ニュースレター

2023年8月13日説教全文「神の正しさと人の正しさ」牧師:西脇慎一

〇聖書個所 マルコによる福音書 3章1~6節

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

〇説教「 神の正しさと人の正しさ 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今日もとても暑い朝ですが、皆さまお元気にお過ごしでしょうか。先週は台風6号が沖縄・奄美から九州を北上し、福岡でも大変な豪雨となりました。皆さまのお住まいの地域はご無事でしたでしょうか。一方、フェーン現象の北陸地方を始め、日本全国で猛暑日が増えています。私たちの教会のオンライン礼拝には、各地にお住まいの方々が集っていますが、皆さまの命の守り、生活の守り、そして今後も起こりうる自然災害の危険からの守りのためにお祈りしています。この国では現在、夏の帰省の時期に入っています。既にご家族と久しぶりの交わりを持っている方々もおられますし、今日わたしたちの教会にも久しぶりにご出席のご家族の方々もおられます。皆さまのご健康が守られ、夏の日々の歩みが祝福されますようにお祈りしています。
それでは今日も聖書の御言葉に耳を傾けて行きましょう。今日の聖書箇所マルコによる福音書3章1-6節のテーマは引き続き「安息日」についてです。先週取り上げたマルコ2章23-28節の箇所では、イエスの弟子たちが「安息日に麦の穂を摘んだこと」が問題となりましたが、今日は「安息日に癒しを行うこと」が問題に挙げられました。先週も申し上げましたが、安息日とは、神が創造の業を終えて休まれた日の記念であります。そのためにすべての人が労働から解放され、安息を得るようにと決められた日のことです。つまり本来の目的でいえば、安息日とは「身も心もほっと一息リフレッシュして生の質を高め、充実した生を送れるため」に定められたものであると言えるでしょう。しかしながら、当時のユダヤ社会の人々の中では、神に礼拝を献げる以外は「なんの仕事をしてはいけない日」「休まなければ律法違反になってしまう日」として、理解されていたようです。
状況を整理しましょう。安息日にイエスは会堂にやってきました。そこに手の萎えた人がいました。その情景について、マルコ福音書はこう書いています。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか注目していた」(マルコ3:2)こう書かれていると、もしかして、この手の萎えた人は、イエスを訴えるために人々が用意した罠だったのではないかとわたしには思えてしまいます。彼が自分の意思で会堂に来たのかそうではないのかはわかりません。しかしたとえ彼が自分の意思で会堂に来ていたとしても、人々はその彼の思いを利用して悪だくみを考えているように受け取られるのです。イエスが会堂に入ってすぐに手の萎えた人に気付いていることは、恐らくは彼は会堂の入り口近くの末席にいたのでしょう。普段ならば、中央に座るような人々からは、注目されないような存在だったのではないかと思うのです。
彼の手が萎えていた理由はわかりません。生まれつきのハンディキャップなのか病によるものであったのかはわかりません。しかし、この萎えたという表現ですが、ふにゃふにゃと力なくしおれるさまを考えますが、他の言葉で訳すと、枯れるとか干からびるというような症状であったようです。

「枯れる」ことは水分を失うこと、生き生きしなくなる、それによって力なくしおれていたのでしょう。肌がカサカサしてきたということもあるかもしれません。もしかして病気と言うよりも何らかの事情で、彼自身の体から生き生きとした水気が失われていた、言い換えれば、その人のいのちのうるおいが損なわれていたということかもしれません。そんな人が会堂に来ていた理由は、癒されることもそうなのですが、まさに神の言葉に命の水を求めて生き返ったようになること、或いは多くの人に祈ってもらうためであったのではないかとも思われるのです。

ところが、そんな人がいるのに、人々はその人に手を差し伸べるどころか、イエスを陥れるための手段として傍観しています。その人自身もそんな不穏な状況は察していたのではないでしょうか。その心中を察するとあまりあります。誰も自分の声を聴いてくれようともしない。誰も心配してくれない。自分に相手にしてもくれない。むしろ何らかの目的のために自分は利用されそうになっている。その人は孤独だったと思います。そのいのちはまさに枯れていたのです。その人がこの聖書の文脈でいっさい声を出さないことにも、なにかそのような息がつまりそうな苦しさが象徴されているようにも思えるのです。
しかしながら人々の関心は、残酷なことにその人が癒されるかではなく、イエスが安息日に癒しの業を行うか、つまり律法違反をするかどうかというその一点に向かっていました。安息日は働いてはいけない日だから癒しを行ってはならない、困っている人を助けてもいけないなんてことがあるのでしょうか。現代日本社会に住む私たちにしてみれば、いったい何を言っているのかと感じます。でもファリサイ派の人々は律法に書いてあるから、大まじめにどこまでのことが許されているかということを考えていたようです。彼らの規定では、救急の場合には医療行為は認められていましたが、命に別状はない場合は翌日に行うべきだと決められていたようです。確かに手の萎えた人の場合、救急救命の必要があるという感じではありません。しかしながら、彼の個人の命の尊厳というものは、まさに風前の灯火のようになっていたのではないかと思います。

今日の箇所ではイエスは、怒って周りの人々を見回し、人々の頑なな心を悲しんだとありますが、悲しんだと言うよりは、やるせない、言いようもない憤りを含む悲しみがあったのではないかと思います。それは神の言葉の本質にではなく、表面的な律法の文言に縛られてしまっていて、そこにいる生身の人の姿を顧みようともしない態度に対してです。確かにその萎えた手の人は、症状的には救急の必要があったわけではなかったでしょう。しかしながら、その傷ついた心、今なお傷つけられている状況にその人の心は相当深刻な状況があり、今まさに癒される必要があったのにも関わらず、人々はまったくそれに気づいておらず、無関心であったということも、イエスの怒りと悲しみに繋がることだったのではないかと思います。
だからイエスは、そんな人に声をかけられ、「真ん中に立ちなさい」と言われたのではないでしょうか。その言葉は、周りの人に対しては「その人自身を見なさい」。ということとして響きます。つまり「あなたがたは「手の萎えた」という症状だけを見て、癒すか癒さないかということに関心を持っていたかもしれないが、その人の姿、その人の表情、その心の動きを見てみなさい。果たしてその人は、安息日に礼拝に来ているけれど、安息を受けているだろうか。この状況は何なのだ。その人が安息を受けるためにはどうしたらよいかと考えてみなさい」と言うことではないかと思うのです。

イエスの言葉は、その手の萎えた人自身にはどのように響いたでしょうか。衆人環視の中どこにも居場所がなかったように思われるその人に、イエスは声をかけました。そしてこのように言われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか。殺すことか」。驚くことに、イエスがここでこの言葉を向けているのは、人々に対してです。普通考えられる第一声は、その人に対する慰めや励ましの言葉であるかなと思うのですが、そうではありませんでした。しかしながら、実にこの言葉がその人にとって安息となったのではないかと思うのです。それは彼の心の悲しみを理解し受け止めるだけでなく、神の御旨がなんであるかを伝える言葉であり、助けを与えなかった人々への批判であります。つまり安息日であろうがなかろうが、神が願っているのはその人の救いであるということをその前提として伝えているからです。イエスは、このようにして、その人の心の内側にある痛んだ心に、神の愛を伝え、寄り添い、慰め、そして癒しを与えられるのです。

イエスはその人に言われました。「手を伸ばしなさい」その人は手を伸ばすと元通りになりました。元通りとはどういうことでしょうか。単純に癒されると言う言葉ではありません。むしろ「回復する」とか「元の状態に治る」いう意味合いが強い言葉がここでは使われています。つまり、彼はここでイエスの言葉あるいは声掛けによって手の症状が回復しただけでなく、枯れていた彼の心に命がよみがえったという、うるおいが与えられたという印象を強く受けます。実はイエスがその前に彼に語られた「真ん中に立ちなさい」という言葉は、言語では「起きなさい。そして真ん中へ」という風に訳せる言葉ですが、起きなさいは、「目を覚ます、よみがえり、復活」とも訳せる言葉で、イエス・キリストの復活の時に天使が「あの方は復活なさったのだ」という言葉と同じです。イエス・キリストとの出会いによって、その人は症状が治され、飢え渇きに憩いの水を受けて復活し、生かされていった。これが安息日に本来律法で許されている善である。イエス・キリストが言いたいのはこう言うことではないかと思います。
しかし残念ながら、人々は安息日に癒しの奇跡を行ったイエスを訴える口実を得、イエスを殺す悪だくみを始めるということで、今日の聖書個所は閉じています。会堂に集っていた人々にとっては、やはり安息日に癒しを行うのは律法違反であり悪だと言うことなのでしょうか。

実は平行記事のマタイ福音書ではイエスは人々に自分の事柄として考えるように促しています。「あなたたちのうち、誰か羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから安息日に良いことをするのは許されている」。あなたがただって自分の羊が穴に落ちたら引き上げるだろう。それであれば、人間を救うことだって同じように許されている。イエスはこのように言います。
そこまで言わなければわからないのが人間です。いや、そこまで言っても頑なになってしまって聞くことさえしなくなってしまう、これが人間だと思います。律法の文言に捕われ、それが正義だと無批判に思考力を失い、本当に神が願っていた愛を行わず、人を裁くための道具にしてしまっていました。
「安息日に律法が許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」。命を救うことの反対は、救わないことではなく、殺すことに直結しています。それほどの事柄なのだということです。人々にとってこの問いかけは、自らの歩みを振り替えさせる言葉になったと思います。つまり、あなたがたが安息日にしていることは何か。それは本当に善いことであるのかということを逆に問いかける言葉です。あなたがたは安息日に人を利用して人を貶めようとしているが、それは本当に安息日に行うことなのだろうか。神が本当に願っている安息の姿はなんだろうか。

聖書を通して、私たちにも今同じ質問が向けられています。私たちは安息日に何を行っているだろうか。自分の在り方、自分の固定化された正義感によって、安易に無批判に、人を裁いていないでしょうか。果たして私たちはイエス・キリストの言葉に向かい合っているでしょうか。私は今日の箇所で言えばその人々の一人として同じ立場にいる者です。自分の正義を振りかざし、その主張が間違っていると指摘されて耐えられなくなった時にも悔い改めることもできず、むしろあいつは邪魔だから何とかして始末してしまおうとする人々に非常に近い者です。しかし、それは自分の正しさの主張にはなりますが、本当の正しさではありませんし、その始まりから既にほころびています。
大切なのは、私たちがイエス・キリストの御言葉を聴いて、打ち砕かれ、立ち返りを得ることです。私たちは変えられることを恐れます。土台がぐらついてしまうからです。しかし、大丈夫なのです。崩された土台はイエス・キリストの御言葉によって新たな形へと造り上げられて行くからです。

そんな私にとって安息日にする善いこととは、今、この片手の萎えた人が神の言葉に癒しを求めてきたように、神の伴いこそわたしたちの希望であることを語ることであり、共に生きて行くことであることを感じています。私たちには苦しい状況があります。それぞれの状況やご事情もあるでしょう。願い求めても得られなかった飢え渇きがあります。でも、そんなわたしたちにイエス・キリストが寄り添い、いのちを回復させてくださることが私たちに与えられている福音なのです。私たちは独りではないのです。イエスはそんな私に声をかけ、わたしを見つめ、その心をわかってくださるからです。
先週一週間、私たちは台風の中、長崎の原爆記念日を迎え、改めて平和を祈り求める時を過ごしました。平和を作るために必要なこと、それはすべての人が安息を得られるようにすることです。ホッと一息ついて深呼吸をして、気持ちを整えることから始まるのです。実は教会とはそういう場所です。普段気付かない神の恵みにわたしたちは囲まれて生きていることに心を留めること。神が私を愛して創造してくださったことに感謝すること。それによって、私たちの周りにも神さまの恵みに生かされている人々がいることに気付くことができるのです。神の言葉に立ち返りを得、また恵みを分かち合い、今週も歩んでまいりましょう。

関連記事

TOP