〇聖書個所 マルコによる福音書 1章9-11節
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
〇説教「 イエスのバプテスマ ~その意義と意味~ 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。新しい週の初めの日、こうして皆さまと共に礼拝できる恵みを心より感謝します。今日お集まりの方の中には初めて教会に来られた方もおられると思います。また、初めて聖書のお話を聞かれる方もおられると思います。来てくださったことを感謝すると共に、皆さまが教会に来たいと思ったその心の求めに神さまが応えてくださいますように祈ります。そして今週も皆さまの歩みの上に主イエス・キリストの恵みと守りとお導きがあるようにお祈りいたします。
私たちは今、キリスト教の暦でいうところの「復活節」の時を歩んでいます。イエス・キリストは十字架に磔にされて殺されましたが、神はこのイエスを死より復活させられました。それは神の出来事でした。イエスはその後、肉体を持って弟子たちに現れ、40日の時を共に過ごされました。この記念が復活節です。使徒言行録によると、この期間、イエス・キリストは神の国について弟子たちに語られていたようです。
神の国とは、イエス・キリストがイスラエル北部の地域ガリラヤで語られた福音そのものであります。神の国はギリシャ語で「バシレイア トゥ テウー」と言いますが、直訳すると神が王として支配される国のことであります。それは他の誰かが神になり替わることがなく、神の愛以外の何かがルールや基準となるような場所でもなく、唯一の神とその愛に支配されている国です。それは神が天地創造の時に「良し」とされた世界であり、すべての者が満ち満ち足りている状況そのものであります。植物も動物も人間も、すべてのものが神の愛に満たされている場所であり、色々と異なる者同士が、しかし神に造られたもの同士が、共に存在していても争うことなく、平和に調和して生きることができる世界であると言えるでしょう。その神の国は、十字架という絶望の出来事によって失われそうになりましたが、復活という神の出来事によって私たちの希望となりました。そしてこれは神の国は、妬み、暴力などの暗闇の力によって奪い去られるものではないという証拠になりました。
この神の国はどのように実現するのでしょうか。それはルカ17:20-21によると、イエス・キリストの御言葉の内に実現するものであるようです。このように書かれています。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。
「神の国は近づいた。しかし今や神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」。どういうことでしょうか。私たちはむしろ完成された社会がいつ起こるのかと思ってしまいがちです。理想の形がどこかにあるかと思ってしまいます。いつ救われるのかと思います。しかしそうではないのでしょう。それは目には見えなくても、イエス・キリストの伴いの中で、いまもまさに私たちは神の国に生かされていると言うことなのです。ですから、わたしたちは今日もイエス・キリストの福音に生かされて参りましょう。
今日の聖書箇所は、イエス・キリストが洗礼者ヨハネからバプテスマを受ける場面です。先週の礼拝で申し上げましたが、ヨハネのバプテスマは水のバプテスマであり、罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマでありました。バプテスマとは、私たちバプテスト教会が大切にしていることであり、自覚的な信仰に生きるための洗礼を大切にするという意味があります。そのバプテスマを受けるためにイエスはヨルダン川に行ったのです。ですからイエスがバプテスマを受けたことは、主体的に自覚的に行われたことだったと言えるでしょう。そして彼の歩みに方向転換が起き、これまでの歩みから新たな歩みへ、公生涯、メシアとしての歩みが始まって行ったのです。
しかしながら引っかかることがあります。「悔い改めのバプテスマを受けた」ということであれば、果たしてイエス・キリストは悔い改めるべき罪があったのかということが気になってくるからです。マルコはイエスの出自や成長過程には何も記していません。なぜバプテスマを受けようと思ったのか、その理由には沈黙しています。ですから私たちは考えます。「イエスは100%神だけれども、100%人間なのだから、私たちと同じように罪を犯した可能性がある」。そのために悔い改めが必要だったのではないかと言う人もいるかもしれません。しかし私たちの中には「神の子と呼ばれるイエスに罪なんかあろうはずがない」。と思う方が多いのではないかと思います。
恐らく、福音書を書き記した人々の中にもそのように思う人がいたのでしょう。ですから、例えばマルコ福音書では何も記されていないのに、マタイ福音書では、ヨハネはイエスがバプテスマを受けたいと言い出した時、思い留まらせようとして「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか?」と語らせています。それに対してイエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々に相応しいことです」。(マタイ3:14-15)と言っています。これは簡単に言うとつまり、イエスはヨハネのバプテスマを受けて罪を悔い改める必要は必要もないが、しかしやはりバプテスマを受ける意義があったということです。それは罪の赦しのためではなく、むしろ正しいことを行うためであったと言っています。でも、そこにはまた一つの疑問が出てきます。それでは「正しいこと」とはどういうことなのでしょうか。
色々と考えてみました。3つのことが考えられると思います。一つ目は、イエスさまがバプテスマを受けられたのは人々の罪を担う苦難の僕としての道を歩むことへの表明だったということです。つまりすべての者たちの救いのため、罪びとに連帯するためにバプテスマを受けたということです。
二つ目は、ヨハネの道を歩むことです。ヨハネはイエスさまの道の事前準備する者でしたから、そのヨハネを無視するのではなく、ヨハネの歩みに従うということ。つまり神の預言に従って歩むためにバプテスマを受けたと言うことです。前回もお話ししましたが、洗礼者ヨハネはイザヤの預言の成就であったと言われていますから、つまり自分だけでその働きを始めていくのではないということです。ですからバプテスマを受けたことは、く神の業の内に自分を置くと言うこと、言い換えれば神の御旨に遜り従うと言うこと、旧約聖書から続く神の愛の物語を歩んでいくと言うことであります。
三つ目に私が思うのは、イエスさまが公生涯、新しい歩みを始めるに当たりバプテスマを受けたと言うことです。メシアとしての新しい歩みを始めるに当たり、今までの自分に死に、新しい命に生きる大切さを示すためだったということです。バプテスマと言う言葉は、実は水に浸すというよりも溺死させるという方向性、ダイナミズムのある言葉です。西南学院教会のバプテスマはわたしはまだ見たことがありませんが、バプテスマはその本来の意味において、自分で水に沈むのでなく、洗礼者執行者によって水に沈められるものなのです。それは一つの意味において古い自分が殺されることです。罪の自分に死ぬこと。そしてそこからの甦りなのです。
罪と言うのは「犯罪」とか「悪いことを行ってきたこと」とかそういう意味ではありません。その本来の意味は「的外れの生を歩むこと」であります。何から的外れに生きているのか、それは神の御心から離れて生きるということです。それはつまり神が望まれているように、或いは神に創造されて良しとされた自分自身のように生きることをせず、かえって他のもので自分のことを満たそうとしたり、他の者になり替わったりすること。これが的外れの罪です。だからこれを悔い改めるのです。ちなみに「悔い改め」という言葉を使いましたが、実はギリシャ語では「メタノイア」と言い、日本語では悔い改める、後悔したことを改めることと言いますが、本来の意味では、立ち返り、方向転換を意味する言葉です。
ですからバプテスマとはそのような罪を持った私が水において殺される。しかしそこに救いが起きる。洗礼執行者によって引き上げられる。そして新しい命を頂く。死からの甦り、方向転換する。これが神と共に新しい命に生きる象徴のバプテスマであります。イエス・キリストの場合、本来の道、メシアとしての道が始まっていったのではないかとわたしには思われるのです。
イエス・キリストに罪があったかどうかということは問う必要はありません。またそれを考えることもナンセンスなのでしょう。それは他人が決めることではないからです。何故ならば、バプテスマに必要なことは、自分の思いであり、そこから神に立ち返り、新たなスタートをしていくことです。ですからバプテスマはゴールの出来事ではなくスタートの出来事としてマルコ福音書のイエス・キリストの最初の出来事になっているのです。私たちは信仰を持ったからバプテスマを受けると考えがちです。劇的な信仰告白を持つ人をすごいと思います。わたしにはそんな出会いはなかったと思われる人も、例えばクリスチャンホーム育ちの方々にはおられると思います。しかし、逆なのでしょう。信じたいと思った。或いはそのような出会いがあった。だからバプテスマを受けて、ここから神と共に歩み出すと言うことです。
ですからパウロはバプテスマについてこのように言うのです。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。(ローマ6:3-4)
イエスさまのバプテスマ、それは私たちにとってはこのような意味になります。神の子であるイエス・キリストが罪びとに連帯するために、あるいは旧約からの預言の成就のために、それはつまり神の愛の実現のために、ヨハネから遜ってバプテスマを受けたということ。そしてそこから始まった福音は、まさに私たちが新しい命に生かされるための希望であるのです。
今日の箇所に戻ります。先ほど少しご紹介したマタイと異なり、マルコ福音書は極めて淡々とこの箇所を書いています。それは大切なのはまさにバプテスマを受けたことよりもむしろその後のことなのだと言っているように感じます。
イエスが、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」。とあります。
不思議な出来事です。天が裂けると言う言葉は、実は受動態ですから「天は引き裂かれた」のです。誰に引き裂かれたか。それは神にであります。長く封じられていた天を神は突然引き裂かれ、地上の出来事に介入される。それが霊を鳩のように送ることでありました。これは神の肯定であり、祝福であると言えるでしょう。言い換えれば、神が待ちに待っていた出来事であったとも言えます。そしてこれがイエスが神の御子たる所以である出来事とも言えるかもしれません。
しかし私は、実はこの言葉は、イエス・キリストにのみ語られた言葉ではない、のではないかと思うのです。そうではなく、バプテスマを受け、新しい歩みを歩んでいくものに神はこのようにお語りになるのではないかと思うのです。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」。もちろん神はそのようにイエス・キリストにお語りになるでしょう。しかし、そのイエス・キリストはその生涯をかけて私たちを愛し抜かれました。そしてその私たちの罪の身代わりとしてイエスは十字架に架けられたのです。それは私たちもまた神の愛する子とされているからです。
イエス・キリストの甦りの時、復活節を過ごしている私たちは、この言葉を神が天使を遣わして「ガリラヤに行きなさい」。と言われた文脈を知っています。つまりこの福音書を「もう一度読み返してみなさい」ということです。ということは、やはりこの言葉は、神がわたしたちに語られている言葉、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけてくださっていることとして受け止められると思うのです。
ですから私たちはこの言葉を信じ、私たちも立ち返り、この歩みを新しい希望を頂いて進めて参りましょう。イエス・キリストはまさに目には見えなくなりましたが、しかし聖霊を私たちに送ることを約束されました。わたしたちは今、その聖霊を受けて神とイエス・キリストと結ばれているのです。ですから、私たちは新しい命の道を共に歩みだして参りましょう。