な形で礼拝が行われていました。私はその違いはどれが正しいというものではなく、それぞれに尊ばれるものだと思いました。しかしその時に改めて私が気付いたことは、わたしはバプテスト教会に長く通っているけれど、バプテストが何を大切にしてきた教会であるかということを全く知らなかったということです。長く一つの教会にいると、それが「普通」にであたりまえになってしまい、自らの持つ「特徴」に気が付かなくなってしまうことがあります。私は西南学院神学部で学ぶことを通して、バプテストの特徴、またそれに至る歴史的な経緯を知ることができました。

歴史や経緯については今日は詳しくは触れませんが、私が今、バプテストが最も大切にしていることが何かと問われるならば、やはり今日お読みした聖書の言葉ではないかと考えています。
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
バプテスト教会は、真理を求めた、或いは真理を求め続けている教派であると言えると思います。「真理とは何か」と問われるとそれは哲学的な概念であり、一言では難しいのですが、私の今日の時点の言葉では「真理」とは「本当のこと、正しいこと。真実なこと」と定義したいと思います。そして真理の反対語には「虚偽」があります。虚偽とは偽り、むなしいこと。真実ではないこと。あるいは真実のように見せかけ、真実から目を背けさせるものであります。

バプテストが求めた真理とは、イエス・キリストの福音そのものであります。そのために聖書を自ら読み、イエス・キリストが語った言葉の真実を求めていったのです。バプテストの特徴の一つとして全年齢層の教会学校を大切にしているのもそのような理由があります。常に学ぶこと。そしてその福音を自らの事柄として生きて行く。これがバプテストの信仰です。その真理を追い求めていく過程で戦ったものがあります。それが真理ならざるもの、虚偽的なものでした。それは簡単に言えばカルト宗教が語るような偽物の福音。「これが唯一の真実だ。だからこうしなければならない」。という固定化された教義に人を縛り付けようとする教えであります。それだけではありません。聖書に根拠を求められないような、イエス・キリストの福音を覆い隠そうとする教会の伝統であったり、簡単に言えば、「クリスチャンならこうすべき」とか「清く正しい敬虔なクリスチャンらしさ」みたいな信仰生活の教えのようなものもありました。それは自分の信仰が生み出した結果であればよいのですが、作られてきたイメージ(虚像)であることが多いのではないかと思います。むしろバプテストはクリスチャンらしさではなく、自分らしさを大切にするものであると私は思います。

「バプテスト」という言葉には、バプテスマ(浸礼)を大切にするという意味があります。でも恐らく水に入ることそのものを意味するのではありません。むしろ自分の自覚的な信仰の選び取りの中で罪に死に、神にあって新しい命に生かされるというバプテスマを受けることに意味があるのです。それは、自覚的な判断もできない状態で受ける洗礼によってクリスチャンになるのではなく、自分で信じて生きて行くことが本当のクリスチャンであるという主張です。それは当時の教会、国教会が市民に当然と教えていた事柄、つまり、生まれた時にクリスチャンにさせられ「良いクリスチャンとして、良い国民として生きる」とい教えへのプロテスト(抵抗)でした。

最近再びカルト宗教の問題が出てきて、「マインドコントロール」の怖さが指摘されています。マインドコントロールというものが一つの情報で人々の思考をコントロールする事柄だとしたら、教会の伝統、あるいは教えというものによって「こうあるべき、こうするべき」と考えてしまうことも一つの「マインドコントロール」と言えるのではないかと思います。しかしバプテストはそうではなく、果たして今教会で語られていることは真実なのか、真理なのかということを自らの事柄として考えるということが最も大切なことだと考えます。ですから最もマインドコントロールから遠いのがバプテストであると私は言えるのではないかと思います。

イエス・キリストの言葉はそのことを教えています。イエス・キリストは言います。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。この時に「わたしの言葉」と対立関係にあるのは「律法」です。律法は当時、礼拝の中で朗読され、その言葉をそのまま信じてその通りに生きて行くことが求められていました。その律法を守るためのルールみたいなものも生まれていきました。その結果、神の言葉である律法は人を縛るものになってしまったのです。しかし、イエス・キリストは、私の言葉、つまり本当の神の言葉は、真理であり、わたしたちを自由にするものなのだと言うのです。イエス・キリストが語ったように「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10:26)。ということが問われるのです。

真理と言う言葉は、ギリシャ語ではアレーテイアと言い、4つの福音書に22回登場します。その内の19回がヨハネ福音書に登場します。ヨハネ福音書14:6で、イエス・キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。と言っている通り、真理に生きることが私たちの命に繋がり、自由に繋がります。「イエスを通らなければ、だれも父の元に行くことができない」。というのは、ただ安直に「クリスチャンにならないと天国に行けない」ということではなく、むしろこの文脈から考えると、イエス・キリストを信じることで私たちが背負わされている様々な束縛から自由にされなければ、神が私たちに願っているような自分自身らしく生きることは出来ないという意味にも聞こえます。

実にヨハネ福音書には、真理を渇望しつつも真理ならざるものに苦しんでいる人の姿が記されています。最も有名なのは、ポンテオ・ピラトです。彼はイエス・キリストを十字架に架けた人として有名ですが、ヨハネによる福音書では特にイエス・キリストに同情的な姿を明らかにしています。ヨハネ18:28節以降に記されています。彼はローマの総督としてエルサレムにいましたが、当時のエルサレムはユダヤ教指導者たちの影響力が強く、ピラトとの間もうまく言っていなかったようです。ピラトはイエスが捕えられ連れてこられたことが、ユダヤ教指導者たちの策略に基づいたものであったことを知っていたようで、イエスを助けようとさえしています。しかし、ユダヤ教指導者たちがピラトを脅迫するのです。「私たちの思い通りにイエスを十字架に即けないと、扇動を起こすぞ。騒ぎが起きればあなたの評価が下がる。それでよいのか」。ピラトはその葛藤の中で苦しみます。そこでピラトはイエスに聞きます。「お前はあの者たちが言うように王なのか」。するとイエスは言います。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聴く」。そこでピラトは尋ねます。「真理とは何か」。

真理とは何か。とても大切な問いかけです。本当に真実なものを私たちは求め、生きて行くことを願います。しかしピラトのように、私たちの身の回りには色々な偽り、真実ならざる人の思い、謀略、人間関係のしがらみの中で苦しみ、本当に大切なこと、本当に真実なことから目を逸らしてしまうことがあるのです。しかしそれはこの世の闇であり、罪であります。先ほど真理とはギリシャ語でアレーテイアと言うとお伝えしました。アレーテイアの語源は、本来「覆われていないこと、明らかなこと」であるようです。つまり真理は本来誰の目に見ても明らかなのです。しかし残念なことに真理は色々なことに覆い隠されてしまうのです。そしてそれが隠された中で私たちはもがきながら生きているのです。しかし神が私たちに願っている事柄ではありません。だから神は真理としてイエス・キリストをお与えになったのです。
私たちは世の光となられたイエス・キリストの姿、行い、そして言葉を信じ、力と希望と勇気を頂き、その神が私たちに本当に願っていること、真理と福音に心を留めて歩んでいきたいのです。

少しだけバプテストの歴史について触れます。バプテスト教会は17世紀にロンドンで誕生しました。それは国教会からの脱却、個人の信教の自由を求めてのことでした。 当時のイングランドは国教会以外に教会は認めない姿勢でしたので、バプテストの先達は信教の自由を求めてオランダのアムステルダムに移住しました。その時のリーダーはジョン・スマイスとトマス・ヘルウィスという人物でしたが、彼らはそこで方向性の違いによって歩みを分けていくことになりました。ヘルウィスはその後迫害を覚悟でイングランドに戻り、ロンドンに初めてのバプテスト教会を設立しました。1612年のことです。ロンドンに戻る前、彼は信教の自由と政教分離、良心に従って守る礼拝の自由を訴えて一冊の著書を書き、時の王さまジェームズ一世に献呈しています。ヘルウィスはその本に沿えて手紙を書きました。短く訳すとこうなります。「聞き給えわが王よ。貧しき者の訴えを軽んじないでください。王は死ぬべき人間であって神ではありません。王は民の魂に対して法令を作っても彼らの主となることはできません。もし王が霊的な主になる法令を作るならば、王が神になることになります。王は神に従うべき存在であります。民につらく当たることがありませんように」。 ヘルウィスはその後ただちに投獄され、その4年後に獄中でなくなりました。

なんで彼はそんな手紙を送ったのでしょうか。王さまに敢えてそんなことを言わなければ、彼はまだまだ生き延びることができたと思います。またロンドンに帰らず信教の自由が守られているところで生きていればつらいこともなかったと思います。
しかし、彼が敢えてそのような主張を書き記し、王さまに送ったのは、やはり真理を求めていたからだと思います。言い換えれば、彼の体は確かに捕まえられて殺されたけれど、その魂は臆すことなくまさに自由にされていたのではないかと思うのです。むしろ彼は真理に生かされていたからこそ、死をも恐れることがなかった。まして王を恐れることもなかったのではないかと思います。

「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたイエス・キリストもまた十字架に殺されました。イエス・キリストの死は、道も真理も命も、結局のところ暴力、或いは真実ならざるものによって壊されてしまうという結末を現わしているのでしょうか。この世に希望はないのでしょうか。いいえ。そういうことではありません。イエス・キリストの歩み、言葉が真実であると言うことは、復活と言う出来事、十字架で殺されたイエスを神が復活させられたということによって証明されているのです。神の真理は既に明らかにされているのです。ですから私たちはこのイエスをキリストと信じて歩んでいくことができるのです。

私たちの身の回りにも真実ならざるもの、あるいは教会の中にも私たちを真理から覆い隠すような教えというものがたくさんあります。私たちはその一つ一つを吟味し、果たして本当に神の御心に添うものはなんであるのかということを考えながら、福音というイエス・キリストによって明らかにされている真理に立ってこれからの時を歩んでまいりましょう。

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