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2024年8月18日説教全文「神のものは、神に返しなさい」牧師:西脇慎一

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〇マルコによる福音書 12章13~17節

さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」。彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。彼らは、イエスの答えに驚き入った。

〇説教「 神のものは、神に返しなさい 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。先週は関東地方に大きな台風が接近しました。大きな被害が出なかったようでよかったですが、依然として日本全国で危険な猛暑が続いています。福岡でもしばらく雨が降っていません。この時期は、礼拝堂の中も暑くなりますので、水分補給をしながら無理なくお過ごしくださいますようにお願いします。今週も皆さまの心と体のご健康が守られ、日々の営みの上に主の恵みがありますようにお祈りします。

私たちは、この8月に「平和」を覚えて礼拝を守り、み言葉を聞いています。イエス・キリストは「平和を実現する者は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。(マタイ5:7)と教えられました。「キリスト者」あるいは「クリスチャン」とは、イエス・キリストの言葉を信じる者たちのことです。信じるとは、その言葉を聞くだけではなく、従って生きていくということが含まれています。言い換えれば、私たちの生活、歩みをイエスの言葉の内に置いて生きていくことが、信仰生活と呼ばれるものであるからです。私たちはこの平和を実現すると言う使命をどのように受け止め、行っているでしょうか。

実はその言葉の受け止め方には教団教派、或いは個々人においても色々な違いがあり得ます。例えば平和を実現するとは戦争をやめさせることと考える方もおられます。或いはその先に進んで争いの原因となっている火種を取り除くこととも言えるでしょう。それとも分断した対立構造を和解へと導くことでしょうか。イエス・キリストは「敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えています。だけど、そんなことはそもそも不可能だと思って聞き流してしまうことだってあります。私たちは頭の中で或いは机の上で、論理的に考えようとしますが、なかなかそういう時には平和に行きつきません。リスクが伴うからです。ですからむしろやはり隣人愛のように、損得勘定抜きに愛を行うこと。目の前の人に誠実に尽くすこと。そこから平和を作ることが始まるのではないかと思います。平和を巡る問題の難しさは、イエス・キリストの言葉を思い思いに解釈してしまい、時に敵対してしまうことにあります。しかし、それが時に神の御心から的外れる「罪」になってしまいます。わたしたちにとって大切なことは、イエス・キリストがどのように生きたか、そしてどういう思いでこの言葉を発したのかを、イエスとわたしたちが人格的に出会うなかで、その思いを聞いていくことです。ですので、今日も私たちはイエスの言葉に込められているメッセージを受け止めて参りましょう。
聖書の内容に入ります。今日の個所は、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々がイエスのところにやって来て、「皇帝への税金が正しいか正しくないか」という問答を仕掛けるという場面です。前回は、祭司長、律法学者、長老という方々がやって来て「権威」についての問答を仕掛けておりましたが、今度は別のグループの方々がやってきたと言うのです。

しかしよくよく聖書を読むと、ファリサイ派の人々やヘロデ派の人々は、その前に出てくる「人々」によって遣わされて来たとありますので、彼らの背後にはやはり祭司長、律法学者、長老がいたということが分かります。祭司長、律法学者、長老、ファリサイ派、ヘロデ派。色々な勢力があります。実はそれぞれのグループには、もちろん共通する点もありましたが、大切にしていることはそれぞれ異なっていました。簡単に言えば、祭司とはサドカイ派という神殿祭儀を大切にするグループの働き人でした。ファリサイ派は律法学者と同じように、律法を順守することを大切としていました。長老というのは、年長者であり、つまり長年の生活の中で培ってきた知恵や経験を持っている人々でした。ヘロデ派は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスを支えているグループでありました。

実は彼らは同じユダヤ人とは言ってもそれぞれの思想によって色分けされていた人々であり、対立点ももちろんありました。普段なら一緒に行動できるような間柄ではないのです。しかしながら、「敵の敵は味方」とでもいうかのように、彼らはイエスを追い落とすために、ここにきていよいよ結託したわけです。彼らには共通の危機感があったのでしょう。それがイエスの福音と言う新しい教え、あるいは権威ある奇跡的な行いというものが民衆の中で人気となってしまったために、もはや民衆たちはこれまでのように自分たちの教えを聞かなくなってしまうことです。イエスが真理に立ち、これまでの伝統的なあり方を問い、かつ神の御心を求めて生きていくその姿を、彼らは忌々しく、苦々しく思っていたのです。そのために既存の勢力である彼らが一枚岩のようになり抵抗する、あるいは結託してイエスを貶める必要性があったと言うことなのでしょう。しかしこれは、彼らの大切にしているものが信仰的ということよりも打算的で政治的な思惑であったこと。真理に立ったことではなく陰謀に基づいたものであることを明らかにしています。しかしながらこれは聖書学的な視点からすると、イエスがまさに神が選んだユダヤの主だった方々から迫害され、打ち捨てられた状況が成立します。しかし、そういうイエスだったからこそ、名もなく力もない、声も出せない、そして同じように主流派の人々から見向きもされなかった群衆一人一人の救い主となられたのです。

聖書に戻ります。人々は、イエスの言葉じりを捕らえて陥れようと思ってやってきました。彼らは言います。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」。(12:14)

この言葉は表面上、イエスを称賛しているように思えます。しかし、彼らの心の中にある意図を加えて受け取ったときには、きれいな賞賛の言葉とは思えません。むしろ、悪意を綺麗にオブラートに包んだ言葉のように思えます。つまり、彼らが言いたいことはこういうことです。「あなたは真実な方で誰をもはばからず真理に基づいて神の道を教えていると言うのなら、是非この質問に答えてほしい」。と言ったわけです。
「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めないべきでしょうか」。これを考えるためには当時のユダヤの状況を知らなければなりません。皇帝と言うのはローマ皇帝です。当時ユダヤはローマ帝国の支配のもとにあったので、税金はローマに納められることになっていました。当時はユダヤ国内においても当然ローマ法が用いられていましたので、納税は当然の義務です。しかしながら、ユダヤ人たちにとっては律法にとって正しいか間違っているかということが問題になりました。旧約聖書を読んでみると、「税」という概念はモーセが律法を与えた頃には登場しません、ユダヤ王国の時代に入ってから登場します。それまでは「神殿に献げ物をする」ことで、「貧しい人々への施し」など公共の福祉的な働きに回っていました。また律法にはもちろん「皇帝(カイサル)」という言葉も出てきません。ですから律法で正しいか間違っているかと問われるならば、皇帝への税金は律法には規定されていないから、正しいとも正しくないとも言えないというのが答えになるはずです。

さらに言えば、税ではありませんが、律法には成人男性が人口調査で登録する際、私たちの命の代償として神に支払われるべきものがあると書かれていますので、もし神か皇帝か、どちらに税を納めるのかと言われるならば、やはり神にささげるものだという理解があったのでしょう。しかし、問題をよりデリケートにしていたのは、律法がどういっているかということではなく、ローマと言う自分たちの国を占領しているやつらに税金を払うなんて、ユダヤ人としての自尊感情が許さないと言う民族的な不満だったと思います。事実、ローマへの納税を拒否してガリラヤのユダという人物が武装蜂起をしたことが聖書にも記されています。つまりそれくらい人々が気にしていた出来事だったのです。ですからイエスが「皇帝への納税」を是認とすると、ユダヤ人からの評判がガタ落ちする。皇帝への納税を否定すると、瞬く間にローマへの造反者になってしまうという、悪質でいじわるな質問であったのです。
イエスは、彼らの下心を見抜いて言っています。下心というのは日本語的な言い方で、直訳すると「偽装」とか「みせかけ」になります。つまり正確には、イエスはファリサイ派やヘロデ派の三文芝居を見破ったという言い方になります。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持ってきなさい」。デナリオン銀貨とは、当時ローマで流通していた一日分の労働対価を表す硬貨です。硬貨には、その当時の皇帝の銘と肖像が彫られています。
今年1月5日~3月10日まで福岡市美術館で永遠の都ローマ展が開催されていましたが、そこにも当時の硬貨が複数展示されていました。表面に時の皇帝の銘と肖像、裏にローマ建国の伝説に出てくる雌の狼に育てられた双子の男の子の肖像が彫られていたことを確認してきました。

イエスは言います。「これは誰の肖像と銘か」。彼らは答えます。「皇帝のものです」。再びイエスは言います。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この答えに人々は驚いたとあります。それは具体的にはイエスのこの返答が皇帝の尊厳を冒すことなく、かといって神を汚すこともなく、この質問を切り抜けたということになったからです。

でもわたしたちが気になるのは、イエスがここで言おうとしたのかということです。これだと答えがよくわからないと思うのです。皇帝のものって何でしょうか。神のものって何でしょうか。デナリオン銀貨は皇帝の銘が書いてあるから皇帝のものなのでしょうか。あるいは原材料を創造された神のものなのでしょうか。あるいは、先ほど律法には書いてないから「規定されていない」ということだってできたはずです。しかし、イエスはそのようには答えませんでした。ですからイエスは、律法に書かれている内容をただ言葉通りに捕らえるのではなく、その先にあるメッセージを伝えようとしたのです。

私たちがここで気になるのは、より根源的なことです。つまり皇帝という世の権力に服従するのか、神と言う天の権力に服従するのかと言う事柄です。私たちはどちらの答えを期待するでしょうか。私たちが生きているのは、この国なので国の法律に従うべきと言うべきでしょうか。それとも国もまた神の支配の中にあるので、神の教えに従うべきと言うでしょうか。恐らくイエスのところに来たファリサイ派は神を優先することを期待していたと思います。逆にヘロデ派は世の権力が上だと言ったことでしょう。

デナリオン銀貨のことでいうとしたら、銀貨の発行権は帝国にあります。それは皇帝のものであると言えるでしょう。しかしその銀貨に刻まれた皇帝も神の支配の内にある限りのある人間の独りにしかすぎません。帝国もまた神の支配の中にあるものです。ローマ帝国は、当初キリスト教を迫害しました。国が認めた宗教しかダメだと言うことであれば、そもそもキリスト教はイリーガルな存在であったわけです。しかしながらそんなキリスト教が、ローマ帝国内に拡がり、313年コンスタンティヌスがミラノ勅令でキリスト教を公認し、380年テオドシウスによって国教とされました。これによって、人の支配は神の支配に勝てないということを証明しました。しかし、ここで神の支配というのは、律法を厳格に適応して頑迷に生きたことで得られた結果ではなく、むしろイエスの福音に生かされた人々が長い年月をイエスの言葉を大切に守り生きていった結果、実を結んだものであることに心を留めたいと思います。

私は、ここでイエスが言っているのは、あれかこれかではないのだと言うことだと思うのです。私たちは、神に属するものとして生かされていますが、この世の内にいのちを与えられています。どちらかのみに属すということは出来ません。例えば神の言葉が正しいと言ったって、その律法を厳格に規定すると人を縛るものになってしまいます。イエスが律法を引用して答えなかったのは、その通りにすることが神の御心ではないと知っていたからです。むしろ本質的なものは愛である。イエスは律法の通りにではなく、律法を完成させる神の愛に生きていました。それは律法に縛られたようにではなく、むしろ自由になってこの世に生きていたということです。それはあれかこれかということではなく、むしろ神の造られたこの世の中で、神の言葉によって生かされると言うことなのです。これが、私たちにとって「神のものを神に返す」ことになるのです。つまり、あらゆる束縛から解放されて、神が私たちに与えられた最初の思い、御心の通りに生きるということです。

神の言葉には広がりがあります。ここに書かれているからと言って、それだけで終わるものではなく、そこから出来事となって広がっていく物語であるのです。私たちは、あれかこれか、ではなく、この世に生かされる神の民として、イエス・キリストの福音に生かされ、また愛を行っていくことを通して、主の使命に応えて参りましょう。それが私たちの神への感謝の応答になるのですから。

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