〇聖書個所 マルコによる福音書 2章23~28節
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」。そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。
〇説教「 安息日は、人のためにある 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。8月に入り、いよいよ夏真っ盛りです。皆さまのご健康が守られ、夏の日々の歩みが祝福されますようにお祈りしています。今日も西南学院や福岡女学院などの生徒さんたちと共に礼拝を守れることを感謝します。当教会の礼拝は、神の言葉と向かい合い、自分自身の歩みを振り返る大切な時であります。是非、この礼拝を新しい出会いの出来事として受け止めていただけると幸いです。
今日は、広島の原爆記念日です。今より78年前の1945年8月6日午前8時15分、普段と変わりない朝の始まりの時に、一発の原子爆弾が投下されました。たった一発の爆弾は、広島の町を壊滅的に破壊し尽くし、そこに住まう人々の命や生活の営みを全て奪い取りました。その年の年末までに約14万人の方々が亡くなりました。長崎も同様です。8月9日午前11時2分に投下された原子爆弾によって約7万4千人の方々が亡くなりました。それ以外にも多くの方々が後遺症などの影響や身体に残る不安に悩みながら生きることを余儀なくされています。戦争というものは、開戦を決定した人々や軍人だけが戦うものではありません。戦争は、自分たちの国を守るためという大義名分を持って始められますが、実にロシアとウクライナでまさに起こっているように、多大な一般人の犠牲、徹底的な破壊、そして復興が不可能と思われるほどに残るダメージ、両者のみならず、両陣営の関係性の断絶、不信、人を人と思わないことの上にしか成り立たない出来事であります。原爆投下から78年の年月が経過したこの年に、世界で新たな核戦争の危険が迫っています。この時私たちは核戦争についてだけではなく、戦争自体の問題性も考える必要があります。
イエス・キリストは言われます。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。律法にもあります。「殺してはならない」(出エジ20:13)。私たちは今こそこの言葉に真摯に向かい合わなければいけません。
長崎のバプテスト教会では、その時のことを忘れないために、毎週日曜日の礼拝を原爆投下時刻の11時2分から始めています。その時間までは前奏が鳴り響いていますが、その時を迎えると、突然礼拝堂の鐘が打ち鳴らされ、奏楽はその場でぴたりと終わります。まるで日常生活が突然断ち切られるかのような中で7度打たれる鐘の音を聴きながら、平和を祈りつつ礼拝が始められます。先ほども申し上げましたが、礼拝は神の言葉と向かい合い、自分自身生歩みを振り返るときです。私たちもまたこの時、イエス・キリストの言葉に立ち返り、私たちの歩みを見つめ直して参りましょう。
今日の聖書の箇所は、新共同訳聖書では「安息日に麦の穂を摘む」という小見出しがついているように、イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことが問題となり、ファリサイ派の人々と論争になっている箇所。いわゆる「安息日論争」としても知られます。安息日とは、何でしょうか?なかなか日常的には使われない言葉だと思います。安息日はヘブライ語では「シャバット」、ギリシャ語では「サバトン」、英語では「サバス」と呼ばれます。いわゆるHoliday(休日)とは少し違う概念であり、どちらかというと宗教的な意味合いを強く帯びている言葉です。この「安息日」の始まりについて、旧約聖書「創世記」にはこのように記されています。
「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である」(創世記2:1-4)。
つまり、神が天地創造の業を始められた後、7日目にその仕事を完成され、安息されたので、この日は安息日と呼ばれるようになったということです。それでは、この安息日は一体何をする日なのでしょうか。出エジプトのモーセが神から示された十戒の中では、安息日についてこのように教えられています。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(創世記20:8-11)。
主の安息日には、いかなる仕事もしてはならない。それはあなただけではなくあなたの家族も奴隷も家畜もその町に寄留する人々も同様である。つまり安息日とは、全ての者が安息する日であるというのです。全ての者が安息できる日というのはとても良いと思います。と言うのは、私たちの社会では、誰かの安息日を守るために、その他の誰かが働く社会があるからです。例えば夏休みに旅行に行かれる方々も多いと思いますが、その人たちの休みの充実のために、働いている人たちがいるのです。それは社会を回すためには仕方のないことです。一斉に全ての人が休んだら何も回らないわけです。聖書当時の社会もそうだったことでしょう。特にモーセの時代は人々はエジプトからの脱出中で、家畜を連れていました。家畜の世話は労働に当たります。また農作物の世話だって同じことです。安息日であろうがやらなくてはいけないことがあります。でも、自分たちがしたら律法違反になってしまう。ではどうするか。ならば私たちが安息を得るために、奴隷や家畜などの労働者は働いてもらう必要があったのです。自分たちが豊かな安息を得るためには、他の人を犠牲にしなければならない。安息を与えない。休息を与えない。それが私たちの社会のシステムです。
しかし、神がこの律法を与えられたのは、そのような人たちも神が創られた大切な命であることを示し、私たちが共に神の創造の業であり、神の恵みに共に生かされている存在であることを知るためでありました。ですから共に安息を守り、神の創造の業を感謝し、賛美するために、この日に礼拝が行われるようになったのです。
ちなみに安息という言葉を、日本語から分析すると、「安心して落ち着いて息をすること」です。休みだと言いながらも心が休まらない時が私たちにはあります。休日にも仕事に追われたりすることもあります。あるいは本当にお休みで、仕事はしていなかったとしても、心にずっとストレスを感じているということはあるのではないでしょうか。それは果たして「安息を得ていること」になるのでしょうか。私はそうではないと思います。むしろ安息とは、本質的に、私たちの心が何ものにも責められることなく、平安を得て、憩いを得て、新しい力に満たされることであるからです。ですから言い換えれば、仕事をしていたとしてもそこにストレスなく楽しんでやっているのだとしたらそれは安息なのではないかと思いますし、本来の意味で言えば、それぞれの存在が自分自身のスタイルに合わせて安息を得られるようにということを神は願っているのではないかと思うのです。
しかし残念ながら、そのような神の言葉を律法と言うルールにして、それを守られなければいけない。例えば、礼拝を守らなければならない。安息以外の何もしてはいけないと言われてしまうと、それが逆に、人の自由な呼吸を息苦しく縛り付けるようなものになってしまうのではないかと思うのです。
今日の聖書箇所は、麦の穂が実っている畑の中をイエスの弟子たちが歩いている場面です。豊かな畑の実りは祝福であり喜びです。なんとなく、イエスさま一行もその恵みを喜んでいるような、はしゃいでいる状況が思い浮かびます。だからこそ弟子たちもこそっと戯れに麦の穂を摘んだのでしょう。ところがそれを見かけたファリサイ派の人々が言います。「なぜ、彼ら(あなたの弟子たち)は安息日にしてはならないことをするのか」。この時、問題になったのは、麦の穂を摘むと言う行為が収穫と言う労働に当てはまったことです。例えば、農作業用の車を動かしたり、鎌を持って畑で長時間それをしていたら、もちろん労働には当たるかもしれませんが、歩いている途中に麦の穂をちょっと摘まむことが労働に当たるのでしょうか。厳密に考えれば、収穫になるのだと思いますが、しかしそこまで当てはめて考える必要はないのではないかと思います。
何故ファリサイ派の人々がここまで目くじら立ててからんでくるかと言うと、律法に正しく生きることが神が私たちに求めていることだと彼らは考えていたからです。私たちはそれを守っている。しかし、あなたがたは神の与えた律法を何故守らないのか。言葉通りに考えれば、確かに神の教えですから、彼らの言う通りになるのかもしれません。しかし、イエス・キリストの答えはそうではありませんでした。神が人間に願っていることは、そういう風に厳格に律法を守ることではないと言うこと。つまり、人は律法を守ることを最優先にして生きなければいけない存在なのではなく、むしろ人間を守るために律法があるということを示すものでした。
考えてみれば、当然のことです。神の教えとは人が人らしく生きるために与えられた教えであり、恵みであります。しかし、私たちはその神の教えを、人を裁く基準にしてしまうことがあります。神の教えを大切にすればするほど、純粋な思いでそうしてしまうのです。しかし実に、そのように言う人こそ、そのような教えに縛られてしまっていて息苦しい中で正しさを求めてもがいて生きているという現実があるのではないかと思います。
イエス・キリストは、ダビデの物語を引用しています。実はこの引用には少し間違いも含まれているのですが、しかし実に言いたいことは、物事には必ず例外があると言うことであり、そして神はその教えを破ったところで人を裁くような方ではないということです。神は愛なのです。
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:27-28)。
神が人々に願っていることは何か。それは、すべての人が安息を得られること。ホッと一息ついて深呼吸をして、気持ちを整えること。何か日常の物事に追われているときには気付かない神の恵みにわたしたちは囲まれて生きているということに心を留めること。神が私を愛して創造してくださったということに感謝すること。それによって、私たちの周りにも私と同じように神さまの恵みとして生かされている人々がいることに気付くことができるのではないでしょうか。
実は私は今日の説教題に「安息日は、人のためにある」とさせていただきました。「人」というのは聖書のギリシャ語本文では冠詞付きの単数なので、不特定の誰かを現わすのではなく、人間そのものを指します。言い換えれば、人それぞれ個人の安息のために安息日が定められたと言うのが、恐らくはここで伝えようとしているメッセージの本筋だと思います。しかし私は、この「人」に「人間」と変えても考えられると思います。ギリシャ語でも人も人間も一緒の言葉です。しかし日本語にすると意味が変わってきます。人間は「人の間」であり、「世の中、社会」を現わします。安息日は、個人の安息のためのみではなく、それによって世の中、社会全体、人間同士の関わりの中で安息を得ることが目的なのではないかと思うからです。
私たちは8月に入ると「平和」を黙想します。人が得ようとしている平和とは何でしょうか。私は、全ての人が安息を得られる社会ではないかと思います。全ての人が安息を得られる社会とは何か。それは、自分の正義感、自分のルールに当てはめて相手を考えることではなく、むしろ相手が何を求めているのかを知り、共に生きて行くことから始まるのではないでしょうか。何故ならば、神は安息日を一人一人の人のために与えられたからです。安息日を守れる人だけが偉いのではないのです。安息日に安息したいのにできない存在がいるということに私たちは心留めたいのです。これは私たちが誰かの隣人になっていくためのへの、神から与えられた大いなるミッションのように思えます。
イエス・キリストは厳密な意味で言えば律法違反をした弟子たちを罪に咎めませんでした。そして自分に論争を吹っかけてきた人々に対しての発言から考えると、彼らがその言葉自体に縛られてしまっていることに嘆かれているようにも思えます。
人は自分が正しいと思って人を裁きます。しかし神の言葉は、わたしたちに気付きを与え、囚われから解放し、神の恵みへと導きます。人は時にそれが自分への批判と感じ、受け止めきれない時もあります。罪深い存在です。しかし、神が私たちにイエス・キリストを送られたのは、私たち、そしてすべての者たちが「安息」の中で生きるためなのです。
使徒パウロはこう言います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ5:16-18)。隣人と共にこの言葉に生かされて参りましょう。