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2023年9月24日説教全文「私を信じる者は、死んでも生きる」牧師:西脇慎一

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〇ヨハネによる福音書 11章25~27節

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。

〇説教「 私を信じる者は、死んでも生きる 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さまのご健康が守られ、日々の歩みの上に主の祝福と守りがありますようにお祈りしています。

今日の礼拝は、召天者を記念する礼拝です。会堂に並べられた写真は、教会の信仰の先達のみなさま、また今ここに集っている私たちの家族です。しかし召天者を記念するという思いは、教会員だけでなくここにお集まりの皆さま全てが持っておられる思いですので、それぞれご自分の大切な方を思い起こしながら、この礼拝の時をお守りいただければと思います。それぞれの大切な方を思い起こす時、私たちの心には一つひとつの思い出が思い浮かんできます。そしてそのお一人一人は、それぞれの時に天の国に召されて参りました。旧約聖書ヨブ記で家族を失ったヨブは言います。「主は与え、主は取りたもう。主の御名はほめたたえられよ」。(ヨブ1:21)しかし、親しい間柄にあった家族や友人などの死の出来事に際しては、このようには到底言えないような悲しくつらい思いがあったと思います。その死の理由がいかにせよ、神は何故その人を助けてくれなかったのか。神は私たちの祈りを聞いてくださらなかった、むしろ神に見捨てられたのではないかと思うのが、死という圧倒的な絶望の出来事に触れる時の私たちの心情、無力感だと思うのです。

しかし、私たちが今日覚えたいことは、召天とは、神がお一人一人をその時々に神の御許に召されていったと言うことです。キリスト教は復活の宗教であります。私たちは日曜日の礼拝を主日礼拝と呼びます。それは日曜日がイエス・キリストの復活の朝であり、その復活を記念することから一週間を始めていくためです。死は終わりの出来事ではない。死は復活に飲み込まれた。死はむしろ神の国における新しいいのちの始まりの出来事である。確かに私たちは肉体を通して交わることはもうできなくなってしまったけれど、その関係は断たれたのではなく、今も変わらずに残っているのである。そして、また来るべき時に神の国において再会できる希望が主イエス・キリストにおいて与えられている。これを私たちは毎週の礼拝で確認し、主を礼拝するのです。ですから私たちは今日も、天の国における再会の希望が与えられていることを心に留めたいのです。

本日選ばせていただいた聖書個所は、イエス・キリストが友人ラザロの死の出来事に触れた時の箇所の一節です。この出来事にはヨハネ11章1-44節までの一連の流れがあるのですが、時間の関係上全てはお読みするのではなく、中心的なイエス・キリストの言葉を選ばせていただきました。聖書をお持ちの方はどうぞ開きながらお話を聞いていただければと思います。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
皆さんが、それぞれのご家族の死という出来事に触れた時、もし仮にイエス・キリストがそばに来てこのように言われたら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。なかなかに受け入れることが難しい言葉だと思います。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」。いやいや、そういわれても死んでしまったけれど。死んでも生きるってどういうことですか、という疑問が生まれたり、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。それでは、私の家族はイエスさまを信じていなかったから死んでしまったのだろうか。いやむしろ、決して死ぬことはないなんてことはあるのだろうかというような疑問が生じることだってあったりすると思うのです。
そもそもこの言葉が何を言おうとしているのかが分かりません。まして、兄弟ラザロを亡くした直後のマルタとマリアの姉妹にかける言葉としては、適切であったのかさえよくわからないわけです。

しかし、私たちが心に留めたいのは、この言葉がイエス・キリストが身近な人を失ったばかりの人に告げられたということであり、この言葉はまさにラザロの復活という出来事を通して示されたと言うことなのです。それでは聖書個所を見ていきましょう。

ラザロが何故死んだのかという理由については病気であったと記されています。マルタとマリアはイエス・キリストに人をやってラザロが病気であることを伝えています。恐らく見舞いに来てもらい、助けてほしかったのでしょう。ところがその思いを伝え聞いた後、イエスは2日間さらにその場に滞在されてからベタニアというラザロの住む町に出かけました。結果としてイエスがラザロのところに着いたとき、ラザロは死後4日ほど経っていました。
姉マルタと妹マリアの反応は対照的です。マリアは家の中に閉じこもり呆然としている様子ですが、マルタは悲しみつつも気丈に振る舞い、弔問客の相手をしています。親しい家族の死、それは家族にとってとても苦しく悲しいことですが、それ以前にまだまだ現実を受け止めきれないショックの方が大きいのではないかと思います。葬儀をしても現実感がない。夢であってほしいと思うようなこともあります。受け止めたくない事実。しかし少しずつ周りの人に声をかけられ現実を受け止めるようになります。そんな時イエスがやってきました。マルタは抑えきれない気持ちをぶつけます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。

私たちも同じように思うのではないでしょうか。「神を信じているのに、何故このような不幸が起きるのか。神は私の祈りを聞いてくれなかった」。マルタの心の葛藤は想像するに難くありません。何故イエスさまは来てくれなかったのか。もし来てくれたら助かったのに。「たられば」という言葉があります。言っても仕方のないことです。しかし言わなければ収まらない気持ち。この気持ちをマルタはイエスにぶつけるのです。ぶつけていいのです。その思いを受け止めるためにイエスはマルタの元に、マリアの元に向かったのです。カタルシスという言葉があります。「精神の浄化」という意味です。自分たちが心にある様々な思いを言語化して吐き出すことを通して、私たちは心を軽くすることができます。マルタは自分の思いをイエスに伝えました。そして実に最後に残った言葉が、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。という言葉でした。つまり希望です。死して終わりではない。神が私たちと共にいるということにマルタは希望を改めて持ったのです。
私たちは嘆いてはいけないとか、しっかりしないと人を困らせてしまうとか色々な思いで自分の感情を押し殺します。しかし、まずはしっかりと受け止めきれない心を出すことが大切なのです。その後に私たちは希望に目を注ぐことができるからです。イエスはこの言葉を静かに受け止めて言います。「あなたの兄弟は復活する」。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。

「私を信じる者は死んでも生きる。生きていて信じる者は誰も死なない」。そんなわけありません。神を信じたら死なないなんてこともあり得ません。私たち人間が、生まれたときから決まっている唯一のことは、私たちはいつか必ず死ぬ時が来るということです。どんな人もそれを避けることはできません。では、何故イエスはこのように言われたのでしょうか。これは恐らく、私たち生きている者たちへの慰めであります。伝えようとしていることは、人は死して終わる存在ではないということでしょう。しかしそれはまさにイエス・キリストの言葉、或いはその生き方を信じた時に、まさに私たちの身に起こってくる事柄であるということなのです。

実は、この物語の最後は、ラザロがよみがえるという結末を迎えます。イエス・キリストがラザロの墓に赴き、「ラザロよ、起きて来なさい」と言います。すると、ラザロが、体を布でくるまれたまま出てきて、文字通り「復活する」という流れになっているのです。体が布でまかれていると言うのは、当時向こうではミイラのように埋葬する習慣があったのだと思います。
現実的に考えたら、もちろん死者の甦りなんて考えにくいことだと思います。しかし、それでは、この聖書箇所が意味していることは何なのでしょうか?それは端的に言うと、死者の命は、神の言葉によって墓から呼び出され、死から解放され、自由にされると言うことなのではないでしょうか。

実はラザロが復活した後、イエス・キリストは人々にこういいます。「ほどいてやって行かせなさい」。どこへ行かせようとするのでしょうか。普通、彼を家に連れて帰りなさいとか、食べ物を与えなさいとか、そういう声をかけるのではないでしょうか?
「ほどいてやって、行かせなさい」という言葉は、私にはちょっと不自然な言葉に聞こえます。普通なら彼を助けなさいと言うのではないでしょうか。行かせるってどこに行かせるのでしょうか。私には、この言葉が「ラザロを墓から解放して自由に行かせなさい」という意味に聞こえるのです。ラザロは、墓から自由になって行ったのだ、墓の前で悲しむ時は終わりを迎えた。彼の死を悲しみ続ける必要はない。何故ならば、彼は今、神の御許で甦り、新たないのちの時を歩んでいるからだ。
つまり、「私を信じる者は決して死ぬことはない」という意味は、地上での生は終わるけれど、神の御国にて永遠の命を生きる希望を与えられていることではないかと思います。

この言葉が、マルタトマリアに語られたということが大切です。つまり生きている者こそ、その別れに苦しむからです。もちろん、先ほど言いましたように、しばらくの間悲しむことは必要です。しかし、そののち私たちは心の中にある思いを神の御手に委ねた時、私たちが悲しみから出されるということ。まさにラザロが墓から自由にされたように、わたしたちも死からよみがえると言うことなのではないでしょうか。私には、ある意味、復活とはこういうことなのではないかと思うのです。
2006年頃より「千の風になって」という歌が有名になりました。「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」という歌詞の歌です。ご存知の方もおられると思いますが、あの元々の歌詞は、アメリカで作られたものです。
千の風、は英語ではサウザント ウィンズですが、もともとの聖書の言葉では、風と霊、そして「息」は同じ言葉なのです。つまり、私は死後、神の息に生かされる存在になるのだ。私はお墓の中で死しているわけではないんだよ。神の御許で生きているのだ、ということが歌われた歌なのではないかと思うのです。聖書には、人間は土の塵で作られ、鼻に生命の息を吹き入れられることで生きる者になったという物語が描かれています。私たちはこの地上の生を終える時も、同じ神の息に生かされるのです。

今日の聖書個所に戻ります。マルタは言います。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。これは信仰告白です。これを信じた時、私たちには死は終わりではなく、復活という風に変えられて行くのです。

神が私たち一人一人に出会いを与えてくださいました。私たちには神の国における再会の希望が与えられています。召された者たちは、既に神の国におられます。詩編23編には、その神の国についてこのように書かれています。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる」。

イエスは言われます。「私を信じる者は、死んでも生きる」。私たちの思いを主に委ね、平安と希望と慰めを頂いて参りましょう。

〇祈り

主なる神よ、今日は召天者記念礼拝ということで、この教会に連なる多くの教会員そのご家族と共に礼拝を守れる恵みを感謝します。今日お配りした召天者名簿には約265名の名前が記載されています。全ての方をお読みすることはいたしませんでした。そしてこの名簿には名前はないけれど、覚えたい召天者のために祈っておられる方々もおられます。中には特に今年に突然ご家族を失われた方がおられます。その心には色々な思いや痛みがあることでしょう。何故、どうして。どうしていたらよかったのかといつまでも続く問答を抱えている方もおられると思います。時間がたっても解決しない痛みもあります。親しい方の死とはそれほどの大きな痛みを伴うものです。主よどうぞお一人一人の心にあなたが寄り添ってくださいますようにお祈りします。
今、説教を通し、イエス・キリストが復活の命を示してくださることをお話ししました。私たちは神の御言葉により希望を頂き、まさに死のように落ち込んだ心から自由にされることを望みます。神の約束を信じ、改めて今、それぞれの大切な方々を主の御手にお委ねすることができますようにお導き下さい。そして神の伴いの中で、私たちも平安を得て、慰めを受けて、新たな歩みを進むことができますように。中には今日願いつつも参加できない方々もおられます。遠方にお住いの方々、ご高齢のため、思いを持ちつつも礼拝に集えない方もおられるでしょう。お一人一人にあなたが伴い、その心の祈りに寄り添ってくださいますように祈ります。

〇聖書

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。(ヨハネ6:38-40)

〇祝祷

願わくは上より我らを祝福し、下にて我らを支え、前にて我らを導き、後ろにて我らを守り、かたわらにて伴い給う、父・子・聖霊なる神が、今この場に集いし一同の上に、オンラインで礼拝を守っている方々を含め、それぞれの場にて祈り心を持っておられるお一人一人の上に、また先に御許に召された一人一人と共に、永遠にありますように。

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