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2024年9月22日説教全文「聖書はイエスを証しする」牧師:西脇慎一

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〇ヨハネによる福音書 5章39~40節

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

〇説教「 聖書はイエスを証しする 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。9月も下旬に入りましたが、依然として残暑厳しい日が続いています。今週も皆さんの心と体のご健康が守られますように。日々の歩みの上に主の恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りしています。

本日の礼拝は、「教会学校月間」として、教会教育を覚えて主日礼拝を守ります。皆さんもご存知のように、日本バプテスト連盟に加盟する教会では、全年齢層の教会学校を行うことを大切にしています。しかし実はこれは当たり前のことではなく、キリスト教バプテスト派の特徴的なことです。他派の教会では教会学校と言えば、子どもたちが聖書を学ぶ場所であると考えられており、大人クラスはあまり設けられていないことが多いです。それでは何故バプテスト教会は全年齢層の教会学校を大切にするのでしょうか。それは、私たちが教会を、礼拝を献げる場所とするだけではなく、主体的な信仰生活の柱とするため、教会学校という聖書を学び、信仰を深める機会が不可欠だと考えているからです。

日本バプテスト連盟が制定している教会学校の目的は、次の通りです。「教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人々がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある」。

つまり聖書は神を信じるために学ぶものではなく、信じた後も、信仰生活を生きるために必要だと言うのです。それは言い換えれば、私たちが日々神さまからのメッセージを受けて、信仰を強められて生きていくために聖書の学びが大切だ考えているということです。私たちは礼拝に来ることで信仰を表すだけではなく、生の全領域でキリスト者として生きるために、礼拝で神の御言葉を受け、教会学校で聖書を学ぶのです。これはまさに生涯学習、終わりなき学びです。聖書は一回読んで正解を理解して終わるものではありません。読むたびに受け取る内容が変わる神さまのメッセージであります。もし聖書に答えがあり、それを解説書を用いてお話しすることが説教であるのだとしたら、こんなに簡単なことはありません。「ここにこう書いてあるから、こうしましょう」でも、それは福音を律法のようにしてしまうことです。聖書はそういうものではありません。たとえ同じ聖書箇所だったとしても説教の内容が変わったり、たとえ同じ説教だったとしても、受け取るメッセージは変わってくるのです。それが「聖書が神の言葉」と言われるゆえんです。私たちが聖書を読むのは、その神のメッセージを日々新しく受け取っていくためです。

もう一つ大切なこと。それは、聖書を学ぶことが教会を形作るのだと言うことです。バプテスト教会は民主的な運営を大切にする教会です。一人一人の教会員がこの教会を運営する権利と義務を持っています。つまり、教会が今年何をするか、その方向性あるいは予算を決めたり、牧師の任命委託権も私たち一人一人のものです。しかしそのような権利と義務を持っている教会員が聖書を学ばなければ、何を基準に教会を運営するか、その目的も、その方法も、その根拠も不明になってしまいます。キリスト教会には色々な組織体をしている教会があります。いわゆるトップダウン型の教会では、教会員にはそこまでの責任はありません。上の立場のしっかりした学びを受けた教職者集団が全てを決めて、教会員はそれを守るという組織体であるからです。しかし民主的な教会、ボトムアップ型のバプテスト教会は、会衆一人一人の信仰と知恵と選択が必要なのです。なので、聖書を学び、今、主なる神がこの教会に何を望んでいるかを祈り求め、今年度取り組んでいくことを共に決断し、歩んでいくことを大切にするのです。いつまでもお客様のようではいけません。そのために共に聖書を学ぶ教会学校があるのです。教会学校は信徒や礼拝出席者の交わりの場にもなります。そのため「平常伝道の場」とも呼ばれます。顔と顔を合わせる語らいの中で、その人がどういう経緯で教会に来るようになったのか、神と求めるようになったのか、互いを知り、祈り合い支え合う関係性が生じます。今、教会学校初心者クラスではまさにそのような交わりの時を大切にしています。是非、皆さまにもご参加いただきたいと思います。

さて、聖書を学ぶということですが、私たちはどのように聖書を読んでいるでしょうか。この問いは、聖書と自分の関係を振り返らせます。私たちが聖書を読む習慣についてもそうですし、聖書をどのように捉えているかということも関わってきます。例えば、聖書を「誤りのない神の言葉」と読むか、「聖霊の導きを受けた人が書いたもの」と受け止めて読むかで大きな差が生じます。前者は「聖書は全て正しい」と考えます。後者は「聖書を批判的・学問的」に読みます。批判というと信仰に相反するように思われるかもしれませんが、実は聖書をしっかりと吟味することであり、信仰を強め、確かにするものです。特に旧約聖書には文化的な背景、当時の因習も深く関係しています。極端に言えば、イスラエルを特別に優遇し、異民族にはまるで存在していてはいけないかと思えるほど、厳しく接する神の姿も描かれているわけです。そうであるならば何故神は異民族をも創造されたのか、全能の神なのにおかしいとわたしは思ってしまうのです。しかしもしそれをまるっとすべて信じるのであれば、まさに今イスラエルがしていることが正当化されることになるわけです。しかし批判的に考えるならば、旧約聖書がイスラエル民族の物語であるから、他民族に厳しい書かれ方をされていると考えます。

実はイエス・キリストもまた批判的に旧約聖書を読んだ方でした。マタイによる福音書5章「山上の説教」では、イエスのいくつかの教えがありますが、「あなたがたは○○と聞いている。しかし私は言っておく。○○」という形で言っているからです。たとえば43節は「あなたがたも聞いている通り、隣人を愛し、敵を憎めと教えられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」。このように、イエスは当時の常識、慣習をとらえ直し、神の教えを再定義したのです。イエスの言葉では、「神」は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方です。そして神は「完全」といいますので、つまり特定の民族だけではなく、すべての異なる立場、民族も国籍も信じている神も異なる者を愛される神であり、その命を喜ばれ、尊ばれる神であり、小さく弱い者たちと共に生きて行こうとされる神であると受け止めるのです。ですから、聖書をどのように読むか、ということは極めて重要なことです。
今日の聖書箇所で、イエス・キリストが言おうとしていることはこれと同様のことだと思います。聖書個所をもう一度読みます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。

これは、聖書というものの中に永遠の命があると思って調べているユダヤ人、ファリサイ派の人々、律法学者と呼ばれた方々に告げられた言葉です。彼らは聖書(つまり旧約聖書)を研究し、それを守ることで、永遠の命を得ることができると考えていました。律法学者はそのためのルールなどを作っていたと言えるでしょう。「これをしてはいけない。これはこう行わなければいけない」。彼らはまさに律法主義者となり、それを行って生きることが正しいことだ、それが守れない人は罪びとだと差別をしていたのです。
しかし、イエスはそれが正しいとは言いません。「聖書はわたしについて証しするものなのだ」。つまり、聖書の教えを一言一句守ることが正しいのではなくて、まさにイエス・キリストが福音書の中で行ったように、神の愛を行うことが正しいことなのだ。律法を順守することで自分を正しいとするのではなく、隣人に神の愛を行うことで、神の目に正しく生きること。これが神が私たちに願っている道であると言うのです。ですから、わたしたちもまた聖書を読むときに、どう生きるのが正しいか、ではなく、イエス・キリストの教えからチャレンジを受けて、隣人と出会って生きることが大切と言っているのです。私たちは時々、聖書の言葉を振りかざして人を裁くことがあります。しかし聖書は正しさを正当化するための道具ではありません。むしろ神の愛を受けている私たちが、その神の愛を行うように、悔い改めを受けて歩み出すためのものなのです。ですから、私たちが聖書を学ぶということは、イエスの言葉を受けてそれを行って生きるために、私たちは聖書を読むのです。

私は、今回の説教を準備しているとき、ずっと一人の人のことが頭から離れませんでした。それは先週15日に主の御許に召されたFさんのことです。Fさんは、ご病気のためこの10年ほどはあまり教会には来られませんでした。しかし、西南学院大学商学部在学中の20歳の時に洗礼を受けられ、86歳で神の御許に召されるまで、実に66年に及ぶ長い間、この教会で信仰生活を守って来られました。会員の方々はそのお人柄思い出を葬儀の時に思い出されたと思います。
私は実は残念ながら生前にはお会いすることができませんでした。しかし、皆さまからお話を聞いたり、書き残された文書を見たり、かつて礼拝で語ってくださった説教の音声を聞く中で、Fさんと出会うことができました。本当に素敵なベースの声で、深く聖書に親しまれていたように感じました。特にご家族にとって印象的な姿が、いつも聖書を読んでいる姿であったということです。あまり外出をされなくなったここ3年ほど、枕元に聖書を置き、ずっと聖書を読んでおられたようです。聖書を最初から最後まで読むことを、「通読」と言いますが、ご家族の方からは恐らく何十回も通読されていたのではないかとも伺いました。

聖書好きが高じてか、無料で聖書を学校やホテルに配付するギデオン協会のお働きもされていたようです。Fさんの聖書を見せていただきましたら、色々なところにメモ書きが挟み込まれていました。その聖書を手に取るだけで、本当によく読んでおられる姿が目に浮かぶようでした。
Fさんが教会に来るようになったきっかけは、高校生の頃に鼻の病気を患い、それが癒される奇跡的な経験があったと言うこともありますが、浄土真宗の家に育ったにもかかわらず、初めて通ったのが西南学院雄舞鶴幼稚園であったこと。幼い時から神さまに触れる中で、神さまを求める気持ちが心の中にあったのではないかと思います。また当時は戦争末期で1945年6月19日の福岡大空襲でもご自宅が被災されていますので、特に命や平和についての思いが強かった方であると思います。

Fさんが何回も何回も繰り返し聖書を読む理由、それは聖書の言葉をつらつらと読んでいただけではなく、イエス・キリストの言葉から神の愛をいただく一方で、本当に大切なもの、神が私たちに願っている生き方、そして自分の生きていく道の原点に日々立ち戻ることが大切だと思っておられたのではないかと思うのです。

そんなFさんが「いちばん好きな聖書箇所ってどこなの?」とご長男さんに問われた時の答え。それが、ヨハネによる福音書3章16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これは、イエス・キリストの言葉であり、聖書の中の聖書と呼ばれる箇所です。神の愛と呼ばれるイエスがこの世に来たのは、神が世を愛したためであった。神が世を愛しているからと言って、何もしるしがなければ私たちにはその愛はわかりません。愛は出来事になって初めて伝わります。イエスが神の愛だ。それならば、私たちはイエスとの人格的な出会いの中で神の愛というものに触れることができるようになります。でも、実はそれが聖書が一番伝えようとしていることなのです。

残念ながら、私たちの目には神は見えません。しかし、神が共におられるということはそれを信じている人の生きざまに見えるものです。Fさんの愛された主イエス・キリストは、まさにFさんにとって、救い主でした。そして自分の歩むべき道であり、そしてそれが私たち周りの人に伝わる歩みであったのではないかと思います。若き日に蒔かれた一粒の福音の種は、Fさんの心の中にしっかりと根付き、芽生え、花を咲かせたのではないでしょうか。

キリスト教教育が大事だと言うのは、聖書の語るイエス・キリストと自分自身が出会って救われること。それが、わたしたちの生き方を支える力になるからです。「信じる者は救われる」。もちろん信じない者にも救いは開かれています。しかし信じることがなければ、その教えをしっかり受け止めることに繋がりません。信じること、これが私たちの力になるのです。

共に聖書を読み、イエス・キリストと深い交わりから感謝と喜びと希望とを頂いて参りましょう。

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