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2024年12月8日説教全文「失われたものを探し求める神」

〇ルカによる福音書 19章1~10節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。

〇説教「 失われたものを探し求める神 」

みなさん、おはようございます。オンラインで礼拝されている方もおはようございます。本日は、クリスマスを待ち望む待降節(アドヴェント)の第二の礼拝です。このアドヴェントの季節は、救い主誕生の意味を改めて黙想し、神の愛を改めて受け取り直す4週間です。本日の礼拝の始まりには、二本目のアドベントクランツに火を灯しました。このキャンドルキャンドルには「平和」という意味があります。平和は私たちが今年一年、ことさらに祈り願ってきた事柄ではありますが、キリスト教における「平和」とは、ただ単純に戦争が終結し、争いがなくなる状態を指す言葉ではありません。実は、私たち一人一人が肉的にも霊的にも精神的にも満ち満ちている状態を表す言葉です。イエス・キリストはこの平和を私たち一人一人に与えるためにこの世へやって来られました。このことを今日の聖書個所から受け取っていきたいと思います。この時期、神の愛を黙想しつつ、皆さんの心と体のご健康が守られ、すべての人の歩みが平和のうちに守られますようにお祈りしたいと思います。

私たち西南学院教会は、今年のクリスマスのテーマを「神よ、今こそ救い給え」としています。聖書ではよく、救いというと「罪からの救い」と語られることが多いのですが、果たしてキリスト教会でよく使われる「救い」とはどういうことか、共に考えてみるため、実際にイエス・キリストに出会って救いを得た人物の物語をお話ししたいと思います。今日はルカによる福音書の徴税人ザアカイの物語です。

この徴税人ザアカイのお話は聖書の中でも特に有名で、絵本などでもよく取り扱われるお話です。恐らく教会員の方々は「ザアカイ」という名前を聞くだけでお話の概要をイメージすることができるくらい親しみのあるお話しだと思います。でもザアカイさんの正式名称が、ギリシャ語では「ザカイオス」という少々いかつい名前であることはどれくらいの方が知っておられるのでしょうか。何故ザアカイと訳されたかはわからないのですが、もしかして彼の出来事がとてもユニークでチャーミングだからかもしれません。もう一度ざっくりと話を振り返ってみましょう。
ザアカイはエリコの町に住む徴税人の頭でした。エリコとは、世界最古の城塞都市と呼ばれることもあるヨルダン川西岸の街です。現在はパレスチナ、ヨルダン川西岸地区に位置し、先週の世界バプテスト祈祷週間の祈祷会でお話しくださったサラームが活動しているエリアに近い街です。
その村にイエス・キリストがやってきました。ザアカイはイエスのことを「どんな人なのか」と気になっていたようで、会ってみたいと思い出かけました。ところが通りには群衆が集まっていて、背の低かったザアカイはイエスさまを見ることができませんでした。そこで彼は先回りしてイチジク桑の木に登り、イエスさまを見ようとしたのです。イエスはそこまで来た時、彼を見上げました。そして「ザアカイ」と呼びかけ「降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。ザアカイは急いで降りてきて喜んでイエスを迎えたというストーリーです。そして彼は何故か自発的に貧しい人々への施しと、人から騙し取っていたものがあれば4倍にして返済するということを約束しました。イエスさまはそのタイミングでザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」と告げるわけですが、何故ザアカイがそのように言うことになったのか、そしてイエスが告げた救いというのは一体なんであったのかということを今日はお話ししたいと思います。

聖書を読んだだけでは彼の心に起きた変化についてわかりませんので、彼の情報をもとに、当時の事情を少し加えながら説明します。

ザアカイは徴税人の頭でした。徴税人とは簡単に言えば税金を集める仕事をする人、今でいう税務署の所長みたいな感じだったと思われます。取り扱っていた税金が住民税か関税かはよく論じられる事柄ですが、今日は詳しくは必要ないと思います。大切なのは、彼は「徴税人の頭」ですから、社会的地位は高く、経済的に恵まれ、普通にこの世的に見れば成功者の一人として見られていたはずの人であったことです。しかしながら残念ですが、徴税人は人々から税金を取り立てるという仕事の性質上、あるいはそのイメージによって妬みやそしりを受けることがありました。しかもその税金がユダヤ人同胞の公共の福祉のために使われるのではなく、自分たちの国を支配していたローマ帝国に納める税金の取り立てでありましたから、ユダヤ人たちからは、あいつらは非国民だ、裏切り者だと非常に忌み嫌われていたわけです。
実は徴税人はユダヤでは、裁判の証言者として立つことができない決まりになっていたそうです。それは「お金で転ぶような奴だ」と見られ、言葉が信頼されないとみられていたからかもしれません。もちろん不正な富を得ながら働いていた人はいたのでしょう。しかし、もちろんまじめにやってきた人もいたのではないでしょうか。税金はお金に関わる仕事ですので、頭がよく計算できなければ務まりません。またある程度信頼できる人でないとやはりその働きは任せることができなかったのではないかと思います。
しかもザアカイもといザカイオスという名前には、「純粋」とか「義人」とかいう意味を込められていたので、非常に忠実な人であったのかもしれません。私たちは「徴税人」という響きだけで人を色付けして勝手に判断してしまうことがあります。しかしそれは徴税人を裏切り者としてしか見ていなかったユダヤ人の色眼鏡と変わらないことになってしまいます。それではいけないのでしょう。

しかしながら聖書には、徴税人というレッテルへの悲哀について書かれています。例えば徴税人マタイがイエスの弟子となった時、彼は家に徴税人の仲間を呼び集めて宴会を設けますが、それを傍から見ていたファリサイ派の人々は、「なぜあなたたちは徴税人や罪びとと共に食事をするのか」とその場を凍り付かせるかのような発言を堂々とされていることからもわかります。
つまり、彼らにとって徴税人はまさに人間ではない扱い、私たちとは関係のない存在であると差別して切り捨てている証拠に他なりません。人として見られない人。しかし、イエスはそのような人々の友となられました。そしてこう言うのです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためなのである」。(マタイ9:13)

ザアカイが、そのようなイエスの出来事を知っていたかどうかはわかりません。しかし、彼はまさに他の徴税人たちと同じような環境の中で生きていたのです。さらに言えば、彼の住むエリコの街とは、実は出エジプトの民がヨルダン川を渡り最初に入ってきた町であり、神の言葉を忠実に守ることによって入ることができた町ですので、古い名残、しきたりというものが非常に強く残っていたことが考えられます。彼は、そういう状況の中で「救い」というものを求めていたのではないかと思われます。

そんな時にイエス・キリストがやってきました。ザアカイはそんな噂を聞き、会いに行きたいと思ったのです。ところが行ってみると、人だかりができていて、彼は背が低いために見ることができませんでした。彼は、それならと、先回りをしてイチジク桑の木に登りました。普通の大人であれば、しかも立場があればあるほど気に登ったりはしないものだと思いますが、彼は恥も外聞も気にせず、自分の心に忠実にイエスさまに会うことを求めました。彼の心にどれほど真剣な求めがあったが考えられます。そしてついに、彼はイエスに出会うことになったのです。
ところがなんとイエスが木の下までやってきた時、イエスは彼の名前を呼びます。初めて会うことになったザアカイをなんで知っているのか、ということには疑問が残ります。神の子だから知っていたと言われたらそれまでですが、もしかして街中でザアカイのことが噂されていたのかもしれません。それはあとから出てくる人々のつぶやきの中で皮肉のように言われていることであります。しかしザアカイは周りの人々の目線や言葉には戸惑わせられることなく、イエスさまの声に応答し、「今日、ぜひあなたの家に泊まりたい」という招きに応えたのです。

さて、ザアカイにとっての救いとは、イエスさまに声をかけられたことだったのでしょうか。もちろんそれが一つのきっかけになったことは疑いの余地がありません。もし自分がどういう存在かを知っていて、それでもあえて自分のところに来てくれるなんて、誰もいなかった。だから感動しかありません。「あるがままの自分を受け入れてくれる人が一人でもいたら、人は希望を失うことはない」と言われますが、まさに彼がずっと願っていた心にイエスが来てくれた。これがザアカイがイエスに心を開く瞬間になったのだと思います。
しかしイエスが彼に対して「救いが訪れた」と語ったのは、この時ではありません。実はより大切なことは、ザアカイが自分からこのイエスに応答して自分の歩みを変えていくことを宣言したことなのです。わたしはどうしても思うのです。ザアカイは何故徴税人を辞めなかったのだろうかということです。と言うのは、状況だけを見れば、彼は徴税人だという理由で仲間外れにされていました。もし耐えられないのであれば、その仕事を辞めればよかったのだろうと思うのです。しかし彼はそうしませんでした。何故彼がその働きを辞めなかったのか、それは恐らく、その働きがやはり必要な働きであったからだと思うのです。もし自分が辞めたら他の人がやらなければいけなくなる。それでその人が憎まれることを考えるのであれば、と考えると辞めることは出来なかったのではないかと思うのです。
ですから彼は誰にも理解されなかった。しかも背が低かったと言うことでコンプレックスがあったのかもしれません。だから彼はその心の隙間をお金で慰めようとしていたのかもしれません。もっとも彼はお金を使う間もなくまじめに働いていただけかもしれません。しかし、彼はこの時ばかりは立場とか名誉とかお金とかそういうものにしばられずにイエスさまに出会いに行ったのです。そしてその出会いの中で彼は変えられて行ったのです。

イエスは、何故このザアカイのところに行ったのでしょうか。その理由もわかりません。しかしイエスは、ザアカイに罪深い徴税人を辞めて私について来なさいとは言われなかったのです。むしろわたしはそのままのあなたのところに行く。この信頼によって、彼は変わったのです。ザアカイはイエスの招きに応え、彼を家に招き入れた後、自発的に主に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。イエスが彼にそれを求めていたわけではありません。しかしザアカイにとってはこのように応えることが必要だったのだと思います。ザアカイが変わっていくために、恐らくこれまで自分を守るために必要としていたお金が必要がなくなったということであり、むしろイエスによって彼が満たされということを表しているからです。
実はむしろ、この出来事の中でイエスと巡り合っても変えられていないのは、群衆です。彼らはイエスさまの出来事を見ていただけですが、見ていただけでは何も変わりませんでした。「人の振り見て我が振りなおせ」と言いますが、彼らにとってはそれは自分の出来事にはならなかったのです。そうではなく変わろうとしている人に冷ややかにつぶやくくらいです。大切なのは呼びかけや招きに応えて木から降りること。自分のいた場所から降りること。その言葉に自分の出来事として応えていくことが何よりも大事なのです。
救いとは、世の終わりの時に天国に行けることではありません。地獄から助け出されることではありません。むしろ今を生きている私たちがイエスとの出会いの中によって、平和が与えられ、希望が生まれる出来事です。ザアカイにとっては非常にわかりやすい出来事ではありますが、先ほどお話ししたように、決定的に重要なのは、そのイエスの言葉に私たちがどう立ち返り、応答して生きるかと言うことなのです。イエスさまが来てくれてそれでOKではありません。それを自分の出来事にしていくことです。むしろ自分の決断の中で、自分に与えられたものを自分だけのために用いるのではなく、人のために用い、共に生きていくことを決めた時に、イエスさまはザアカイに対して「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されているからです。そしてそれはザアカイが神の平和に満たされたことを意味しているのです。
もし神さまが与える祝福というもの、或いは救いというものが「個人的な繁栄」であるならば、彼はイエスが来た時に既にそれを受けたはずです。或いは、イエスがやって来てくれたことで得る「個人的な赦しや個人的な満たし」であったとすれば、彼が何をしなくてもイエスは彼に救いを宣言していたでしょう。しかしそうではないのです。彼にとっての「救い」とは、自分だけで生きていた世界から、自分で隣人と共に生きていくために自分に与えられたものを用いることを決めた時に、救いが来たのです。つまりそれは自分だけの世界からの解放です。「人の子は失われたものを探して救うために来た」。イエスはわたしたちを交わりへ召され、共に行くように「共に生きていくため」に出会いを与えているのです。私たちにはその言葉が今向けられています。アドベントの時、共に祈って参りましょう。

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