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2024年1月28日説教全文「 5,000人の給食の奇跡とは何か 」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 6章30~44節

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」。これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい」。弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です」。そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

〇説教「 5,000人の給食の奇跡とは何か 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週の皆さまの歩みの上に主の恵みと守りがありますようにお祈りしています。今日は礼拝後に次年度の役員選挙を含む総会が開催されます。総会は主の御心を共に祈り求める大切な時です。是非ご参加ください。今日はその総会に先立ち、イエス・キリストの福音について心を向けていきたいと思います。何故ならば、その姿に心を留めて歩んでいくのが、私たちキリスト教会の姿であるからです。

今日の聖書箇所は、マルコによる福音書の通読の続きの箇所で、有名な「5000人の給食」或いは「共食」と呼ばれる個所です。「給食」と言う言葉には、神さまから差し出される恵みを頂くという意味合いがあり、「共食」という言葉には、共にその恵みを分かち合うという印象が感じられます。

しかしながら、いずれにせよ、このお話は、聖書の中でも最も不思議で理解しがたい奇跡物語のように思います。たった五つのパンと二匹の魚が、男だけで5000人のお腹を満たすものになった。恐らくここには恐らく女性も子どもたちもいたはずです。聖書を見てみると「大勢の群衆」がそこにはいたと書いてあります。大勢の男たちではないのです。ですから5000人以上、或いはその倍近い人数が食卓に預かったのだと思うのです。たった五つのパンと二匹の魚でそんなことがあり得るのでしょうか。さらにそれだけでなく、余ったものを集めたら12のかごにいっぱいになったとあります。この手の奇跡物語はどのように考えればよいのか迷ってしまいます。確かに色々な考え方はあるでしょう。例えばいったいどんなパンと魚だったのでしょうか。元々鯨のように大きい魚だったのか、体より大きなパンだったのかなぁとか考えられるかもしれません。それとも元々パンと魚は小さかったけれど分けたら増えたのか、そうするとパンを割くどの時点で増えたのかなぁと想像は膨らみます。
これは実は私が幼い時から教会学校でこの話を聞いたときから感じていた疑問です。皆さまの中にも同じように思われる方もいるのではないでしょうか。なるほど確かにイエス・キリストが神の子であるなら、どんな奇跡でも起こすことができると信じ、説明することは可能かもしれません。しかし理性的に考えれば、これは物理的に可能ではありませんし、眉唾物だと思うわけです。しかしながら、こんな不可解な話が、何故かマルコ福音書だけではなく、4つの福音書に全て収録されています。これはあらゆる奇跡物語の中でも極めて特徴的です。つまり、この奇跡物語は単にパンを分けたら増えた的なお話しではなく、聖書の中で重要な意味があるということなのです。ですから私たちは文字通りにこれを信じると言うよりは、ここでいったい何が伝えられようとしているのかを考える必要があるのです。私はその意味について一言で言えば、これがまさにイエス・キリストの食卓であり、神の国の食卓であるということを現わしているのではないかと思うのです。

先ほどこの物語は4つの福音書に全てに収録されていると言いました。確かに基本的なベースは四つの福音書で共通しています。しかし丁寧に読んでいくと、その文脈が少し異なっていることに気付きます。私たちはこういう物語を見る時に、「それでは一体どれが正しいのだろう」と思ってしまうことがあります。しかし大切なのはそれぞれが伝えようとしているメッセージが異なるということです。

例えばヨハネによる福音書の平行記事で有名なのは「パンと魚を差し出したのは少年である」ということです。少年のお弁当ですからたかが知れているものです。その申し出を受けた弟子の一人アンデレも「こんなものは何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6:9)と言っています。しかしそのたかが知れているものでも献げる時、イエス・キリストはその献げものを大きく祝福し、5000人のお腹を満たしたのです。つまり、私たちの目から見ても「無に等しい」と思うような献げものであっても、神はすべての人の必要を満たす恵みに繋げて下さると言う意味を受け取ることができます。

それでは今日のマルコが伝えようとしていることは何でしょうか。私たちがまず心に留めたいのは、食べ物を分かち合うまでの前段の30-34節の部分です。聖書個所でお分かりの通り、このお話は使徒たちが派遣から帰って来て、その出来事を報告し、「しばらく休みなさい」と言われ、舟で人里離れたところに行ったところ、大勢の群衆がそれに気づき、先回りしてやってきたと言うことからこの出来事は始まっています。

弟子たちは疲れていたと思います。イエスさまのねぎらいの途中、休む間もなく大勢の群衆に取り囲まれてしまったのです。イエスさまはそんな群衆を「飼い主のいない羊のような有様」を見て、深く憐れみ、色々と教え始められました。深く憐れみという言葉は、「共感共苦」とも言われますが、その人々に深く心を打たれ、自分自身のことのように痛みを共にされたと言うことです。つまり、彼らが人里離れたイエスさまのところにまでやってきた理由は、それ以外の他の場所に助けを求めることができなかったからなのです。イエスさまはそんな彼らを放っておかれることはなさらず、彼らのために時間を費やし、御言葉を教えられたのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)とある通り、イエスさまが彼らにお語りになったのは、神の言葉であり、それは彼らの心に慰めを与え、希望を指し示すものであったのではないかと思います。
弟子たちは疲れ果てながらもそんなイエスさまの心を受け止め、お手伝いをしていたのでしょう。ところが次第に時間が立ち、夕暮れに近づいてきました。弟子たちも空腹を覚え、次第に疲れを隠すことができないようになってきています。神の言葉は大切だけれど、パンも大切だということはよくわかります。さらに彼らの状況を考えてみると、何より彼ら自身が限界を感じていたのだと思います。「イエスさま、さすがにもうそろそろ解散させてもよいでしょう。他の人々の体力も心配だ。何より私たちの体力も限界、お腹もペコペコだ」。そこで弟子はイエス様にそのように語りかけたわけです。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」。ところがイエスは言われるのです。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」。

さて、皆さんが弟子たちであったら、この言葉をどのように受け止めるでしょうか。「体力も気力も限界です。早く休みたい。また群衆たちの帰りの道も心配だ。確かにパンがあればいいけれど、そんな大量のパンがあるわけない。それよりも先生は私たちの心配はしてくれないのか。なんで先生、そんな無茶なことを言うのですか?」。もし彼らが元気であったなら、また彼らに200デナリオンあったら、彼らは買い求めに行ったかもしれません。でも、それができない状況にあった。しかも、その疲労困憊具合をイエス様に分かってほしいということで、弟子たちはそのような思いで発言したように思えるのです。ところがイエスさまは言います。「パンはいくつあるのか。調べてきなさい」。

彼らが持っていたパンというのは、この文脈上で考えると、まさに弟子たちが休息の時に食べるパンでしかありませんでした。何よりも弟子たちが一番楽しみにしていたパンです。弟子たちはどう思ったでしょうか?「イエスさま、いったい何をおっしゃるのですか。あなた方が食べ物を与えなさいって、わたしたちのパンを与えるということですか?ちょっと待ってくださいよ。そのパンは私たちのです。私たちが宣教の働きをして、あなたから「よくやったごくろうさま」と言われ、これから食べようとしている、のどから手が出るほど楽しみにしているパンじゃないですか。それをあなたは私たちの手から取り上げて他の人に与えようとしているのですか。もうびっくりです」。と思ってもおかしくありません。

しかしなんとイエス様はそのパンと魚を惜しみなく弟子たちの手から取り、ほかの人々の手に分け与えてしまったのです。みなさんだったらどう思うでしょうか。不信感が出てきてもおかしくなかったのではないかと思います。ところが驚くことに、そのパンと魚が分かち合われたときに、すべての人を満腹にさせたというのです。すべての人とは群衆も弟子たちも含まれています。また、この「満腹」という言葉は、食べ物で胃袋が満たされただけではなく、「満ち足りた」という意味でもあります。どういうことでしょうか。

ここで起きた奇跡とは何かを考えてみましょう。恐らくそれはパンと魚が増えたと言うことだけではないと思います。弟子たちが自分のものとして持っていた、他の人に分かち合うつもりもなかった大切なパンが用いられた。彼らは恐らくイエスさまの行動に納得できず、不承不承であったと思います。しかし、それが分かち合われたとき、「すべての人が満腹した」のです。つまり、弟子たちは当初自分たちのお腹が満たされること、自分たちの休息を得ることしか考えられていなかったと思います。
そしてそれは、自分たちと群衆を切り離すことでした。しかし、イエスさまがそこでされたことは、切り離すことではなく分かち合うことでした。まさに自分のパンを分かち合うということ、そしてそれが多くの人々の心も体も満たしていくものであったのです。つまり、イエス・キリストの食卓とはつまり多くの方々と共に繋がっていくところであり、神の祝福の中で霊肉共に、心も魂もイエスさまとの関係の中で回復するということです。これが奇跡だと思うのです。

振り返ってみて、私たちはどうでしょうか。私たちは自分のパンと魚を分かち合っているでしょうか。恐らく私たちは正直に言うと、自分たちのパンを分かち合うことが苦手なものではないでしょうか。ヨハネ福音書の少年ように他の人が捧げてくれたらそれを用いるけれど、自分たちのパンを分かち合うことはできているでしょうか?「こんなちっぽけなものではどうしようもない」とか「もっとふさわしいところから支援があるだろう」とか思うことはないでしょうか?イエスさまはわたしたちにそういうことを問いかけているように思います。

この物語の解釈について、ある牧師はこう言います。「パンが増えた理由、それはここに集まっていた人々が、皆自分自身が持っていたパンを分かち合ったからではないか」。イエスさまが弟子たちと共に食べるはずだったパンを分かち合ってくれた。自分は自分の必要な糧を持っていたけれど、それを見て、自分もまた分かち合うものになった。そのように心が変えられて行くと言うこと。これがまさにパンが増えることよりも大切な奇跡なのではないか。

主の祈りにおいてわたしたちは「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、その日ごとの糧は自分のものであり、相手のために日ごとの糧を祈ることをしていないのではないかと思います。イエス・キリストの食卓は「われらの食卓」です。わたしだけではなく、あなただけでもありません。排除される人はいない私たちのために開かれた食卓です。まさにイエスさまの恵みは善人にも悪人にも雨を降らせてくださる神さまの愛と同じように、罪びとにも善人にも信仰を問うことなく開かれており、一方的な恵みであるからです。だからこそ、私たちは正直に言えば悔い改めることさえできていなくても堂々とイエスさまの御前に集い、その恵みに預かっていくことができるのではないでしょうか。そして私たちはそのようなイエスさまの愛だからこそこのかたくなな心が解きほぐされて、少しずつ変えられてきたのではないかと思います。

5000人の給食の物語、ここに起きる本当の奇跡とは、私たち自身が与えられている恵みを、他者と分かち合っているかということです。イエス・キリストは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。私たちは誰とパンと魚を分かち合うのでしょうか。自分だけで頂いてはいないでしょうか。マルコ福音書が語っているのは、私たちのものと思っているパンと杯を主に委ねた時、それはたとえ小さなものかもしれないけれど、皆さんと分かち合っていく時に、私たちが想像もできない奇跡的な祝福が与えられるのではないでしょうか。

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