〇マルコによる福音書 8章11~21節
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」 。そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」 。弟子たちは、「十二です」と言った。 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」 。「七つです」と言うと、 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
〇説教「 ファリサイ派とヘロデ派のパン種 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。今週も皆さんの心と体のご健康が守られ、日々の歩みの上に主の豊かな祝福と恵みをお祈りしたいと思います。
わたしたちは、現在キリスト教の暦でレント(受難節)という、イエス・キリストの十字架への歩みを黙想する時期を過ごしています。マルコ福音書によると、イエス・キリストは弟子たちと最後の晩餐を終えた後、ゲッセマネの園に向かい、ひどく恐れて悶え始めこう祈られました。「アッバ父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取り除けてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 。(マルコ14:36)イエスはその後「時が来た」と言われ、罪びとたちの手に引き渡され、十字架に架けられ殺されました。イエスの祈りに、神は沈黙のままでした。しかし、イエスはその三日後によみがえり、死を滅ぼされました。これが神の義であり、永遠の命へ至る道を示すことであったのです。イエスは弟子たちにこう教えています。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」 。(ヨハネ15:17)
イエス・キリストが十字架への道筋を歩まれたのは、私たちの罪の赦しのためであり、私たちが永遠の命を得るためであります。私たちはこの時、改めてこのイエス・キリストの信仰と愛に心を留めて参りましょう。
本日の聖書個所に入ります。今日は新共同訳聖書で「人々はしるしを欲しがる」と「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」という2つの小見出しが付けられていますが、一つの物語として読んでいきたいと思います。イエス・キリストは8章10節でダルマヌタの地方に行っておられます。実はダルマヌタがどこを指すのかはよく分かっていません。マタイによる福音書の平行記事(15:39)では、マガダンという町に行ったと書かれています。マガダンは一説によると「マグダラ」と同じだと言われており、その場合ガリラヤ湖西岸の町になります。つまり、ざっくりいうと伝えたいことはイエス・キリストは異邦人の土地からガリラヤの町に帰ってきたということです。
久々にガリラヤ地方に戻ってきたイエスを待ち構えていたのはファリサイ派の人々でした。ファリサイ派というのはユダヤ教の一派で、その意味は「分離派」というように、自分たちは他の人々と違い、神の教えである律法を守っている正しい者たちという自己認識があった方々です。そんな彼らが「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けた」とあります。ファリサイ派の人々の議論の目的はなんであったのでしょうか。
そもそも何故この「天からのしるしを求めること」がイエスさまを試すことになるのでしょうか。「しるし」とは証拠ですから、それを見せてほしいというのは一見普通のことのように思います。私たちは残念ながら見たことしか信じれませんので、イエス・キリストが人々の間で噂されているようなす救い主であるとしたら、是非その証拠を見せてほしいと言うのは、ごく自然なことであると思うのです。ですからイエスが救い主かどうかを見極める目的であったとも考えられるのです。
でも恐らくここにはファリサイ派の人々の別の思惑があったのでしょう。彼らはイエスを試そうとしたとあります。実はこの「試す」という単語は、荒れ野でサタンがイエスさまを誘惑したのと同じ言葉です。つまり、彼らはイエスを誘惑しようとしたわけです。「天からのしるし」とは、つまり「天があなたを神の子と選び救い主とした証拠を見せてくれ」ということです。皆さんは天からのしるし、救い主のしるしといえば、どんなことを想像するでしょうか。
例えば、石をパンに変える奇跡はどうでしょうか。もし本当に石をパンに変えるようなことができるのだとしたらそれは、まさに世界の飢餓を一気に解決することができる、まさに救い主のしるしであると言えるでしょう。それとも高いところから飛び降りても天使が助けてくれるというような神の守りでしょうか。すべての災い、天災人災、或いは事故やケガからの守りというものも私たちが神に祈り求めるものであります。またはあふれるばかりの経済的な祝福を与えるというのもあるかもしれません。神の祝福の最も分かりやすい一つの形は富の祝福です。また貧しさが世界の課題の一つですから、そう言うものを与えるというのも、わかりやすい天のしるしであると思います。
しかし、それらは実にイエス・キリストが救い主としての生涯を歩み出したときに最初に手放したものであります。もしそういうものが天からのしるしであったとすれば、イエス・キリストはそういうまさに救い主として求められていたような特権や能力というものをすべて放棄された上で、何も持たない人の姿で救い主の歩みを始められたのです。つまり、人に寄り添うこと、人と共に生きる時にその場に起きる神の出来事がイエスのキリストとしての歩みであったのです。
イエスが心の中で深く嘆かれたのは、そういう理由があったからでしょう。つまり、イエスはファリサイ派の人々が人に寄り添って生きることや何々のために奇跡をという目的を持たずに、ただただ天のしるしを求めたということをひどく悲しまれた、心底がっかりされたのではないでしょうか。仮にもしここに、一人の病の人、一人の悩みを持った人がいて、その人を癒してほしいと言うことであれば何かが違ったかもしれません。そういうこともなく「さあ、お前が神の子ならしるしを起こしてみろ。そうしたら信じてやる」というような姿勢では、仮に奇跡が起きたところで何も変化は起こらないのです。そういう態度は、イエスが十字架に架けられた時の観衆の姿にも現されています。「十字架から降りてこい。そうしたら信じてやる」これが本当に天からのしるしを求める姿なのでしょうか。これは信じる者の言葉ではありません。しかし私たちはついそのように考えてしまいがちなのではないかと思います。
ですからイエスは言います。「はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」 。そしてまた舟に乗って向こう岸に行かれました。「今の時代」というのは「この世代」という意味でもあります。つまり、イエスは見える形でしか信じることができず、「しるし」という根拠を求める者たちにひどくがっかりしてまた引きこもってしまったというような印象を受けます。しかもそれはファリサイ派の人々だけではありません。17節以降に弟子たちに対しても「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」 。という風に言われていますので、やはりこの時代の者たちすべてが、それに当てはまるのだと思います。さらに言えば、今私たちは自分たちが目で見たいもの、自分たちが聞きたいことしか信じることができない世界になってきています。そういう私たちに対して、イエスの言葉は痛烈です。それでは、「天からのしるし」というものは与えられないのでしょうか。実はそうではありません。それがすでに起きたこととして、14-21節に書かれているのです。
14節からは話は再びパンの話題に戻っていきます。イエスは5つのパンを5000人に分けた出来事、7つのパンを4000人に分けた出来事に触れています。つまり、これが既に起きた天からのしるしであることを語っているのです。わかりやすく言うならば、これまで私たちがこの礼拝で受け取ってきたように、5000人は飼い主のいない羊のようなユダヤ人たちに与えられた神の国の出来事であり、4000人は異邦人たちに開かれた神の国の食卓であります。これは石をパンに変える出来事や、人々を強烈な神のパワーで守り包み込むものでも、まして有り余る財が為させたわざではありません。むしろ何も持ち合わせがない中で、人々がかろうじて持っていたパンをみんなで分かち合う時に起きた恵みが溢れる出来事となっています。そしてまさにこれが天のしるしであるとイエスは言うのです。
ところが残念ながら弟子たちはこのことを体験していても、その意味に気付いていないのです。しかしながらこれは弟子たちだけではなく私たちもそうであるのかもしれません。つまり、私たちは神の恵み、神の憐れみというものを、まさにファリサイ派の人々のように天からの奇跡を行う賜物、あるいは権威として特別な人が行う能力のように特別視してしまうことがあるのでしょう。しかし、天のしるしというものは、そういうものではないのだ。むしろ私たちの出会いの足元で、出来事としておきることであるということを教えているのです。
イエスは、ここで「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に気を付けなさい」と言っています。当然ながら、イエスはここで物質的なパンについて言及しているわけではありません。何を言おうとしているのでしょうか。ちなみに「パン種」とは、説明するまでもありませんが、イースト菌などに代表される酵母のことであり、パン生地に取り込むと発酵し、パンを膨らませることができるものです。つまり、イエスはファリサイ派の考え方、またヘロデの考え方というものが人々の心に入り、それが膨らんでいくことに対して注意を促しているのです。それではファリサイ派とヘロデのパン種とはいったい何なのでしょうか。
先ほども申し上げましたが、ファリサイ派は分離派であり、律法を忠実に守ることで「自分たちは正しい」という自己認識を持っていた人々です。しかしそれは差別を生み、律法を守れない人々は「罪びと」と見做すことになってしまいました。彼らが何故律法を守る様になっていったかと言うと、かつて律法をしっかりと守らなかったことで、滅びともいうべき出来事に至ってしまった強烈な過去があるからなわけです。しかしそうはいっても、その神の教えというものが、人々を守るための教えではなく、人々を裁く言葉に早変わりしてしまっていました。言い換えれば彼らは宗教的な力を神のものとすることをせず、自分の力とすることで、自分たちの立場を維持していたのです。
一方ヘロデのパン種とは、何でしょうか。ヘロデはガリラヤの領主でしたから、彼の考えを信奉する者あるいは彼を取り巻く党派があったということでしょう。言い換えれば、体制派、現状維持派あるいはローマと近い関係性があったと言えるでしょうが、その権力の基盤となっていたものは、政治的な力であり、権力への執着でした。
しかし、それらは天のしるしの本質ではなく、ましてや神という存在が願っているものではないわけです。それらはいずれの場合においても、人の自己正当化であり、自己中心の思いであり、つまり聖書が罪と呼ぶものであります。
ファリサイ派とヘロデ派は、宗教的な勢力と世俗的な勢力と立場を分けますが、同様に自分たちの立場を維持するための力であり、自分たち以外のものを犠牲として成り立っているものであります。それはわたしたちが自分の目で見たいものしか信じず、目に入らない人々を構造的に排除することで成り立つからです。
イエスがここで言おうとしていることは何でしょうか。それはむしろそのどちらからも排除された者たちのただ中に天のしるしが起きたではないか、ということです。異邦人、飼い主のような羊のような有様の人々それは宗教的あるいは政治的な力によって生み出された人々である。しかし果たして神はそういう方々をどのように思っているのか。神はむしろそういう人々の見捨てられそうないのちこそが大切に思っているということであります。彼らは何も持たないかもしれません。宗教的な聖さも政治的な権力も持ち合わせません。しかし、そういうものが大切なのではない。むしろ大切なのは、そういう人々が居場所として集える場所であり、そういう人たちの命が顧みられる神の国である。現実は今はそうはなっていないかもしれません。しかしイエスは、来たるべき神の国に目を向けることを語り、人々に決してその希望を諦めないように教えているのです。
世界はますます混沌として来ています。私たちの立っている場所は不安定であり、行く先は見通すことができません。しかし私たちが今覚えたいことは、このイエス・キリストの福音にこそ希望があり、私たちが目指すべき神の国があり、そこに「天のしるし」が起きるということなのです。それは人に出来ることではありません。しかし、神に祈り、神の御心を求めつつ、日々新たにされていく中で実現していくことなのです。
主の伴いに期待をし、共にお祈りしていきましょう。