〇マルコによる福音書 10章1~12節
イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。
〇説教「 離縁の是非より大切なこと 」
みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。皆さまの今週の歩みが主の恵みと守りの内に、良き日となりますようにお祈りしています。今日の礼拝には、西南学院中高の教職員の方々も共に参加してくださっています。今週5/15は西南学院の創立記念日です。1916年、当時大名にあった福岡バプテスト神学校の校舎を用いて始められた福岡バプテスト夜学校を前身とする私立西南学院が男子制中学校として開校されました。その後1918年、西新への移転。そして1922年に高等学校も造られました。私たちの教会もまた1922年、西南学院の働きのために立てられました。私たちの原点は主イエス・キリストの福音にあります。今日は主の日のれいはいですので、共に主の御言葉に聞いていきましょう。
さて、私たちは主イエス・キリストの復活の記念日であるイースターから今日まで、約40日の期間を主の御言葉をいただきながら、過ごしてまいりました。この日数は、復活したイエス・キリストが弟子たちに神の国を解き明かしながら共に過ごされた期間と重なりますし、弟子たちが神の国を理解するのに必要だった期間とも言えると思います。イエスはその後、弟子たちのところを離れて、天に昇っていきました。キリストの昇天という出来事です。この時弟子たちは、イエスの体が天に上げられて行くのをただ見上げることしかできませんでした。どういう風に引き上げられていったのかは想像するしかありません。その時、天の使いが現れ、弟子たちにこう言います。「あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」。(使徒1:11)弟子たちは見えなくなったイエスを見上げつづけていたわけですが、これは大切なことだと思います。つまり、私たちは天を見上げて、見えないものを見続けて歩み出していくからです。わたしたちもまた、見えない神を見上げながら、神の約束の言葉をいただいて歩んでいきたいと思います。
今日の聖書箇所に入っていきます。今日の箇所で取り扱われているのは、「離縁(離婚)」という非常にデリケートなテーマです。聖書には離縁と書かれていますが、私たちにおいては離婚と言う言葉の方が分かりやすいと思いますので、統一してお話しさせていただきます。
先週の説教でも申し上げましたが、聖書には語りにくい箇所というものがあります。先週は「地獄」という非常に恐ろしいテーマで語りにくかったわけですが、今日のテーマはさらに語りにくい事柄です。それは、私たちの身近に起きる事柄であるからです。もちろん、十分に配慮して説教に備えましたし、丁寧に言葉を選んでお話をしたいと思いますが、色々な立場の方がおられます。この説教で傷つく方がおられるかもしれませんし、この言葉を聞くだけで過去の出来事を思い起こしてつらくなられる方もおられるでしょう。また、婚姻と言う言葉に対しても痛みを持つ方もおられるかもしれません。
しかし、良し悪しを言ったり、どなたかのことを意図してお話ししているわけではないということをまずお断りさせていただきたいと思います。それでは何故、今日この箇所からお話をするか。しかも今日は母の日ですし、また幼児祝福式もありますので相応しくないというか、できれば避けたいところではあったのですが、これもまた私たちが継続しているマルコ福音書の通読の続きの箇所でありますし、かつやはり聖書の言葉ですから、私たちが慰めと励ましを受けることができることを信じ、解き明かしをさせていただきます。そして、今日の結論としては、イエスが伝えようとしていることは、離婚の是非に関してではなく、婚姻関係云々に関してでもなく、神が創造されたすべての存在が尊く、誰からも阻害されない存在であるということだ、というお話しします。ですが、もし傷ついたと言うことであれば、その場合、お気持ちを隠しておくのではなく、或いは周りの人に何かを言う前に、お気兼ねなく牧師までお伝えください。共にお祈りしたいと思います。よろしくお願いします。
それでは聖書箇所に入ります。イエスがユダヤ地方とヨルダン川の向こうに来た時の話です。イエスは福音宣教の場であった北部ガリラヤを離れ、南部にある聖都エルサレムに向かっていく旅路を歩んでいました。今日の場所は定かではありませんが、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々が近寄って来て言います。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」。この質問はイエスを試そうとしていたという意図が書かれています。つまり彼らはこの事柄についての答えを求めていたのではなく、この返答によってイエスを陥れようとしていたのです。
まずこの構図によって、離婚という問題が、非常にデリケートなものであるにも関わらず、当時の人々の関心度の高かったものであるということが伺えます。私たちの社会でも離婚とは、婚姻という契約関係の終了ですから、つまり法的には合法であるものであるにも関わらず、道徳的、倫理的な問題にも関わってきますので非常にデリケートな事柄であると思います。ですから、ここでイエスがどう答えるかに関心があったと思いますし、律法に適っていると答えても、律法に適っていないと答えても、反対側の立場に立つ人々の反感を買う、いわゆる「いじわるな質問」であったのだと思います。
でも、ここで注意したいことは、彼らが言っているのは「離婚の是非」、離婚が良いか悪いかではなく、「夫が妻を離縁すること」という方法論、手続きのことなのだと思います。イエスは、彼らに問いかけます。「モーセはあなたたちになんと命じたか」。彼らは答えます。「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」。イエスはそれを聴いて答えます。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
イエスの返答は非常に痛快です。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。つまり、そもそも最初から夫が妻を離婚が許されていたのではない。あなたたちが頑固だからモーセはしぶしぶ許したのだ」と言っているからです。この頑固と言う言葉は、他にも「かたくなな心」とか「頑迷」と訳すことができます。つまり、彼らは自分たちが考えている以外のことを受け入れられない心の固い状態、さらに言えば神の教えさえ受け入れられないような状態だったのです。
しかしながら、イエスのこの言いようは、ファリサイ派の人々、律法学者が律法に書いてあるんだからと文字通り頑固に、頑迷に信じていた律法を、軽々と乗り越えて言っているように思います。つまり律法が言っているからOKとかダメとかそういうことではないんじゃないの。というようなものです。そもそもあなたたちが自分で信じているものを変えられないから、それが問題なのだと言っているのです。
それではイエスが言おうとしていることは、離婚はいけないと言うことなのでしょうか。文字通り読むと、離婚してはいけないと言う風に読めるのですが、私はそう簡単な解釈で終わることもできないのではないかと思います。というのは、そもそもの問題は離婚ではなく、「夫が妻を離縁すること」であるからです。ですから私は、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という言葉が、とても気になります。実はイエスが6-8節で引用している言葉は、創世記2章にあるアダムとエバの創造物語の引用です。そこには確かに、「こういうわけで男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。と書かれています。しかし「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言う言葉は、そこにはありません。つまり、この言葉がここでイエスが言おうとしている核心に触れることだと思うのです。それはどういうことなのでしょうか。
当時の社会状況のすべてを知っているわけではありませんが、ユダヤは家父長制という家族構成の元、男尊女卑が根強く、父権がとても強い社会でした。ですから、婚姻関係においても夫が強く、妻は立場が低いという状況がそもそもあります。つまり彼らが言おうとしていることは、そういう関係性において、夫が一方的に離婚することに対しての是非です。それが律法に適っているかどうか。そもそもモーセはそう教えているのだけれども、と言うのです。これに対して、イエスは神が結び合わせてくださったものを、人が勝手に離してはならないと言います。つまり、こういう立場の強い者側からの一方的なやり方で神の結び合わせをないがしろにしてはならないし、しかもあなたがたが頑固だったからモーセが譲歩して造られた律法を根拠として認められているかを判断するなんて、もってのほかだということでしょう。
そういう人々の理解が当時からよくあったのかはわかりません。でも平行記事であるマタイ福音書19章では興味深い弟子たちの反応が記録されています。イエスがこう言います。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」。弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った」。(マタイ19:9-10)
今の感覚で言えば驚くべきことではありますが、こういう考え方が弟子たちだけではなく、当時の常識のように広まっていた可能性も有ります。もしそうだとしたら、イエスが言おうとしていることは、離婚の是非というよりも、むしろ立場の弱い人を勝手に引き離すことを禁止することなのではないかと思うのです。もしそうだとすると、イエスが人間創造の物語を引用して語られたことに、もう一つ意味が出てくると思います。人間創造の物語が語ろうとしていることは、男性も女性も、またその他の違いを持っている存在もまた神がそのみ手によって造られた存在であり、それぞれの違いが前提とされており、その個性は豊かな多様性の肯定を表していますし、差別格差が生まれることではありません。全ては神の目に等しく尊い存在であり、それらは極めて良かったものなのであるということです。
ですから、イエスがここで言おうとしていることは、あなたが婚姻関係を結んだ相手は、神の愛によって造られた尊い存在である。あなたは神が結び合わせた相手に対して、本当に誠実に尽くしているのか、離縁状を出すというのは、あなたの自分勝手な欲望から出ていることではないのか、あなたがしようとしていることは、心が頑なになっていて帰られないことではないのか。それが果たして本当に神の御心に適うことなのかを考えなさいと問いかけているのではないでしょうか。
そもそも離婚は極めてプライベートな問題です。ですから他人がどうこう言うべき問題ではありません。双方ともに合意した円満離婚もあれば、離婚なんてしたくないのにそうせざるを得なかった方もおられます。あるいは、離婚しなければやっていけないと思うほど、つらい婚姻関係におられた方もいるでしょう。離婚というものは、相手との関係の中で起きる事柄ですから、自分だけで解決できるものでもありません。そういうものを神の名によって良し悪しを決めてしまって良いことでもありません。ですから、むしろ、キリスト救い主と呼ばれているイエスならば、一律の基準によって人を罪に定めるのではなく、むしろ立場上否応がなく、離婚という結果になってしまったものに対して慰めを与え、励ましを語り、共に生きて行こうとされるのではないでしょうか。
ですから、私たちがこの箇所から受け取りたいイエス・キリストの福音は、神の創造の業に思いをはせながら、もっとも小さい立場のものを愛し、慈しまれ、その尊厳を守る神の愛です。そしてそれを見えなくしてしまうものが、構造的に造られた社会環境というものであり、さらにいえば頑固で傲慢で自己中心的なわたしたちの心であり、罪と呼ばれるもの、神のみ思いから離れた方向に向かってしまう思いなのではないでしょうか。
ですから私たちが今日覚えたい大切なこと。それは全ての者は神によって愛され造られた存在であり、その者たちがそれぞれ尊重され、生きていけるようにと神は願っているということであり、そういう苦しみ悩みにいる人々にイエスは伴われるということなのではないでしょうか。